人生の休憩記録番外編⑥「涙の毎日、そして決意」
上司へ、一方的な休みの電話をした私は
2.3日休みをもらうことに。
娘も発熱して看病しなければいけないのに、私も体が動かない。家事や食事も何もできない。気晴らしの読書やお笑い動画も見たくない。携帯すら触らなかった。
義母や夫の助けを借りながら娘は回復。私は仕事を休みにしたものの、小学校の入学説明会があり、それだけはなんとか出席をした。
配られる配布物。
入学準備の説明、登校班、入学までの過ごし方。
資料1ページ目で動悸がするのがわかった。
内容が全くもって入ってこない。
準備物が多く、何から取り組めば良いのか、これから仕事が年度末で、そんな中でできるだろうか…。
いや、もう無理だ。
正直、開始10分以降は覚えていない。
説明会終了後私はメンタルクリニックへ、向かっていた。
いつもの主治医が出迎える。
一言目を発する前に涙が止まらなくなった。
体が動かない。食欲もない。仕事のことを考えると涙が止まらない。
仕事を辞めれば簡単だが、そこまで何も考えられない。何も脳が処理できない。そんなことをつらつらと訴え、最後に言った。
休みたいので診断書を書いてもらえないかと相談した。
主治医からは、適応障害の症状が重く出ているので、診断書は出せると、明日からの日付で出そうかと言ってくれた。
私は少し黙った。
引き継ぎの量が膨大で、かつ半年前から準備をしていた企画もなんとしてでもやりたい思いはあった。そんなことを考え、ぐるぐる悩む。
(いや、すぐに休めよと当時の自分につっこみを入れたくなる)
友人からは、すぐにでも休んだ方が良いと心配してもらったが、私は引き継ぎをしっかりしてから、スパッと仕事から離れたかった。
明日から休んでしまうと何もかも中途半端でそれこそ、私の場合は、精神的に良くない。よからぬことを考えてしまいそうだった。
電話やメールも来るのが嫌だったので、私は主治医へこう伝えた。
あと2週間は仕事します。2週間後にまた受診するので、それでも症状が改善されなければ、休みたい。と。
主治医は、私の性格を知っているのか、理解してくれた。
精神安定剤を処方してもらい、次の週から仕事に戻った。
週明けのいつもの職場、やはり、症状は改善するどころか、さらに悪化した。
毎日涙が出る。フリーズする。人の声が受け付けず、別室でこまめに休まないと無理だった。
また、対人恐怖の症状も少しあり、人と目を合わすことさえできなくなってしまっていた。
仕事の処理スピードも圧倒的に遅い。適応障害のおかげでADHDも顕著に現る悪循環。
上司に手伝ってもらいながらなんとか2週間乗り越えた。
乗り越えられたのは、3人の上司のおかげだった。
気分転換に職場から連れ出してくれて、ちょこっとドライブしながら話を聞いてもらったり、一緒にサボってもらったり…。
私は、上司たちの温かい思いやりを絶対に忘れない。そして、もらった思いやりを仕事や仕事でなくても返していきたい。そう誓った。
2週間後、再びメンタルクリニックを受診した。
もう限界だった。
診断書を書いてもらい、職場へ電話。
明日からお休みをいただきます。と。
もう人と会いたくないため、診断書は郵送で送ることに。
病院にもよるが、私の通うメンタルクリニックは診断書は3000円で作成してくれた。
休むことに対して、私は正直怖かった。
明日から仕事行かなくて良くなったけれど、私はこれからどうすれば良いのだろうか。不安を抱え、自宅に帰った。
娘が笑顔で出迎えてくれ、私は抱きしめた。
その後、娘の手から4つ折りにされた、絵をもらった。
「ママ、お仕事お疲れ様!」
そして夫からは花束を…。
突然のサプライズに驚き目を丸くする。
夫と娘は、私の1番の理解者であり、家族であり、人生を共に歩む同志。
好きを全力で追求し、一緒に遊び、楽しみ、そして悲しいことや悩みがあれば一緒に考える。が我が家の家訓。
私は、休むことを常々相談していた。
夫は、私の話をいつも聞いてくれた。めんどくさがらず、受け止めてくれて、寄り添ってくれた。
娘もママ休むのずるい!と言いながらも理解をしてくれていたのだ。この時ばかりは、涙ばかり流していた私に笑顔が戻った。
仕事の代わりはいても、この2人の代わりは私以外いない。仕事を真面目に考えすぎた、家族のためにも、人生を少し休憩しよう。
そう思い、私の約3ヶ月間の休憩が始まった。
-完-
…番外編が終わり、いつもの休憩記録へ。実は復帰が決まり、あともう少しで復帰編にうつりそうです。まだまだ薬と付き合い、油断はできないですが、少しずつさまざまな記事や記録を更新していければと思います。
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