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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その二 おはまの一件始末 8

 寺社奉行所に戻ると、与力の孝三郎が慌てて呼びにきた。いますぐ、御手洗さまのもとへ行ってくれ、昼からずっとお待ちだと言うのだ。

「何用でしょう」

「あまり良い用件はないと思っていたほうがいいですよ、あの人のことだから。また、ここの書き方がおかしいとか、字が間違っているとか、そういうことでしょう。真実(まこと)に細かいんですから」

 孝三郎は、うんざりしたように言った。

 新兵衛も、毎回泣かされるとぼやいていた。

 惣太郎は、覚悟を決めて用人の部屋へと入った。

 上座に、蝦蟇が座っていた。

 いや、もとい、御手洗主水(もんど)である。顎の張った、下唇の分厚い、本当に蝦蟇のような男だ。孝三郎にきつい視線を向けたあと、惣太郎を睨みつけた。

 酷く怒られるだろうと思った。

 が、意外に優しい口調で、

「立木殿、江戸見物はいかがでしたかな」

 と、尋ねてきた。

「はっ、いえ、江戸見物はまだ……」

「おや、それでは本日、どちらへお出でに」

「板橋のほうへ」

「おやおや、岡場所にでも行かれましたかな。どうですか、江戸の女子は」

「いえいえ、とんでもございません。いま、もう一件抱え込んでおりまして、その調べをしてまいりました」

「それはそれはご苦労なことですな。拙者はまた、江戸に来られたので、羽を伸ばしていらっしゃるのかと思いましたよ」

「いえ、とんでもございません」

「そうですとも、とんでもないことでございますよ。御奉行さまに〝お声掛り〟を上申していらっしゃるのに、その間に奉行所を出られるとは。他の一件のお調べのためといっても、あまり感心はしませんね。もし、火急に御奉行さまからのお達しや、お尋ねになりたいことがあったら、そのとき肝心のあなたがいなくて、どうするのです」

「はっ、まことに相すみませぬ」

 惣太郎は頭を下げる。

「いいですか、〝お声掛り〟となると、御奉行さまだけなく、奉行所全体も巻き込むことになるのですよ、当事者が別の案件でいない、不在というのはどうでしょう。こうときは、ひと段落つくまで奉行所に留まるのが筋というものです。我々も……」

 この後、半時に渡って説教が続いた。

 惣太郎は、ただ平謝りするばかり。

 なるほど、孝三郎や新兵衛が嫌がるのも無理はない。いやはや、なんとも、ねちっこい。俎板の上の鯉を、あっちに切れ目を入れて、こっちに切れ目を入れて、腹をちょっと開いて、背中を少し割いてと、こねくりますような感じだ。それならいっそのこと、だんと一気に止めを刺してほしい。清次郎の鋭い突っ込みのほうが、はるかにましだ。

「……というわけです。分かりましたか、立木殿」

 ようやく小言が終わって、後半は殆ど聞いていなかったのだが、惣太郎は神妙に頭を下げた。

 ごほんと孝三郎が咳払いをして、場の雰囲気を変えた。

「それで、御手洗さま、お呼びとはなんでしょうか。もしや、書状に不備がございましたか」

 孝三郎が尋ねると、主水はいやと首を振った。

「よく書けております。さすがは宋左衛門殿です。立木殿、お父上の仕事ぶりを見習いなさい、決して磯野殿のような輩を見習っていけませんよ」

 全く口の悪い人だと思った。

「では、立木殿に何用でしょうか」

「もっと詳しい事情を聞きたいのです。そのために、半日待っていたのですから」

 主水は、半日を強調した。

 惣太郎は恐縮しながら、父から聞いた話を漏らすことなく伝えた。ときどき、主水に細かいところを突っ込まれて答えに窮するところがあったが、あらすじとしては十分だと思った。

 話を聞き終わって主水は、

「なるほど、なるほど、北町が係わっているのですか」

 と、酷く嬉しそうだった。

「これは面白い。よろしい、立木殿、この一件はすみやかに御奉行へとお伝えしましょう」

「ありがたき幸せ。それで、どのくらいで御奉行の裁可は下りましょうや」

「なに、すぐにでも下りますよ。なにせ、相手が北町ですからね」

 主水は、声を押し殺して不気味に笑った。

 用人部屋から下がって、あまりに早い事の運びだったので、聊か心配になって、

「本当に大丈夫でしょうか」

 と、孝三郎に尋ねた。

「大丈夫でしょう」

「それは、なぜですか」

 孝三郎は辺りを見回し、誰もいないのを確認して、それでもなお、念を入れて小さな声で話した。

「いまの北町奉行は、老中阿部さまのお気に入り、対してうちの御奉行は水野さまと懇意です。御承知の事と思いますが、阿部さまと水野さまは……」

 孝三郎は、右と左の人差し指を、まるで刀で斬りあうようにあせる。

「必然、北町奉行とうちの御奉行もそういう間柄というわけです。だから、相手が北の町方だと知ったら、御奉行も、すぐに〝お声掛り〝をして、その政吉とかいうやつを引っ張ってこいとなるわけですよ」

 父が言っていた ―― 女の幸せなど二の次。そこにあるのは、男たちの面子と意地。

 離縁まで権力争いの道具にしてしまうのだから、なんとも浅ましい。

 とはいっても、お陰でおはまの一件は、寺社奉行所の権威を後ろ盾にして事を進められるのだから、よしとしなければならない。

 惣太郎としても、父の使いを十分に果たしたことになり、初めての出役という大役をこなしたことに、ほっと安堵のため息を吐くことができた。

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