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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その一 おけいの一件始末 13

 寝不足の頭で調所に入ると、松太郎も眠たそうな顔でぼーっと座っていた。が、新右衛門に膝を小突かれると、慌てて頭をさげた。

 清次郎は、松太郎に名と生まれを問うた。

 松太郎は、ぼそぼそと掠れた声で答える。

「聞えんぞ」と怒鳴りつけると、松太郎は身震いして、先程よりは大きな声を出した。

「本来ならば、こちらの呼び出しを受けてから来るものを、なぜ勝手に出向いてきたか」

 松太郎は、口を僅かに動かすだけだ。

 昨夜、あれほど暴れた男とは思えない。随分大人しい男である。なるほど、ずっとこのままの状態なら、おけいも苦労はしないだろう。

 ――全ては酒が悪いのか。

 それほど飲まなければやっていられないことがあるのだろうか。もしかしたら、おけいの方に原因があるのではないだろうか、と惣太郎は思った。

 おけいが、大人しい松太郎に対して、あれやこれやと文句を言ったり、責めたりしているのはないだろうか。気の弱い松太郎は、それに反論することも、言い返すこともできず、鬱屈した思いを胸に溜める。その憂さを晴らすために、酒に逃げる。その酒が、松太郎の鬱憤を吐き出させ、おけいに暴力を働かせる。酔いが覚めて、酔っ払ったときの所業をおけいが責める。その繰り返し。

 酒に溺れ、踊らされる男が、惣太郎には哀れに思えた。

 一方、清次郎には憐憫の情はないようだ。

「松太郎、聞えんぞ。腹から声を出せ」

 と叱りつける。

「中村さま、松太郎のやつは……」

 新右衛門が代わりに答えようとする。

「黙れ、おぬしに聞いておらん。拙者は松太郎に聞いておるのだ。松太郎、答えろ」

 松太郎は、真っ青な顔をして、目をしょぼつかせる。

 そして、ようやく、

「お、おけいを、と、取り戻しにきました」

 何とか聞き取れるよな声で答えた。

「取り戻しにきただと、おぬしがそれを言えた道理か。いままで、何度おけいを辛い目に遭わせておる」

「そ、それは、わ、分かっております。で、ですが、オラは……」

「なんだ、おぬしはなんだ」

「オラは……、オラは……」

 惣太郎は、松太郎に〝言え〟と強い眼差しを向けた。男の言いたいことは十分理解できる。言ってしまえ。言って、清次郎に男をみせろと睨みつけた。

 それに勢いを得たのか、松太郎は小さいが、はっきりと言った。

「オ、オラは、おけいのことを想っております」

 よく言った――惣太郎は、うんと頷いた。

「馬鹿者が!」

 清次郎の怒声に、惣太郎までがびくりとした。

「何が、おけいを想っておるだ。それほど女を想っている男が、なぜ酒を飲むか」

「そ、それは……」

「おぬしは、何度も酒を飲まぬと契りを交わした。酒を飲み、おけいに手をあげれば縁を切ると証(あかし)もとった。それなのに、なぜまた酒を飲み、女に拳を振るうか」

 松太郎は、真っ青に変色した唇をわなわなと震わせるだけだ。

「なぜ酒を飲む、なぜ手をあげる。答えろ、松太郎」

 うっと鶏が咽喉を詰まらせたような声がしたかと思ったら、松太郎はしくしくと泣き出した。

 これには、惣太郎も呆れてしまった。

 傍に座っている新右衛門やおけいの父も呆れていた。

 男は、しばし泣いた。

 うんざりするような情景だが、清次郎は男がべそを掻くのをじっと見ている。

 やはり変な人だ。

 少しすると、松太郎はしゃくり上げながら言った。

「そ、そうです、わ、悪いのはオラです。オ、オラの酒癖が悪いんです。オラも、な、何度も何度も直そうと思うんです。今度こそはと、が、我慢するんです。1日、2日はいいんです。と、10日ぐらいまで我慢できます。ですが、20日ぐらいになると、ど、どうもあの匂い、あの色、あ、あの味が思い出されてきて、一月(ひとつき)もすると、み、水を飲んだだけで、口の中に酒の香りと味が広がって、そうなると、もう飲みたいの、の、の、飲みたくないのって、どうにもならなくなって、五臓六腑が、か、かっと熱くなったときに、仕舞ったってなるんですが、そうなったらもう止まらなくなって、あと、あと、あとはなんだかこう、無性にむしゃくしゃするというか、どうにもでっかい気分になって、オ、オラは何でもできるんだって気になって、そして気がつくと畳の上でごろんってなって、周りは散らかり放題で、ああ、またやっちまったと……」

 酒飲み男のやるせない告白に、惣太郎だけでなく、和助や新右衛門までもがため息を吐いた。

 男ならば、少なからず覚えがあるはずだ。

 が、清次郎はそういった経験がないのかもしれない。というか、酒を飲まないのかもしれない。ならば、酒飲み男を軽蔑の目で見るのも理解できた。

「なるほど」と、清次郎は一応頷いて見せた、「よう分かった。おぬしの身体(からだ)の中には、酒の魔物が巣くっておるようだ」

「酒の魔物でございますか、オラの身体に」

 松太郎は、自分の腕や足をきょろきょろと眺める。

「そうよ、人に酒を飲ませて、駄目にしようとする魔物よ。そやつに憑依(と)りつかれたら最後、死ぬまで酒浸りの人生を送らねばならんぞ」

「ひえぇぇぇ、ま、真実(まこと)でございますか」

 清次郎は、うむと頷く。

 いったい何の小芝居か。

「そ、それでは、オ、オラ、いったいどうすればいいのですか」

「その魔物を退治するしかあるまい。なんなら、いまこの場で、拙者が退治してやろう」

「それは真実(まこと)でございますか。よ、よろしくお願いします」

 松太郎は頭を下げる。

「うむ、では外にでろ」

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