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白湯に溶けぬ、金魚のエサ

金魚のエサみたい、と一目見て思った。

茶色いその粉は、「白湯に溶かして飲んでくださいね」という薬剤師の指示に従っても、ほとんど溶解してくれない。おどろおどろしい暗い色の液体を、目をつむって一気に流し飲む。

人が口にすべきものでないような強烈な風味を感じ、後味が腐った紅茶っぽい、という感想を経由して、やっぱりほとんど金魚のエサだと結論づける。
まずい、まずい、と一人暮らしの狭いキッチンで声に出しながら、追加の白湯を口に含んだ。
不安を抑制する漢方の薬だなんて二十九年生きてきて初めて飲むけれど、ついつい騒がずにはいられなくなるまずさだけが、この薬の効き目を担保する要素なのではないかとすら思えた。


朝食と夕食の食前に飲む漢方の茶色い薬、そして夕食後の軽い眠気も伴う抗不安薬の半錠を処方されて、もうすぐ二週間になろうとしている。会社も休んでいる。
薬の効果はいまいち実感できないけれど、涙や過呼吸の症状はおさまっていた。

時間つぶしに、慣れない自炊に挑戦した。調理作業は気がまぎれるからいい。
ネットフリックスの韓国ドラマも面白い。「愛の不時着」を完走し、「よくおごってくれる綺麗なお姉さん」に突入した。
早めに寝て早めに起きて、心配する実家の母親にライン通話をして、ラジオ体操をする。
なるべく決まったことをこなすようにすれば、凪いだ心でいられる気になった。


けれど昨日、今日、なんとなくまた不安になって涙が出たり、呼吸が浅くなる場面があった。
理由は簡単で、4日後の月曜日に会社の上司との面談があり、今後の仕事の進め方を相談することになっているからだ。単純に仕事を休んで距離を置けていたから落ち着いていただけであって、また仕事のことが頭によぎれば不安になるだけのこと。

心療内科でパニック障害の診断を受け、ひとまず今の担当業務から外してほしいこと、少し休みが欲しいことは、すでに上司に相談していた。四月最終週からGWをまたいで二週間の休みを与えてもらい、「しばらく仕事のことは考えなくていいから」との言葉をもらっていた。

しばらく、という言葉がどれくらいの量の休みを指しているのか、上司と具体的には話していなかった。おそらく、明後日の心療内科の先生の診察や、今度の月曜の上司との相談で、ある程度私自身が決断する必要があるらしい。
業務負荷の軽い作業から、早速復帰する可能性もあるということなんだろう。
必ずしも病気、即休職というわけではないということを、私は当事者になってから知った。


未来のことを予測して、決断する。
そのことが今はとても苦しくて、怖い。


新卒で入社して丸五年が経った。ここ半年ほどはステップアップした担当業務を任されるようになっていた。
優しく自分のペースを尊重してくれていた従来のリーダーと違って、今のリーダーはより詳細な計画や思考の共有を重んじていた。
よりスピード感が求められるようになった。より難しい知識が求められていた。

計画が漠然としていると指摘された。より具体的な作業計画に落とし込んで、どれだけの日数で終えられるか尋ねられた。やったことのない作業も含まれていて、実際にやってみなければわからない、と思った。打ち合わせなどで、うまく受け答えできないことが増えていった。
それでも不明点を列挙して質問し、自分なりに業務を進めてきたつもりだった。


三月下旬から、新型コロナウィルス対策で会社のリモートワークの方針が決まった。
それに伴う意志疎通の障壁が、決定打になったのかもしれない。
対面のやりとりがなくなり、パソコン画面を通じたビデオ通話やチャットでのコミュニケーションに切り替わった。出社して実験したりする作業を延期し、長期的な構想検討のような業務がメインになった。
日に二、三度テレビ会議をつなぎ、あとの時間は一人で資料を作る。打ち合わせのある時間帯は過度に緊張し、一人の時間は心細かった。不明点をうまく質問しきれず、求められる内容をはき違え、会議についていけないことがまた増えた。リーダーにフォローしてもらったり質問をさせてもらったりしても、まだわからないことがあった。
どうしていいかわからず、涙が止まらなくなり、自室で過呼吸のような症状が出るようになってしまったので、その週の土曜に心療内科を受診した。


技量が追い付いていないという気持ちは、リモートになる前からずっとあった。
普段から、周囲の同僚とのコミュニケーションをおろそかにしていた自覚があり、負い目も感じていた。


理系の開発職で男性がほとんどの職場で、ゲイであることを隠してきた。同僚とあまり打ち解けたくないと思ってきた。
大学で学んだ知識で、なんとか言われた業務をこなして波風を立てずにいればやっていけるっしょ、と正直思っていた。
仕事は仕事、と割り切って、プライベートと区切りをつけて。
仕事はほどほどに。趣味と友達と過ごす休日を大事にする。

でも、どうやら、情熱を持って学習を続けて、同僚との密なコミュニケーションを以てしないと太刀打ちできなくなる仕事の領域があるらしいとわかって、とても恐ろしくなった。
自分の甘い考えでは、社会ではやっていけないのかもしれない。

おりしも新型コロナウィルスの影響による世界的な経済不安。いまさら転職するにしても、厳しいこのご時世。今年三十歳になる自分。たいした技量もない自分。先を見据える力のない自分。不安にめっぽう弱い自分。
仕事ができなくなるということ。お金が稼げなくなくこと。生きていけなくなるということ。


今にして思うと、私が本当に気にすべきは、担当業務の具体的に必要な知識や作業を割り出すこと、周囲に助言を乞うことだったの思う。
けれど、自宅の密室で一人、安定しない脳内で思考は、ありもしない未来へと飛んで行き、爆発的に膨らんでいった。正体不明でおどろおどろしい暗い色の大きな不安となり、その渦から抜けられなくなり、泣けてきて仕方がなくなった。


不安のコントロールは、半年から一年の服薬で可能になるはずのものらしい。


それとは別に、仕事との向き合い方、人との付き合い方は、私が、周囲の人と話を重ねて再構築していく必要があるということなのだと思う。
仕事と距離を置いている今は、一応そう考えた、という状態。


来週の自分が、どういうふうに感じるのかはわからない。
不透明で、にごったように感じる未来を、考えることが恐ろしい。

今日も私は、金魚のエサのような茶色い漢方薬を、白湯で無理やり流し飲む。
なにかの練習をするように、にごったまずい液体を流し飲む。


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