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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 21

 その時だ。

「お待ちください!」

 中臣鎌子の声が響き渡った。

 彼は、葛城大王の前に進みで、平伏する。

「葛城大王、これは間違いでございます。手が滑ったのでございます。大海人様は酔い過ぎておられて、それで手が滑っただけでございます」

 鎌子は、呆然と立ち尽くす大海人皇子に向き直り、

「そうでございますよね、大海人様。手が滑っただけでございますよね」

 必死の形相で問いかけている。

 問うというよりも、「手が滑ったとおっしゃってください!」と、お願いしているようだ。

 そこに、蘇我赤兄も進み出る。

「葛城大王、内大臣(うちつのおおおみ:鎌子)の言葉どおりです。これは座興の一種。その場で、たまたま手が滑っただけのこと。それで処罰など、逆に大王の名を汚します。大海人様も、本日の狩りで大変お疲れになったのでしょう。そこで余興をされたものだから、少々よろけられたのですよね。そうですよね」

 赤兄も、葛城大王と大海人皇子から「そうだ」の一言を導きだそうと必死だ。

 中臣鎌子、蘇我赤兄………………政権の中枢を担う2人が、それこそ政権を崩壊させかねないような葛城大王と大海人皇子の仲を取り持とうと必至だ。

 これは、大伴氏にとっては絶好の機会なのだが、大海人皇子の予定外の行動と、鎌子、赤兄の想定外の必死の執り成しに、その場を制する機を喪失してしまった。

 鎌子と赤兄の必死の仲介で、その場は何とか治まりそうな雰囲気になったのだが、やはりどうしても重苦しい空気が漂う。

 ―― この空気、どうすれば………………

 安麻呂も、いまにも飛び出そうとしていた態勢を解いて、席に戻りたい。

 だが、いま動くと空気が弾けて、また雰囲気が変わりそうだ。

 みんなも、どうすればいいか分からず、まるで時が止まったようにじっとしている。

 ―― 誰か、この空気を変えてくれ!

 と思った時だった。

 涼しげな声が、一帯を包み込んだ ―― 額田姫王である。

 

 

  あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る

  (紫草が生える野を、狩りの標を張った野を行きながら、

   そんなことをなさって……、見張りが見ておりますわ、あなたが手を振るのを)

  (『萬葉集』第一巻)

 

 

 詠い終り、額田姫王は唖然としている周囲の人たちを見て、にこりと微笑んだ。

「こういう余興もまた、面白いのでは? いかがですか、大海人様?」

 振られた大海人皇子は、一瞬戸惑ったような表情を見せたが、額田姫王の意図を理解したのか、すぐさま歌を返した。

「うむ、では……」

 

 

  紫の にほへる妹を憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも

  (紫草のように美しいあなた、憎いわけがないでしょう、

   憎かったら、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりはしませんよ)

  (『萬葉集』第一巻)

 

 

 その歌のやり取りを切っ掛けに、また場の雰囲気ががらりと変わった。

「これは面白い、では私が……」

 と、歌自慢たちの歌詠みが再び始まり、それを肴にまた酒が振る舞われた。

 安麻呂は、ほっと席に着いた。

 兄の御行や叔父の馬来田たちも、仕方なく自分の席へと戻り、また酒を飲み始めた。

 結局、今回の事案はこれで治まった。

 大伴氏の政変は失敗に終わった。

 まあ、失敗して良かったのだろうと、安麻呂は思っている。

 ―― 葛城大王と大海人皇子の仲も、これ以上拗れることもないだろうし………………うむ、それにしても、やはり歌というのは、その場の雰囲気を変えるほど、大きな力があるのだな、やはり私は歌に生きよう!

 と、やけ酒をくらって大騒ぎする大伴氏の中で、安麻呂はひとり強く決心した。

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