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神でできている本たち。言葉。

 最近は読書はもちろん本にまつわるあれこれ、たとえば本に関する美術館に行くとか、ブックカフェとか、YouTubeを見ることにはまっている。そして本の存在そのもの、紙でできている(神でできていると変換された)物質に魅せられることが多いと感じる。本棚におさまっている本たち、書店に並ぶ本たち、ベッドサイドに置かれた読みかけの本、存在そのものが魔術的で、いてくれるだけで嬉しい。一冊の中にはあらゆる世界があり、わたしが知らない言葉であふれている。知っている単語を組み合わせて、見たことがない表現が出来上がる。その無限と神秘はちっぽけなわたしの輪郭をぼやかして体の中の純度の高い世界へ導いてくれる。

 コミニュケーションの言葉と詩の言葉はちがう。わたしが一度考えたことがあるのは、わたしたちはたどり着きたい、表現したいことそのものには直接触ることができないということだ。立ち入り禁止の湖のようなものがあって、それを周りから眺める。囲いをすることでこの湖がどんな形かを伝える。周りを一生懸命形作り、ドーナツの穴を表現するような感じ。それが言葉。だから言葉そのものはいつも「本当」でも「本物」でもないのだと思う。極端な言い方をすれば、言葉になったら、その瞬間に嘘になる。表現不可能なものをなんとか言葉にする。それを緻密に、繊細に、一生懸命やった先には言葉を超える瞬間がある。その湖は「たましい」のようなものだと思う。詩の言葉には時々、「たましい」の言語が混ざっていることがある。意味も理由もないのになにかがわかる。それはいつも、突き詰めた先にある。森の中を進んだ先にある。煮詰めたお鍋の底にある。だから考え続けることは大切だと思う。そんな言葉に出会うことがわたしの大きなしあわせである。

 この例えの中で、音楽は、とても「たましい」に近いと感じた。もしかしたら湖は音楽のような姿をしているのかもしれない。言葉の中には入ることができない情報がいっぱい詰め込まれている、もしくは、広がっている。目に見えない音楽は空間を作り出す。言葉でそれを説明しても、なにもわからない。わからないことをわからないまま、流れていく時間。あるときは時間が消える。空間も消える。やはり自分の体内へ流れる感覚に身を任せて、気づけば生まれ変わったようなわたしがいる。

 表現に優れた人は、言葉の弱さと不完全さをよく知っている人だと思う。完璧な言語化は不可能であり、わたしの「青」と相手の「青」が違うものかもしれないと思える人だ。言葉にすればわかってもらえるというのは全く見当違いで、だから、コミニュケーションエラーやすれ違いも起こる。それは当たり前のことなのに、多くの人はこれを気に病んだりするのだ。言葉を信頼し、上手になることは大切だし、同時に、言葉にならない、目に見えないものを頼りにすることも大切。わたしはついどちらかに重心を置いてしまう。「バランス」に縁遠い。だけど少しずつ、本の助けを借りながら、自分や、相手との真ん中にいるようにつとめる。

 もうすぐ乙女座の季節。わたしが苦手な「境界線」がテーマになる。来月も言葉を見つめ、本を手に取り、見えない世界の妖精たちと対話する。

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