【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 中編 18
入鹿の従者が、飛鳥板蓋宮での政変を蘇我蝦夷に伝えた時、彼は何が起こったのか分からず、しばし呆然とした。
そして、事の重大さを悟ったのが、息子が無残な姿で彼の目の前に現れた時のことであった。
入鹿の骸は、戸板一枚に乗せられて帰って来た。
「蘇我は、国家転覆の大罪で斬首された」
遺体を運んで来た舎人たちはそう言うと、門前に戸板ごと遺体を放り出した。
入鹿が戸板から零れた。
「な、なんと! いかに罪人であろうとも、元は大臣だぞ。これが、お前らの大臣に対する礼儀か!」
蘇我敏傍は、舎人たちを怒鳴りつけた。
「蘇我は大罪人、しかも大王の命を狙った極悪人だ。そのようなヤツに、礼儀など必要ない」
舎人も言い返した。
「ない! ないぞ! 首がない! 大郎の首がないではないか!」
蝦夷は、横たわる遺体を弄ったが、そこにあるべきものがなかった。
「首は、如何したのだ?」
敏傍は、舎人に詰め寄った。
「首なら一緒に持って来た。ないのなら、どこかで落ちたのだろう」
「なんだと、貴様!」
敏傍は剣を抜き、舎人に切り掛かろうとした。
従者たちは、それを押し止めた。
「我らは大王の舎人 —— その我らに剣を向けるは、大王に剣を向けるも同じことだ。林臣だけでなく、一族が同罪とみなされますぞ。しかも、我らはここまで罪人を運んで来た使者だ。その使者を斬ったとなれば、後世の恥さらしとなるでしょうな」
舎人たちは、引き上げて行った。
甘檮丘にも雨が降る。
蝦夷は、首のない入鹿を抱きかかえて激しく泣いた。
従者たちも泣いた。
敏傍は、その様子をただ呆然と見ていた。
「物部様、ちょっと……」
彼が我に返ったのは、従者の一言であった。
その従者は、敏傍を飛鳥が見渡せる庭先に連れて行った。
「あそこをご覧ください」
従者は、飛鳥寺の方を指差した。
甘檮丘から、飛鳥寺を望むことができる。
敏傍は愕然とした。飛鳥寺に、大王の旗幟(はた)がはためいていた。
そして、寺の周囲を多くの兵士が取り囲んでいる。
「飛鳥寺を盗られたのか!」
「いかが致しましょう?」
敏傍は従者を連れ、蝦夷の下に戻った。
蝦夷は、まだ泣いている。
「父上、泣いている場合では御座いません。大王の軍が、飛鳥寺を制圧しております。大王は、蘇我家を滅ぼすつもりなのです」
「何、大王の軍だと?」
「はい、向うがやる気なら、こちらもやりましょう。ここまでされて黙っておけません!」
従者たちも、敏傍の意見に賛同した。
「しかし、大王に弓を引いたとなると……」
「こちらも新しい大王を立てればよいではないですか」
「しかし、誰を?」
「古人大兄です。古人様は先の大王の長兄、後継者としてなんら問題はありません」
「古人か……」
蝦夷は、どことなく心許ないようである。
「私が古人大兄を奉じ、物部の軍勢を引き連れて来ますので、しばらくお持ちください。お前たち、父上を中へ。それから、兄上の遺体を祀ってくれ。残りの者は、漢直(あやのあたえ)らに、眷属を集め、武装して屋敷に参れと知らせのだ、良いな!」
従者たちは、敏傍の言うとおりに行動した。
敏傍は、馬を駆けて甘檮丘を降りて行った。
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