【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 後編 13
「それで? いつでも寺に来てええって?」
黒万呂は弟成に訊き、彼は頷いた。
「そうか、ええな、俺も見たいな、お釈迦様。ほんまに輝いとったんか」
弟成は、また頷いた。
2人は、大和一帯に広がった姿の見えぬ猿の正体を突き止めるため、仲間たちと一緒に山に入ったのだが、結局は何の収穫もなく山から降りて来るところであった。
最近では、黒万呂も大分落ち着いてきたようで、元のような明るさを取り戻していた。
「黒万呂、天女や! 天女が落ちてきとるぞ!」
「ほんまか、高人(たかひと)? 弟成、行こう」
子供たちが、沢の方を見て騒いでいるので、二人は駆け寄った。
「どこや?」
「ほら、あそこ!」
確かに、川の近くに誰か倒れている。
服装から、貴人に仕える女性のようだ。
「あら人やろ。どこかのお屋敷で働いとる女やろ」
「そんなヤツが、こげな山の中で倒れとる訳ないやろ」
「まあな……、ええは、行ってみよう」
子供たちは、黒万呂を先頭に沢に降りて行き、その天女に近づいた。
「も、もしもし、あの……、大丈夫ですか?」
川の水が静かに流れていく。
反応がない。
天女は、弟成と同じ子供のようだ。
黒万呂は、勇気を振り絞って天女を抱き起こした。
刹那、その顔が硬直した。
不思議に思った子供たちは、彼の顔を覗き込むとともに天女の顔も覗き込んだ。
彼らの顔も固まった。
「なんや、八重女やないか! なんでこないなところにおんのや?」
「さ、さあ、でも、生きとるんか? 黒万呂、どうなんや」
黒万呂は、子供たちに言われて、耳を八重女の口元に近づけた。
子供たちは固唾を呑んで見守っている。
川の音の方が気になるが、微かに息をしているようだ。
「大丈夫、生きとる」
「しかし、なんで、こんなもん着とるんや、八重女は?」
子供たちは首を傾げた。
「そんなこと、どうでもええ。友足(ともたり)と倉人万呂は大人を呼んで来い。後は、八重女を長屋まで連れて行くんや」
子供たちは、黒万呂の指示で動き出した。
が、やはり子供である。
ひと一人を担いで、山を降りるのは困難を極め、結局は、友足と倉人麻呂が呼んで来た大人たちが彼女を長屋まで担ぎ入れた。
八重女の件は、奴婢たちの間にすぐに広まり、運び込まれた長屋の前は人だかりの山となった。
彼らの興味は、八重女が帰って来たことよりも、八重女の着ていた服にあった。
奴婢が、売られていった先から逃げ帰ることはよくあった。
しかし、八重女のように貴人の格好をして帰って来ることなどなかったのである。
長屋の前は、野次馬でちょっとした騒ぎになった。
あまりの騒ぎに、八重女を介抱していていた黒万呂の母の三島女が、
「あんたらが表で騒いだら、八重女の様態が余計に悪くなるやないか! さあ、もう大丈夫やから、自分らの仕事に戻っておくれ!」
と、大声で追い払う始末であった。
「か、母ちゃん……」
黒万呂は、いまにも泣き出しそうな顔をしている。
「大丈夫や、いまは静かに眠ってるから。さあ、あんたらも仕事に戻んな」
三島女は優しくそう言うと、長屋の中に入って行った。
弟成は、その時、夜具に横たわる八重女の横顔を見た。
その顔は、余にも美しかった。
夜になって、八重女は熱を出し、その後、3日も寝込んだが、4日目には起き上がることができるようになった。
しかし、なぜ逃げて来たのか、なぜ貴人の格好をしているのか、話すのを拒んだ。
大人たちの間では、ある噂話が広がっていた。
「八重女は、まだ何も話さんのか?」
「全然」
「でも、なんで貴人の服を着て逃げて来たんや?」
「それがさ、乱暴された痕があるらしんやわ」
「まだ子供やど!」
「ほら、八重女、結構可愛いやろ。だから、貴人の相手をさせられたんやないかって」
「それで、逃げて来たって訳か? それはありえるな」
弟成は、この会話の意味するところが分かりかねたが、それでも、八重女が相当怖い思いをして、ここまで逃げ帰ったことは容易に知れた。
数ヶ月後、貫頭衣を着て、奴婢たちに混じって働いている八重女の姿があった。
彼女は、よく笑った。
前よりも、良く笑うようになった。
大人たちはその様子を見て安堵したが、弟成は逆に心配になった。
八重女の笑っている姿を見たが、その大きな目は笑ってはいなかった。
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