【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 後編 18
蝦夷は、入鹿の顔を見た時、言葉がなかった。
その顔は殺気立っていた。
「重臣会議は揉めているのか?」
「はい、それで、父上にお願いがございます」
「なんじゃ?」
「大臣を、お譲りください」
「なんじゃと?」
「父上、もはや一刻の猶予もありません。このまま後継者問題が長引けば、大乱になりかねません」
「それで?」
「大臣として、私が決定を下します」
見つめ合った二人の間には、しばらくの沈黙があった。
「……良かろう、大后には、ワシから言っておこう」
「ありがとうございます」
入鹿は立ち上がって部屋を出た。
「大郎、早まった真似をするなよ」
蝦夷は、入鹿の背中に言った。
斑鳩宮の大広間の前に控える侍女、伊勢阿部堅夫(いせのあべのかたふ)に、三輪文屋は呼び掛けた。
「阿部殿、舂米様は大広間か?」
「はい、そうですが。何か?」
「いや、ちょっと昼間の件で」
「ああ、菟田殿から聞きました。奴の子供を屋敷に入れたとか」
「うむ、それで一言詫びをと思ってな」
「そうですか。でも、いまは林様が参られておりますから、如何でしょうか」
「そうか、それでは後にするかな」
と、文屋が大広間の前を立ち去ろうとした時である、舂米女王の声が斑鳩の里中に響き渡った。
「大王を諦めろですって」
文屋と堅夫は驚いて、僅かばかり戸を開けて中を覗き込んだ。
「諦めろとは申しておりません。いましばらく、待って頂きたいと申しているのです」
入鹿の声も負けずと大きかった。
「どういうことなのだ、林臣」
これは、山背大兄の声だ。
「飛鳥は、大后擁立の声が日増しに高まっております。私の力では最早及びませぬ。ここは、大后を大王とし、山背様におかれましては、いましばらく大兄のままでと考えております」
「林臣、あなたは十五年前の約束をよもやお忘れか? もとはと言えば、山背様を大兄にしたのは、あなたではなかったのですか?」
「山背様、舂米様、我が蘇我家は、後継者争いの度に大きな犠牲を出してきました。いま再び、蘇我家を分裂させる事態にまでなっています。氏族の中には、故意に分裂を狙い、我が家の勢力を弱めようと考えている動きもあります。しかし、蘇我家など、どうでも良いことです。それよりも、ここで、この問題が長引けば、飛鳥が混乱するだけではすみません。倭国全体が混乱するでしょう。半島では、二つの国が後継者問題で混乱しております。それを唐が狙っているという報告も入ってきています。我が国も混乱になれば、唐に狙われないとも言えません。ここで混乱を避け、誰もが納得する方法で、事を収めたいのです。なにとぞ、我が願い、お聞き入れ下さい」
「大后が大王になることが、誰もが納得いく方法なのですか?」
舂米女王は問うた。
「山背様、なにとぞ、なにとぞ」
入鹿は深く頭を下げた。
「林臣……」
舂米女王は厳しく追及した。
しかし、山背大兄はそれを止めた。
彼は見たのだ ―― 入鹿の目に、覚悟という文字を。
山背大兄は了承した。
入鹿は、重臣の前で決断を下した。
「大后を大王に、山背様を大兄とする」
重臣たちは顔を見合わせた。
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