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インタビューその6:「推し活」を頑張っていたら、神が降臨した話

イラストレーター&文筆家・陽菜ひなひよ子です。

今回の記事はインタビュー企画です。わたしのまわりにいる「クリエイティブな活動をしている人」に「仕事や創作」について赤裸々にきき、その人の「クリエイティブのタネ」を見つけよう!という企画の第6回

今までのインタビューは↓コチラでごらんになれます。

今回お話を伺ったのは、マンガ愛好家の稲垣高広さん。

稲垣さんは、長く濃い藤子不二雄マンガのファン活動の結果、現在は「藤子不二雄研究家※」「マンガ研究家※」の肩書で、執筆や講演などの活動をしておられます。
ご本人曰く、この肩書はおこがましいとのことで、ここでは「マンガ愛好家」としてご紹介させていただきます)

稲垣さんの略歴など。

稲垣高広
マンガ愛好家。1968年、愛知県春日井市生まれ。
1991年、愛知大学文学部卒業。
幼少期から藤子不二雄(藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄)ファンであり、2004年よりブログ「藤子不二雄ファンはここにいる」を運営。
『藤子不二雄Ⓐファンはここにいる』(社会評論社)をはじめとして、
藤子不二雄に関する著書および漫画に関する共著多数。

稲垣さんとは、2015年に「名古屋書店員懇親会(NSK)」で知り合いました。NSKは、書店員さんを中心に、作家、出版社の営業担当者や編集者、図書館司書など「本に関わる仕事をしている人」の集まる会です。

その後、SNSを通じて交流していたのですが、稲垣さんの投稿(マニアックな展覧会に足を運んでおられたり)がわたしのツボにはまることが多く、何となく感覚的に近いものを勝手に感じていました。

そこで、今回インタビューを依頼したところ、「自分がクリエイティブと言えるかどうかはわかりませんが」と謙遜しつつ

「このごろ『推し』とか『推し活』といった表現がポピュラーになり、『推し』のある生活はよいこと、という風潮になっているので、もしかすると時代にマッチした生き方なのかもしれません(笑)」
という返答が返ってきました。

そんなわけで、稲垣さんの「究極の推し活」とも言える活動についてお聞きしました。

(取材・文:陽菜ひよ子 写真:稲垣高広さんより提供)

マンガ好きになったきっかけ


――――子どもの頃はどんな感じのお子さんでしたか?

稲垣:おとなしい子でした。仲のいい友だち以外とはほとんどしゃべらなくて。内気で人みしりも激しかったですし。

――――その頃からマンガはお好きだったんですか?

小さい頃はマンガより図鑑などのノンフィクションが好きでしたね。昆虫図鑑とか科学の本などが大好きでした。あの頃は虫もなんでもさわれましたし。今はイモ虫とかとかはさわるの無理ですけど。

――――なるほど、虫好きだったんですね。そこからマンガ好きになったきっかけはあるんですか?

稲垣:保育園に通っていた頃に読んでいた小学館の学習雑誌「幼稚園」に、藤子不二雄先生の『モッコロくん』が連載されていたんです。それが不思議な主人公で、昆虫の妖精のような生物なんですよ。

ゆうちゃんという少年のために不思議な力を使う、『ドラえもん』にも通ずるようなお話なんです。

――――『モッコロくん』、はじめて知りました。虫みたいなキャラクターが、虫好きの稲垣さんのココロの琴線に触れたんですね。

稲垣:一般にはほとんど知られていないマイナーな作品です。なかなか単行本化されなくて、連載が終わって30年後の2005年にようやくコミックスが出たんです。モッコロくんってこんな感じです(画像を見せる)。

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『モッコロくん』
『幼稚園』『小学一年生』に1974年から1975年にかけての
約1年間のみ掲載されたレアな作品。

――――オバQにちょっと似てますね!オバQとドロンパの中間みたいな。(ちなみにわたしがいちばん好きな藤子不二雄作品は『オバケのQ太郎』です)

稲垣:そういえばそうですね。藤子不二雄作品の特徴がよくわかりますよね。


『ドラえもん』ブーム到来を体感

稲垣:それから大きな転機になったのは、1977年、小学3年の時の『コロコロコミック』創刊です。僕は確か3号くらいから読みはじめまして、創刊号はあとから手に入れました。

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稲垣さんの『コロコロコミック』コレクション。
上段左端が記念すべき創刊号。

――――すごい人気でしたよね、『コロコロコミック』

稲垣:創刊当時の『コロコロコミック』がスゴイのは、『ドラえもん』だけで150~200ページ掲載されていて「『ドラえもん』のための雑誌」だったことなんです。

『ドラえもん』以外の藤子不二雄作品も載っていて『藤子不二雄マガジン』と呼んでもいいくらいでした。『コロコロコミック』を毎号読むうちに、僕は藤子不二雄作品にどんどんはまっていったんです。

そのうち『ドラえもん』のテレビアニメ化の話で盛り上がるようになり。。。と言っても『ドラえもん』は1973年に日本テレビ系で一度アニメ化してるんですが、その時はまだ見てないんです。

――――あの幻の放送ですね、わたしは大人になるまで、1973年の放送自体知りませんでした。でも、何と言っても話題になったのは、大山のぶ代さんがドラえもんの声に決まった放送(1979年ですよね。

稲垣:そうですよね。
ちょうど僕が『コロコロコミック』に夢中になった1978年ごろから、「テレビアニメ化されるのでは?」という話題で読者のページが盛り上がっていたんです。

投書コーナーに『テレビ化すいしん委員会』なんてのがつくられて、どんどん現実に「テレビアニメ化」が近づいて行く、あの、なんていうんでしょうか、当事者として参加してる感覚。ワクワクしました。

――――ああ、それはたまらないですね。

稲垣:『推し』の人気が盛り上がっていく経緯に、自分も推すことで加わっているような。

――――もちろんすでに『ドラえもん』は人気マンガでしたけど、今のような国民的なマンガになって行くまでを肌で体感するような、そんな感じですね。ライブ感というか。。。

稲垣:そうですね。それで1979年、小5のときにテレビアニメがはじまると、ますますのめり込むようになりました。グッズが発売されたり、映画化されたりと、マンガ以外に楽しめる対象が広がったことも大きかったですね。

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映画ドラえもんシリーズの記念すべき第一作
「のび太の恐竜」のパンフレット。


エンタメから心の支えへ

――――『ドラえもん』には、この頃から大人になるまでずっとはまっていたんですか?

稲垣:いや、それがそれなりに波がありまして。

中学に入る頃に、一旦すこし熱が冷めるんです。もちろん嫌いではなかったですけど、普通に好きという感じで。小学校卒業を機に、周りがどんどん『ドラえもん』から「卒業」していったのが大きかったですね。

やはりどうしても「子どもの読むもの」だとバカにする空気があって。

――――なるほど、それがまたファン活動に戻って来られたのはどのような理由で?

稲垣:中2のときに仲良くなった友人が藤子不二雄ファンで、家に遊びに行ったら、本棚にものすごくレアな本があったんです。

――――おお!それはうれしい出会いでしたね。

稲垣:そうなんですよ。まさに「同胞よ!」という感じで。こんな近くにいたのか!と。周りからはバカにされていたので、ますます2人の結束は固まったんですね。

その友人との出会いがきっかけとなって、中2から高校までは、藤子不二雄作品に熱狂していくことになります。オーバーな言い方かもしれませんが、もはや自分にとっては、藤子作品はただのエンタメではなく、宗教のようなものでした。

――――稲垣さんの中で、藤子不二雄先生のマンガはすごく大きな存在だったんですね。

稲垣:もともと人間関係が苦手で、学校に行くことがしんどかったんです。なので、藤子不二雄作品がなかったら、精神を支えきれなかったと思います。

――――中2で出会った友人とは高校も一緒だったんですか?

稲垣:中2で出会った友人とは高校が別になってしまい、映画を観に行ったりはしましたが、高校では友人と呼べる人がいなくて。

小学校時代から学校は苦手だったのですが、高校時代は本当に辛くて、鬱屈うっくつとして心を閉ざすようになりました。

親に「学校を辞めたい」と言うほど思い詰めていたんです。もちろん親からは止められました。登校拒否もできなくて。結局、高校3年間は、足にヒビが入って3日ほど休んだ時以外休まなかったんです。3年間のうち2年間は皆勤賞をもらったんですよ。

――――そんな辛い中、ファン活動だけが心の支えだったんですね。

稲垣:そうですね。僕が中3の頃、公認のファンクラブが解散してしまったんですが、高校時代には全国にたくさんのファンサークルができたんです。会報誌もコピーで手作りするような、数十人の小規模なものばかりでした。

僕はいろんなサークルに参加して、自分なりの藤子不二雄論を熱心に執筆し投稿していました。

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中学2年生のとき入会した
藤子不二雄公認ファンクラブの会誌「月刊UTOPIA」
この公認ファンクラブは残念ながら中3のときに解散


数少ない「強固な味方」との出会い


――――ネットのオフ会のように、サークルの方と会ったりはしなかったんですか?

稲垣:東京ではそういう会もありましたが、僕はわざわざ遠征して会う勇気はなかったですね。

――――まだ高校生ですもんね。あの頃、「東京は怖いところ」だと思ってましたよね。

稲垣:そうですよね。
会うことはできませんでしたが、積極的に投稿はしたし、文通もしていました。当時はメールなんてないので、手紙を書いてちゃんと切手を貼って、ポストに投函する時代で。

――――手紙でしたよね、懐かしい。わたしも文通したりしてましたよ。

稲垣:その世界が、辛い高校生活の避難所のようなもので。本当に楽しくて。救いであり、支えだったんです。

藤子不二雄先生のマンガは、僕にとっては「哲学書」のようなもので、人生に関わる大事なものになって行ったんですよね。。。

あと、高校生くらいになると「『ドラえもん』を読んでる」というと、「幼稚だ」と馬鹿にされるので、隠れて活動するファンが多かったんです。「迫害だ」「自分たちは『隠れキリシタン』だ」と言い合って。

――――それに当時は、今と違って、マンガ好きはバカにされる風潮がありましたよね。

稲垣:そうなんですよ。でも、それだけじゃなくて、僕たちは2重にバカにされてたんですよ。

アニメやマンガ好きも、世間から「ネクラ」とか何とか言われてバカにされがちでしたが、僕たちのような児童向けの作品に熱中しているような人間は、中高生向けのマンガやアニメを好きな人たちからも「幼稚だ」と軽んじられたんです。当時の藤子サークルの投書テーマで「世間の藤子マンガ幼稚論に対して思うこと」みたいなものが設定されたくらいです。

――――そうなんだ!そういう住み分けがあったんですね。

稲垣:なので、仲間内では自分たちを「受難者」と呼んで、同じ思いを持つ数少ない味方だと感じていたので、結束は高まりましたね。

――――そういう仲間がいてよかったですね。うらやましいくらいです。

稲垣:高校時代にも重要な出会いがあって、北海道の友人なんですが、ものすごく影響を受けました。マンガも好きだけど、活字の本もすごくたくさん読んでいて、僕より一つ年上なだけなのに、ものすごく博識でインテリなんです。

哲学・社会・文学と藤子不二雄作品を結びつけて論じたり。ものすごくカッコよくて、感化を受けて。彼の影響で哲学書などの活字の本を読むようになりました。

――――素敵ですね。中2での出会いもそうですが、要所要所でいい友人と出会ってらっしゃいますね。

稲垣:そうなんですよね。なかなか友だちはできないんですが、時おり現われる味方とは、強固な関係が築けるという感じなんです。

――――それで十分なんですよね。
中高生くらいまではどうしても「学校がすべて」だし、そこでうまく行かないとダメだと思いがちだけど。ひとりでも自分を理解してくれる友だちがいれば、あとはうまくやれなくても大丈夫なんですよね。

稲垣:今ではそう思えますね。
そんな仲間との出会いもあって、ファン活動への熱中度合いはすさまじいものになって行きました。狂おしいくらいに熱中したんです。

自分でも当時の自分は気がおかしくなっていたんではないか?と思うほどです。


「大人」になった大学時代


稲垣:高校時代はそんな風に「藤子不二雄作品の世界」に熱中していたわけですが、今にして思うと、あの時間は自分にとって必要な時間だったのだと感じます。

あの時間があったからこそ、自分は高校時代を通過できたんです。無事に社会から脱落せず、踏みとどまることができたので。

――――そうですよね。辞めたいとおっしゃっていた高校を卒業して、無事大学に入学されたんですもんね。

稲垣:大学に入学した19歳の冬、1988年の1月に、衝撃的な出来事が報じられたんですよ。

藤子不二雄先生は、ご存じの通り、藤子・F・不二雄(藤本弘)先生と、藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄)先生が2人で1人のマンガ家として活動されていたんですが、コンビを解消されてしまったんです。

僕にとってはお二人は神様のような存在で、2人で1人といった「友情神話」を信じてもいたので、当然ショックで。

あの当時も今も、生身の人物である藤子先生を神格化することに批判的な意見があります。それも一理あるわけです。

でも、少なくとも当時の僕の“2人で1人の藤子不二雄”に対する尊敬や感謝の念は、信仰に近いようなあり方だったと思うんです。それだけに、コンビ解消の報は激震でした。

のめり込んでいた者にとっては、自分の心身が真っ二つに引き裂かれるような、つらい出来事だったんです。

――――それはつらいですよね。ちょっと違うかもしれませんが、少しだけわかる気がします。ちょうど同じ頃、BOØWYが解散(1988年4月)したんですよね。それはかなりショッキングなできごとだったので。

稲垣:おお!BOØWY!そういえばそうでしたね。BOØWYは活動期間も短かったですよね。

――――そうなんですよね。人気が出たと思ったらすぐに解散してしまったので。(と、しばし同世代トークに花が咲く)

BOØWYボウイ
1980年代のバンドブームをけん引した伝説のロックバンド。
日本のミュージックシーンに及ぼした影響は絶大。

稲垣:藤子不二雄先生のコンビの解消以降、僕はそれまでのような「ファン生活」からは、ちょっと引いてしまうようになったんです。

もちろん、ファンではあるのですが、それまでのような狂おしいような熱狂ではなくなりました。単行本も買っていたし、映画も観に行っていたけど、投稿はしなくなりました。普通のファンになったんですね。

――――それだけショックだったんですね。

稲垣:それもありますが、自分の気持ちに変化があったんです。それまでは、藤子不二雄ファンの友人以外と仲良くしたいとは思わなかったんですが、いろんな人とコミュニケーションを取りたいと思うようになったんです。

――――なるほど、それは起こるべくして起こった変化だったのかもしれませんね。

稲垣:ですね、先生方のコンビ解消はトリガーではありましたが。。。

それで僕は、普通に大学の同級生と飲みに行ったり、夏休みに旅行したりするようになりました。バブルの時期(1988年~1989年頃)でしたから、ねるとんパーティーにも参加しましたよ。

――――それはスゴイ変化ですね。ねるとんパーティーにまで参加されたとは驚きですが、流行ってましたよね。(わたしも参加したことあります)

稲垣:ねるとんパーティーは、以前の僕だったら絶対に行きませんでしたね。苦手でしたが、行ってみたんです。それなりに楽しかったですよ。

◎ねるとんパーティー
とんねるず司会の人気番組『ねるとん紅鯨団』(フジテレビ系)内の「集団見合い」の告白形式を真似たパーティーのこと。


再熱したファン活動

稲垣:大学卒業後は就職したんですが、ずっと営業職だったんです。

――――それは大変でしたね。

稲垣:大変でしたね、いちばん苦手なことだったので。でも、今こうしてスムーズにコミュニケーションが取れているのも、この頃きたえられたお陰だと思うんですね。

――――でも、わたしは稲垣さんに最初にお会いした時から、そんなに人づきあいが苦手そうとは感じなかったんですよね。今もそうですが、何かこう、余裕を感じられるというか。。。

稲垣:あの会(名古屋書店員懇親会)のときも緊張していましたよ。周りは文芸の先生方ばかりでしたから。

――――確かに、錚々たる方たちばかりですもんね。わたしは当時コミックエッセイを出版して、マンガ家として参加していたので、マンガ畑の住民同士ということで、お互い話しやすかったのかもしれませんね。

稲垣:就職した頃にはグッとファン活動が減っていきます。いつも売り上げに追われて、休みも少なくて、精神的にも物理的にも余裕がなくなったんですね。1990年代の10年間は、ファン活動としては「のっぺらぼう」でした。

そんな中、またもや衝撃的な出来事が起こるんです。1996年にF(藤子・F・不二雄)先生が亡くなったんです。

――――あのときは衝撃が走りましたよね。まだお若かった(※享年62歳)ですし。

稲垣:ずっと泣きっぱなしで、涙がポロポロ流れて、自分でもこんなに泣けるのか、こんなにつらい感情があったのか、と思うほどでした。

そんな風にして1990年代は過ぎて、21世紀になると、僕は病気になって入院するんです。それで仕事を辞めて、時間もできて

そこで、やりたいことをやろう!と決めたんです。

――――それでブログを書き始めたんですか?

稲垣:まずは、藤子不二雄ファン活動ですね。2002年に岐阜県大垣市で(藤子 不二雄Ⓐ)先生が講演会をするとネットで知って、足を運んだんです。

――――おお!神様に会えたんですね。

稲垣:そうなんですよ。講演を聞いている間も、ああ、本当にいたんだ!と。当たり前なんですが、中高生のころから神様みたいに感じていた方なので、目の前に存在しておられることが不思議で。

――――そうですよね。わかります。

稲垣:それだけじゃなくて、そのとき先生の出されたエッセイ本の即売会とサイン会も行われたんですよ。

――――ってことは、お話しできたんですね。

稲垣:はい、握手までしました!その時いただいたサインは、記念日すべきかけがえない宝物です。

でも、そのあともっとすごいことが起きたんですよ。

藤子不二雄A先生サイン

2002年大垣で藤子不二雄Ⓐ先生からいただいたサイン。
サインが書かれた本は、この年に先生が出したエッセイ本『Ⓐの人生』。


思いがけない幸運とブログ開始


稲垣:そのとき来ていたファンの中に、高校時代に藤子不二雄サークルで投書していた頃の仲間を見つけたんです。声をかけたらやっぱり彼で。

彼は関東から来ていて、先生のマネージャーさんと面識があったので、この後飲みに行くことになって、僕も誘ってくれたんです。

――――ええっ!!それはすごい!

稲垣:そうなんですよ。初めて参加したイベントで、まさか先生と一緒に飲むことになろうとは。しかも、僕は先生の隣に座らせてもらえて。

――――すごすぎる。。。高校時代にサークル活動していたお陰ですね。それにしても、ここぞってところでちゃんと友人が登場する運命ですよね。

稲垣:それに運がよかったのは、開催場所が大垣だったことなんですよね。

これが関東のイベントだったらファンが大勢いて、とても飲み会になんて誘ってもらえなかったと思うんですよ。そもそも、僕は関東だったら行かなかったと思いますし。

このときは大垣女子短大での開催で、参加していたのがほとんど学生さんだったのも運がよくて、講演会が終わるとみんな次の授業へ移動してしまったんです。飲み会に参加したのは、Ⓐ先生とマネージャーさんと短大の先生を含めても6~7人でした。

――――稲垣さん、運を持ってますね。

稲垣:これで僕は急に目覚めてしまいまして。それまでは近隣のイベントしか参加しなかったのが、遠征するようになりました。

イベントは東京と先生のご出身地である富山でよく行われていたんですが、行きまくりました。追っかけみたいな感じです。

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2002年8月に富山県氷見市で開催された
「藤子不二雄Ⓐまんが原画展」

――――先生にはその後もお会いできたんですか?

稲垣:その後もサイン会や講演会でお会いできていたんですが、僕の顔を見てもいつも来るファンの一人くらいのご認識だったんです。

ところが、2011年に藤子先生のふるさとロケ番組「まんが道をゆけ!」(NHK)に出演しまして。この番組をⒶ先生がテレビでご覧になって、それを機に僕の顔をはっきり認識してくださるようになりました。うれしかったですね。。

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ロケの途中、忍者ハットリくん列車内で
NHKのアナウンサーさんに撮ってもらった写真

――――それはうれしい!サラッとおっしゃいましたが、ファンの代表としてテレビ出演されたわけで、すごいことですね。

稲垣:それで、2004年頃にはそうしたファン活動をネット上で発表したい!と思うようになってきたんですよね。

――――いよいよブログをはじめるわけですね。

稲垣:ちょうどその頃にブログがはじまって。それまでのホームページだったら、僕にはちょっとハードルが高かったんですが、どうやらブログなら誰でも簡単にできるらしいと聞いて。

「はてなダイアリー(現在ははてなブログ)」にしたのは、マンガの研究者が多く利用していたからなんです。

稲垣:『藤子不二雄ファンはここにいる』という名前も、自分は片隅にいて、気づいてもらえていない、というイメージでつけました。「ここにいますよ」「気づいてください」というメッセージを名前に込めたんです。

――――そうだったんですね。「どうだ!オレはここにいるぞ!」という感じなのかと思っていました。

稲垣:よくそう思われがちなんですが、なんです。

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2002年10月に宮城県石巻市の石ノ森萬画館で開催された
「藤子・F・不二雄原画展」


ブログから広がる世界


――――稲垣さんの活動自体、ブログが最初で、ブログが人気になって広がっていったのかと思っていたんですが、逆にリアルでのつながりが先だったんですね。

ブログはどんな風に人気に火が付いて行ったんですか?

稲垣:ブログは2004年からはじめて、1年後の2005年から注目されるようになりました。2005年には、またまた大きな出来事があったからなんです。

『ドラえもん』のテレビアニメが大幅にリニューアルされて、声優さんも交代して、物議をかもしていたんです。

――――そういえば、そういうこともありましたね。

稲垣:それで、自分なりの見解や思いのたけをブログに綴っていたら、読まれるようになって行って。

――――なるほど、特別PVを伸ばそうとしていたわけではないけれど、淡々と続けていたら、人気が出て来たんですね。

稲垣:ブログをはじめて今年(2021年)で17年ほどになりますが、、PVが増えればもちろん励みになるものの、PVを増やすことを目的にしたことはありません。

書き続けるうちに、PVのトータルが100万を超えて、その頃に「本にしませんか?」と出版の話が来ました。

――――2冊出版されたうち、こちらは座談会ですが、かなりコアな内容ですよね。

稲垣:そうですね、一般の人を置いてけぼりにしてる、と言われがちですね。

ここに呼んだ人たちはもちろん精鋭で、僕と仲のいい人とか、藤子トークが得意な人を集めたんです。が、座談会の主幹である私が、一般読者にも伝わるよう配慮したいと、マニア的な濃さをちょっと抑制しました。諸事情あって最もディープな部分を削ってしまったんです。

それで、シビアな濃いマニアの方からは「物足りない」とも言われてしまって・・・。

――――なるほど。これってどこを基準に置くか、むずかしいですよね。あんまりレベルを上げてしまうと、ほとんどの人が理解不能になってしまうし。

稲垣:そうなんですよね。でももう一度こういった機会をいただけるなら、もう一般の人は誰も付いてこられないようなすごいレベルのものを作ってみたいという想いはありますね。

――――それ、ぜひ実現してほしいです。

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2009年に上梓した著書「藤子不二雄Ⓐファンはここにいる」
全2巻(社会評論社)


――――本を出して変わったことは?

稲垣:本を出すと信用を得るようで、いろんな依頼が来るようになりました。テレビ出演や講演などの声をかけていただくようになって。

でも僕はテレビ出演や講演には苦手意識があって、文章を中心にやっていきたいと思ってるんですけどね。

――――わかります。わたしも同じです。

稲垣:なので、雑誌や本にライターとして寄稿したり、著書を出したり。あとは、クイズ番組に出題する問題を考えたり、なんてこともありました。

――――あ、それ楽しそうですね。

稲垣:楽しいです。そのクイズ番組に、サバンナの高橋さんが『ドラえもん』がお好きだってことで出演されたんですが、かなり答えてらっしゃいましたよ。

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2013年「マツコ&有吉の怒り新党」(テレビ朝日)
「藤子・F・不二雄らしからぬ 新・3大異色な物語」コーナーで
作品選定とコメントを担当。


神さまの神さま


――――ところで、わたしは藤子不二雄先生も好きですが、手塚治虫先生も大好きなんです。稲垣さんにとって手塚先生はどんな存在なのでしょうか?

稲垣:手塚先生ももちろん好きです。手塚先生はすごい存在なんです。僕にとって藤子不二雄先生は神さまですが、手塚先生は藤子不二雄先生にとって神さまなので。いわば「神さまの神さま」なわけです。

手塚先生の作品も、夢中になって読みましたよ。『火の鳥』『空気の底シリーズ』『きりひと讃歌』などは特に。

――――すごく気になってることがあるんですが、稲垣さんって手塚治虫先生のご長女・手塚るみ子さんと漫画家・桐木憲一さんの結婚パーティーに出席されてましたよね。あれはどういったことがきっかけなんですか?

稲垣:あれはですね、話すと少し長いんですが。。。

1990年代後半から2000年代にかけて、岐阜県では知事の梶原拓かじわら たくさんがマンガやアニメで街を活性化させようと、有名マンガ家さんやアニメーターさんなどを呼んでイベントを行っていたんです。

――――へぇ、そんな時代があったんですね。(その頃わたしは関東在住だったため、まったく知らず)

稲垣:僕は年に一回ある自治体で開かれるイベントにボランティアスタッフとして参加していて。

そのイベントに手塚プロの方がアニメコンテストの審査員として参加されていて。毎年イベントの打ち上げなどでお話しているうちに関係性ができて、手塚プロさんが関わっている東京の集まりに呼んでいただけることになったんです。

そういう集まりに呼んでいただけたのは、ボランティアスタッフを毎年やってきたご褒美のようなものだと思っています。

で、そうした場でるみ子さんと出会い、一緒に写真を撮ってもらったりお話しているうちに、僕のことを気にとめていただけるようになって。ありがたい限りです。

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結婚パーティーにて、手塚るみ子さんと一緒に(2017年10月)
『火の鳥』の振袖をお召しのるみ子さん。
神さまの神さまのご息女である るみ子さんは、女神さまのようです。

――――実はわたし・ひよ子は手塚治虫先生のマンガはかなりたくさん読んでるんです。特に『火の鳥』と『ブラックジャック』は、人生観にまで影響を与えられた作品です。

私を構成する5つの少年・青年漫画(2020年5月)
わたしは一年半ほど前に
手塚マンガ(「火の鳥」と「ブラックジャック」)への愛
このnoteにも書き綴っています。(ひ)


――――お話を伺っていると、稲垣さんの無欲さや、ファンとして、ひたすら真摯にひたむきに活動されていたのを感じます。稲垣さんの純粋な想いが、周りの方々にも伝わったのかな、と思います。

稲垣:ボランティアで活動していた時は、正直、打ち上げでマンガ家さんたちとお話しできるのを楽しみにしていましたので、そういう下心はもちろんありましたけどね。

まさか、ここまでは期待していませんでしたし、今も信じられない気持ちです。

パーティーの様子は稲垣さんのブログで読めます。
次々登場する参加者のみなさんの豪華すぎるお名前の連続
ため息しかありません。。。(ひ)


『ドラえもん』のある世界観

――――それにしても、今までの流れを見ていくと、いろんなできごとが、全部ちょうどいいタイミングで起きているんですよね。

最初の『モッコロくん』の連載からして、数年ズレていたら出会えなかったわけで。岐阜でこの時期(1990年代後半~2000年代)にイベントが行われたのも、よくぞこの時期にという感じですよね。

稲垣:ホントそうですよね。そう考えるとなんだかドラマティックですね。

――――ですです。「ドラマティックなファン活動」です。今風にいえば「推し活」かな。

『ドラえもん』のスゴイところは、たとえば会話の中に『どこでもドア』や『タケコプター』が出てきても、説明がまったく必要なく、誰にでも通じるところですよね。

稲垣:ホントそうなんですよね。日本人の共通言語になってるんです。

――――そういうマンガって他にはないように思いますが。。。

稲垣:他にないと言うとファンの欲目になってしまいますが、『ドラえもん』はみんなの共通言語になっている作品の代表的存在だとは思います。

マンガの『ドラえもん』の連載が始まって50年以上たち、今もテレビアニメや映画が続いていて、たくさんのグッズが出続けています。

ですから、『ドラえもん』のファンも新たに生まれ続けているんです。僕よりはるかに若い世代の方にも熱心なファンが多いんですよ。50歳を過ぎた私が、そういう若い方々と出会って交遊する機会を持てるのも『ドラえもん』のおかげです。

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「Pen+〈増補決定版〉マンガの神様 手塚治虫の仕事。」
(CCCメディアハウス)と「映画ドラえもん超全集」(小学館)。
どちらもライターとして寄稿した本。絶賛発売中。
Pen+には、座談会のメンバーとしても参加。

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名古屋市富田図書館で行われた講演
「ドラえもんから広がる読書の世界」(2016年9月)


あとがき


女性であるわたしにとって、藤子不二雄マンガは身近な存在でありながら、やはり「男の子の読むマンガ」というイメージでした。

一方、夫でカメラマンの宮田はやはりよく読んでいたのだそう。家にも単行本があったし、コロコロコミックも毎号買っていたそうです。

今回のインタビューに寄せて、わたしの思い出話をひとつ。

12年前に江戸東京博物館で開催された「手塚治虫展」で買った「ブラックジャック名セリフ集」が印刷されたトイレットペーパー、いまだに使えず、ずううっと飾ってあるんです。。。

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生誕80周年記念特別展・手塚治虫展(東京都江戸東京博物館・2009年6月)
原画の素晴らしさに感動。

こんな風に多くの人を夢中にし、時には人生観や人生の在り方までも変えてしまう力のある漫画。本当にすごいです。

稲垣さんの活動からは、「好きなものを好きだと思い続けること」の素晴らしさがあふれていて、お話を伺っているわたしの方も、しあわせな気持ちになりました。

稲垣さん、ステキなお話をありがとうございました。


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