閑窓随筆 ~『法隆寺燃ゆ』当時の人はどんな服を着ていたの?
当時の人の服装を言葉で表すのって、なかなか難しいですよね。
マンガやアニメ、ドラマであれば、そのままイメージをストレートに伝えられるのですが。
かといって、それが必ず正しいとも限りませんが………………
さて、『法隆寺燃ゆ』の時代 —— 飛鳥時代にはどんな服装だったのか?
平安時代は、お雛様のような、男性なら束帯姿、女性は十二単ですよね。もちろん、庶民はあんな煌びやかな格好はしていませんでしたが。
戦国時代になれば男は甲冑姿で、時代がもっと下れば、今の和装とほぼ変わらないような衣装になります。
平安以降は、当時の絵画や文献が残ってますので、比較的イメージしやすものです。
が、飛鳥時代となるとどうでしょう?
よくあるのが、古代の中国 —— 唐の官吏ような服装に、勺をもって………………教科書に出てくる聖徳太子の肖像画のような格好と思われがちです。
残念ながら、あれは奈良時代の服装 —— 8世紀です。
聖徳太子といわれる肖像画も、いまでは後代の別人ではないかと云われています。
では7世紀ごろの服装となると —— 1972年に発掘された高松塚古墳の壁画の「西壁女子群像」が当時の服装を良く描いています。
『隋書倭国伝』には、「男子は裙襦(くんじゅ)を衣る、その袖は微小なり」「婦人は髪を後ろに束ね、また、裙襦・裳(しょう)を衣、皆撰襳(ちんせん)す」とあります。
裙襦・裳とも、スカート型の衣服です。
つまり、当時の貴人は、男女ともにスカートを穿いていたことになります。
ただ、中宮寺所蔵の『天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)』に、スカート姿にズボンを穿いた貴人や、ズボン姿の人物埴輪が見つかっているので、男性はスカートとともにズボンを併用して着用していたことが分かります。
恐らく馬に乗るために、ズボンを着用する必要があったのでしょう。
ズボンを履かずに騎乗すると、股が擦れて痛くなるので……………
では、弟成たちの奴婢や庶民の服装はどうだったのかというと、彼らが身に付けていたのは貫頭衣と思われます。
貫頭衣とは、袖なし、膝丈のワンピースと思ってもらえればいいです。
時代は遡りますが、『魏志倭人伝』には、「男子は皆露紒(ろかい)し、木綿を以って頭に招(か)け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は被髪屈紒(くつかい)し、衣を作ること単被(たんぴ)の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣(き)る」とあります。
男子の方を横幅衣、女子の方を貫頭衣と言いって分けていますが、形態的にはどちらも袖なし、膝丈のワンピースです。
当時、相愛の男女間には、衣服を交換して着る風習があったようで、この名前の違いは形態や男女間の別ではなく、その製法の違いにあったようです(武田佐和子『古代国家の形成と衣服制—袴と貫頭衣—』吉川弘文館)。
製法の違いといっても、横幅衣は二枚の横長の布を頭が通るだけの穴を開けて縫い合わせたもので、貫頭衣は一枚の大きな布の中央に穴を開けただけのもの。
手間の違いだけで、形は変わりないですよね。
この横幅衣・貫頭衣は、高温多湿で、水田を営む倭人たちには適したようで、腕をまくり上げたり、膝をたくし上げたりせずに、そのまま水田に入ることができますからね。
弟成の時代である7世紀になっても着られていたと思われます。
『隋書倭国伝』にもその記述があります。
その後も、僅かに形や場所を変えながらも残ったようで、前述の武田氏は、これが江戸時代の着流しスタイルの土台となったと考えていらっしゃいます。
服装ひとつとっても、当時の人々の思想や習慣、生活様式を表しているので、面白いですよね。
さて、後世の人が現代の我々の服装を見たらどう思うでしょう?
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