【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その二 おはまの一件始末 11
北町奉行所との交渉は以前続いていた。
惣太郎が江戸に来て10日、さすがに痺れてきた。
宋左衛門は、
「このぐらい、まだまだ。ワシなど、一番長いときで二月(ふたつき)も待たされたことがあるぞ」
と、余裕の構え。
年寄は待つことに慣れているかもしれないが、こっちは寺役人用にあてがわれた部屋から出ることもできず ―― いつお呼びがかかるか分からないので、御手洗主水から待機を言い渡されている ―― 悶々とした日を送らねばならない。
「二月(ふたつき)も、こんなところに閉じこもってられませんよ」
「まあ、若い身体には毒かもな。それなら、ちょっと脱け出し、吉原でも行ってこい。御手洗さまには、ワシが上手くいってやるから」
「ば、馬鹿な。そんなじゃありませんよ」
「いやいや、無理せんでよいぞ。年をとると、そっちのことでいらいらはせんようになるが、ワシも若いときはよくあったもんだ。のう、中村殿」
書物を読んでいた清次郎は、ごほんごほんと咳き込み、「いえ、自分は」と、顔を顰めた。
「隠さんでもよいではないか。男というのは、どうしようもないものだ。我慢しようとしても、どうもこうな、下のほうがむらむらとなって、仕事が手につかんこともある。それが、ときとして女を泣かせることにもなるのだ」
「何か、ご経験が」
惣太郎が訊くと、父はそらと惚けた様子で、
「おや、誰かが来るぞ、藤田殿かな。いや、あの足音は……」
がっと引っぺがすように障子が開き、顔を覗かせたのは主水だった。
惣太郎と清次郎は慌てて身を正した。
宋左衛門だけ、痛い右足を放り出したまま座っている。
主水は、かなり怒っているようだ。眉間に皺を寄せ、鼻の穴をこれでもかと広げて、三人を見渡した。
「なんなのだ、あの北町の大澤という同心は。全く、寺社奉行をなんと心得るか」
北町の大澤とは、政吉に十手を授けている同心だ。
「たかが同心風情が、偉そうに!」
どうも、よっぽど腹に据えかねることがあったようだ。その気持ち、分からないでもない。
「立木殿、もうよい、おはまと政吉を強制的に離縁させえ!」
「となりますと、〝寺抱え〟でございますか」
「御奉行には拙者から申し上げる。立木殿は、早急に書状を揃え、しかるべき措置をとられい」
言うだけ言うと、主水は、びしゃりと障子を閉めて、どんどんと板を踏みやるような物凄い足音を立てて去っていった。
荒っぽい閉め方だったので、障子が少し開いている。
「やれやれ、やはりこうなったか。しかし、これがおはまにとって、一番良いのかもしれんな」
父は、障子の隙間から見える江戸の乾いた空を見上げ、嘆息した。
〝寺抱え〟には、おはまの身内と町役人の証文が入った『入寺証文』が必要である。血の繋がった者はいないので、大家と組頭が代わって提出した。
あと必要なのは、扶持料 ――簡単にいえば、寺の中で生活させていただくためのお布施のようなものである ―― これが六両ばかり必要だ。
「おはまのやつ、そんな大金持っておるのかの」
と、父が心配していたが、惣太郎は、
「そういえば、母上がおっしゃってましたよ。おはまはお金の心配はない、このために一生懸命貯めてきたみたいだと」
「おお、そうか。さすがは我が妻(さい)だ。おぬしも、母上のような女を妻にもつと、楽だぞ」
「はあ、それはそれは」
惣太郎は呆れたように言った。
さて、おはまのほうはこれでよしとし、問題は政吉のほうである。
夫のほうには、夫側の町役人に『追って離縁状請取候旨(おってりえんじょううけとりそうろうむね)』という書状を送る。夫はそれを受け取れば請書を送り返す。これは、女が25ヶ月の年季を明けたとき、三行半を出すという証文である。
それゆえに、これを拒否すれば、夫に離縁の意思はないということで、またまた〝お声掛り〟となって、寺社奉行の権威を借りることになる。
「政吉が素直に受け取るわけはないだろうな」
「たとえ受け取ったとしても、『女房取戻出入(にょうぼうとりもどしでいり)』を訴えでるでしょうね」
「中村さま、その『女房取戻出入』とはなんですか」
「ようは、夫が妻の寺抱えに不満があり、取り戻すときに使われる手です。これを出されたら、その内容に間違いないか、妻を再吟味することになります」
「そうなると、また長引きますね」
「確かに」と、清次郎は頷く、「しかし、これは逆にいって、我らに好機です。再吟味は、寺社奉行が受け持ちますので、政吉が、おはまに不義ありと盛んに申しておりますが、その嘘が暴けまし、政吉に十手を授けている大澤という同心の不正も追求できましょう」
「なるほど、そういう手があるのですね」
さすがは清次郎だ、一歩も二歩も先を考えている。
「うむ」と、宋左衛門は力強く、「それしかあるまい」
3人は、ひとりの女の幸せのために、急ぎ書面を整え、おはまと政吉の関係者のもとへ送った。
これで、ひと先ずおはまの一件は落着した。
それぞれの返書があるまで、宋左衛門は久しぶりの江戸でも楽しもうと、清次郎と惣太郎はおみねの件について、さらに詳しい調べを行おうとしていた。
その矢先、満徳寺から至急の使いとして、徳川郷の郷役が奉行所に飛び込んできた。
「満徳寺に、押し込み強盗が入りました!」
その一報に、惣太郎たち寺役人だけでなく、寺社奉行所一同大いに驚いた。
「将軍様の天領だぞ! しかも、将軍家の御位牌を戴く満徳寺を狙うとは、幕府に弓を引くも同じだ!」
一番怒っていたのは、主水であった。
「して、盗まれた物は? 御隠居さまや御院さまは大事ないか、他の者も無事か」
清次郎の質問に、郷役は息を切らしながら答える。
「盗まれた物は何もありません。御隠居さま、御院さまともどもご無事です。他の方々も大事はありませんが、ただ磯野殿が盗賊と争ったとき、深手を負われました。それから……」
「それから、何じゃ?」
郷役は、ごくりと乾いた咽喉を潤したあと、口を開いた。
「おはまという寺預りの女が、盗賊に連れ去られました」
「仕舞った!」
そう大きな声を出したのは、宋左衛門であった。大黒宋左衛門はどこへやらで、温厚な顔を激しく歪め、目じりを釣り上げ、歯をぎしぎしと鳴らして、そこにまるで化け物でもいるかのように、睨みつけていた。
「おのれ、政吉め、やりおったか!」
惣太郎も、ようやく全てが理解できた。