うねうねとふわふわ - 秘密結社「喫煙所」(第13通目)
「選択」というと、映画「マトリックス」シリーズを思い出すなぁ。機械が人間を支配した後の世界観で、ストーリーが複雑すぎるから端折るけど、そこに「選択」を司るプログラムが出てくる。機械は「どうやら人類にとって選択というものは大事らしいぞ」と気付くんだよね。選択は不確定要素だから、機械が求める完璧さとは相性が悪くて、だからこそ、人間側の在り方を問うように話が進んでいくんだけど。選択は人間らしい行為なのかもね。
選択するときは、自分の内面から滲み出た選択肢を選ぶときもあれば、なんとなく周りに流されて選んだりもする。誰かと一緒に選ぶということがあったりもするよね。
そして、自分ひとりで決めたと思えることでも、もしかしたら、誰かの影響を受けているかもしれない。本や友人、たまたま電車で隣に座った人たちの会話。仏教や神道、キリスト教などの文化や精神が入り混じる、日本で教育を受けたこと。それら全てが下地にあるとするならば、自分ひとりの選択であるのか。
だけど、俺はそこで「ほんとに"自分ひとり"で決めたと言えるのか?」という問いを、あえて立てないでおきたいのだと思う。不意にわかってしまうようなこともあって、なるほどなぁと思ったりはするけど。
人生は楽しいときもあれば、苦しむときもある。それが人生だ。って、すっごく陳腐に聞こえるよね。だけど、ほんとにそうだなって、最近思っている。選択に対する態度も、それに近いかもしれない。人生は楽しいもの、人生は大変なもの。どちらと断定するのはなんか違くて。うねうねしていて、ふわふわと漂っている捉え方をしておきたい。
選択もそうなんだと思う。前回の「自立」という問いで、「自分の足で立つことは、ひとりでもないし、誰かと一緒でもないような気がする」と書いたけど、そのふわふわとした感覚に近いと思う。
あとは、選択は「正しさ」に向かおうする行為なのかもしれないね。だからこそ、その「正しさ」を問い続けたいとは思ってる。
というか、「これが正しいんだ!」と思い込んだら危うい気がする。自分が腹落ちした感覚は、正しさに変わると、それを手放さないことが目的になってしまう。変わることを拒もうとする。眉間にシワを寄せる。身体が強張る。余白がない状態。ユーモアが足りてない。人間くささがない(でた)。
問い続けるって、そういうことなんだと思う。自分の中の正しさが確立しないならば、永遠に不安を拭い去れないじゃんって思ったりした。だけど、腹落ちして、また変化していく。それは気楽でいいなって思った。正しさにしがみついて怖がるよりもよっぽど。気楽に構えて生きていたい。
とはいえ、その変化のペースは自分で持っておきたいとは思ってるよ。誰かに渡したくはない。「オソイホド ハヤイ(モモより)」とカシオペイアも言ってたよね。その塩梅はあるんだと思う。
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「自分ひとり」についても、書いてみようと思う。ひとりで決められないと、支えがなくなったときに生きていけない不安。だけど、自分は周りの影響で決めているように思える、という葛藤がタオさんの中にあるのかな。全然違ったらごめん笑
よく話すけど、「孤独」というものを何度も捉え直すようにしている。人間という生き物は、孤独を最も恐れているのかもしれないって思っていて。だけど、自分と他者は違う人間であり、わかりあえなさというものがある。たとえ、どんなに人に囲まれていたとしても、孤独とは一生の付き合いになるんじゃないだろうか。
孤独を受け入れることは怖い。寂しいのはやっぱり嫌だし、違う人間同士だとしても、誰かにわかっていてもらいたい。それがまぼろしだとしても、しがみつきたくなる。だから、誰かと一緒にいるために、孤独を見ないふりをするために、顔色を伺う。自分じゃなくて他人の声に従おうとする。そして振り回されて、疲弊したりする。俺もそういうことは全然ある。ほんとに孤独との付き合い方は悩ましいと思う。
なんだけど、この孤独を受け入れてみると、むしろ光が差してくるような感覚があって。孤独を認めるというか、そうか自分と他の人には違いがあって、伝わったと確かに思えることもあるけど、全部まるごと理解されることはないのかもしれないな、みたいな受け止め方。孤独こそ高みとか、所詮孤独だから人付き合いなんて無意味とかじゃなくてね。あくまでもふわっと。
孤独に対してこう捉えてみたら、出発点は「自分」であると思えるようになってきた。初めて自分の足で大地を踏みしめた気がしたわけだ。孤独を受け入れたことで、よっぽど孤独じゃないみたいな感じになった。
そうなると、人と関わるときの捉え方にも変化が起きてね。他者からの摩擦で悩んだとしても、自分に「どう捉え直そうか?」と問えるから。いつだって、自分で問い直せると思うと、なんとかやっていけそうだなと思えたりするんだよね。
選択は自分ひとりでも誰かと決めたのでもなく、ふわふわとした感覚と最初に言っていて、矛盾していると捉えられるかもしれないけど、出発点は自分であると思えるのは、「自分ひとり」で選択していると言えるのかもしれないよね。周りの影響で選択したとしても、自分の精神世界でどう捉えるかという部分は、いつだって自分ひとりに委ねられている感じかな。
ただね、最近思うのは、こういう捉え方でいられるからこそ、ひとりだけではできないことをもっと知ったり、試してみたりしてもいいのかなって思った。ときには、ひとりから開いてみる。ふたり、それ以上、いや大人数は好きじゃないから4人ぐらいまでかな。
具体的に何かと言われたら、まだわからない。誰かと一緒にいるために、孤独を見ないふりすることには気をつけたい。だけどなんだか、そのうち開いていけそうな気がしている。ひとりかそれ以外かの2択じゃなくてね。
もしかしたら、タオさんはひとりで決めること、あるいは誰かと決めることに対して、なにか不安のようなものがあるのかな?
前回の問いでも、偏ったものに寄りかかりすぎないようにしたいと言ってたよね。だから今回は問い返しをしてみたい。
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書きたいことがたくさんあって、長くなった。断定口調でビシッと書けば文字数も減るのかもしれない。だけど、捉え方は変わるって想いを込めたいから、ふわっとした言葉遣いで書きたくてね。最近、香山哲さんの本をすすめたけど、香山さんの書き言葉がすごく好きだと今気付いた。自分に聞いて書いてるって感じがするんだよね。俺もそういう書き方をしてみたかったのかもしれない。
【今回の問い】
【前回の問いと返事】
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