【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 中編 17
次の瞬間、鎌子の目に、飛び出していく葛城皇子の姿が映った。
続いて、子麻呂と網田が飛び出していった。
鎌子も、足が縺れそうになりながら続いた。
—— 大殿の下から葛城皇子たちが武器を片手に飛び出して来た瞬間、入鹿は大殿の階段を駆け上がった。
「大王をお守りせよ!」
と叫びながら。
刹那、彼の右肩は葛城皇子の一突きで真っ赤に染まった。
それでもなお、彼は大殿の階段を駆け上がろうとした。
次の一太刀は子麻呂の剣で、入鹿の左足に傷を負わせた。
入鹿は、その場に崩れ落ちた。
「これは、一体どういうことですか? なぜ、こんなことをするのですか?」
宝大王は、葛城皇子に訊いた。しかし、その声は冷静だった。
「お答えいたします。林大臣は、大王家を滅ぼし、王位を傾けようとしております。そして、自らが大王になろうとしているのです。どうして大王家に代わり、蘇我家が大王に就くことができましょう? 林大臣は、国家を転覆させる大罪人なのです。そのため、この場を借りて天誅を下すのです。なにとぞ、大王の御裁可を」
葛城皇子の声も冷静である。
全ては筋書き通りなのだ。
「真ですか、林大臣?」
入鹿は答えない。
彼は、右肩から溢れる血を抑えていた。
「答えないということは、認めるということですね。葛城皇子、蘇我の征伐を許します」
「はっ!」
葛城皇子と子麻呂は、入鹿を庭の中央に引き摺り降ろそうと、彼の両腕を掴んだ。
が、入鹿は彼らの手を振り解き、大殿に仁王立ちとなった。
「うろたえるな!」
それは、重臣の誰もが聞いたことのない入鹿の声だった。
大殿が静まり返った。
入鹿は、鬼の形相であった。
誰も、彼に近づく者はいない。
入鹿が右足を一歩踏み出すと、葛城皇子は一歩下がった。
入鹿が左足を引きずり出すと、子麻呂は一歩下がった。
周囲を見回した —— 重臣は、皆目を伏せた。
入鹿の顔が止まった —— そこに、彼がいた。彼は、大門の前で弓矢を構えていた。
目が合った………………
「……よろしいでしょう、私の首一つで、この国が纏まるのならば、喜んで差し上げましょう」
入鹿は、ゆっくりと空を見上げた。
真黒な雲が、低く垂れ込める。
雲が、だんだん黒くなっていく。
ますます、黒くなっていく………………階段を転げ落ちていった。
そして、雲は見えなくなった。
葛城皇子は入鹿に近づき、そして、掛け声とともに、その首めがけて剣を振り下ろした。
—— この瞬間、蘇我入鹿は古代史上の大悪人となった。
雨粒が、入鹿の遺体を打つ。
重臣たちは、雨を避けるため大殿に入った。
鎌子は、大殿の御簾を切り裂き、入鹿に掛けてやった。
雨が激しくなった。
大殿の庭に、朱の池ができる。
鎌子は、その池に立ち尽くす。
入鹿との思い出が蘇っていく………………だが、入鹿の顔が思い出せない。
どんな顔を………………してた?
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