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豊後大友家臣団の戦国ネタ

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#大友宗麟

立花 道雪の 名言

立花 道雪の 名言

「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」

今日は立花道雪の名言から一つ。
この言葉は主君の大友宗麟が家臣にペット(猿)をけしかけて遊んでいると聞いて、立花道雪が主君に説教した言葉です。
主君のペット(猿)だから何もできなかった家臣達。しかし立花道雪は違いました。主君があらわれるまで待っているとペット(猿)が道雪に近寄ってきていたずらをはじめます。道雪はそのペット(猿)を鉄扇で叩き殺すのです。道

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大友宗麟の名言

「人生における敗北・苦しみは試練であり不幸ではない。 灼熱の炎に磨かれる黄金のように試練によってこそ人は高められる。」

大友宗麟。1530~1580年。九州の戦国武将として他の勢力よりも一歩も二歩も大きく。名門武家の棟梁だった方。キリスト教に憧れ、キリシタン大名の代名詞みたいな人物です。父親と確執があり、家督相続後には叔父と争い、その後は毛利、龍造寺、島津と争い、その最後の島津との争いに敗れて弱

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大友家随一の茶人 臼杵 鎮続(うすき しげつぐ)

大友家随一の茶人 臼杵 鎮続(うすき しげつぐ)

生誕不明。死没1578年(天正6年)耳川合戦での討ち死に。
臼杵氏の一族で豊後の国大友氏の庶流戸次氏の流れをくみ、大友氏の一族。父親は臼杵長景(うすき ながかげ)。兄に大友家三老の臼杵鑑続(うすきあきつぐ)、鑑速(あきはや)がいる。紹冊(しょうさく)の号で知られている。

兄、鑑続の死後、柑士岳城(こうしだけじょう)城代として筑前国に入り志摩郡の国人を統率。博多の御笠川(みかさがわ)改修。房州堀(

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佐伯惟定(さいき これさだ)

佐伯惟定(さいき これさだ)

生誕 1569年。豊後佐伯氏第13代当主・佐伯惟真(さいき これざね)の二男として生まれる。

1578年に父、惟真と祖父、惟教(これのり)が耳川の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。この時9歳。現代だと小学3年生くらいです。耳川合戦では「日向後家」という未亡人が多数うまれたのですが家督も若輩の者が継ぐことが多かったようです。
1586年 豊薩合戦
周辺の諸将が次々と島津方に降る中で、客将、山田宗昌(

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戦国最強の女将 吉岡 妙林尼

戦国最強の女将 吉岡 妙林尼

吉岡妙林尼(よしおか みょうりんに)は戦国時代最強といわれた女武将です。信長の野望などでは「巴御前」のような長刀を持った勇ましい姿が特徴の人物ですね。
大友家家臣の吉岡家の人物紹介ではこの人物が外せません。
ただし、正確な記述がないので、まさに伝説の人物です。
生誕、没年不明。
父の名前も大江神社の神主、林左京亮(はやしさきょうのすけ)、鉱石採掘の、丹生小次郎正敏(にうこじろうまさとし)ともいわれ

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吉岡 甚吉(よしおか じんきち)

吉岡 甚吉(よしおか じんきち)

生誕不明。死没も不明。
父は吉岡鑑興(よしおか あきおき)。
1578年耳川の合戦で父が戦死。家督を継ぐ。
1586年の豊薩合戦の際、大友宗麟(おおとも そうりん)が籠城する臼杵丹生城(現:うすきじょう)を守る。二王座(におうざ)を守り戦功をあげる。二王座の兵300~500に対し島津軍3千と戦いこれの撃退。後に甚吉坂(じんきちさか)なる呼び名もついている。
大友義統(おおとも よしむね)の時代に統

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佐田隆居(さだ たかおき)

佐田隆居(さだ たかおき)

生誕不明。死没も不明。
佐田氏は宇都宮親景(うつのみや ちかかげ)が佐田川と山蔵川が流れる佐田の土地に移住してから「佐田」を名乗るようになった宇都宮氏の分家。
大内氏が豊後を支配するようになって宇佐郡の郡代を任じられた。

佐田氏はこれにより大内氏の配下となり大内軍対大友氏の合戦「勢場が原の合戦」では大内軍として参戦している。

1551年の政変で大内義隆(おおうち よしたか)が殺害される。

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高橋 統増(立花 直次)

高橋 統増(立花 直次)

生誕は1572年。死没は1617年。
父は高橋紹運(たかはし じょううん)。母は斎藤鎮実(さいとうしげさね)の娘。次男であり、長男は立花宗茂(たちばなむねしげ)。
幼名は千若丸。
大友義統の諱を貰って統増(むねます)と名乗る。
兄、宗茂が立花道雪(たちばなどうせつ)の婿養子となったため、高橋家の嫡男となった。
長男、宗茂をベタ惚れした立花道雪が娘誾千代の夫にと婿養子を希望。
高橋紹運も嫡男、宗茂を

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一万田鑑相(いちまんだあきすけ)

一万田鑑相(いちまんだあきすけ)

生誕不明。死没は1553年。大友能直の三男 大友時景を祖とし、一万田村に土着し一万田性を名乗った。鳥屋城を居城に400年近く治めた一族。

鑑実(あきざね)の父親で、大友義鑑(おおとも よしあき)に仕える。この時の名前は親実(ちかざね)で息子とともに改名し、鑑相(あきすけ)を名乗る。兄弟に高橋鑑種(たかはし あきたね)宗像鑑久(むなかた あきひさ)がいる。

1550年二階崩れの変が起き、大友義鑑

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討ち死に三代 高田氏

討ち死に三代 高田氏

高田氏は伝えられる系図によれば、清和源氏ということになっている。
高田氏の祖は源頼朝に仕えた高田掃部助重定で大友能直の豊後下向のついて豊後に下ったとされ、来縄郷高田村に高田氏が居城を築いた、と記されている。
 しかし、高田城を築き、来縄郷の地頭だったという高田氏の名は記録がない。また、大友能直の豊後下向のことにも疑問が出されており、高田重定が能直について豊後に下ったという説も疑わしいものとなってい

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雄城 治景(おぎ はるかげ)

雄城 治景(おぎ はるかげ)

生誕不明。死没も不明。大友義鑑、義鎮の代の家臣。

加判衆の一人で記載がある。加判衆は大友家の重臣的なポジションですがこの人物記述があまりない。地名から稙田近郊の城主とも、別府の城主とも言われますが確実な記述はありません。まさに小説にするならこの人物の視点から大友家を書くと面白いでしょう。大友義鑑の曾祖父、大友親治(おおとも ちかはる)の諱をいただいていますのでかなりのご高齢と思います。親治が死没

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田北 鑑生(たきた あきなり)

田北 鑑生(たきた あきなり)

生誕不明。死没は1561年。

大友氏の家老である加判衆の田北親員(たきた ちかかず)の子として誕生。

1527年 佐伯惟治の乱の討伐に父とともに参陣、戦功をあげた。

1534年 勢場ヶ原の戦いでは先陣が討ち取られ形勢が不利の中、戦い。杉重信(すぎ しげのぶ)を討ち取り、陶興房(すえ おきふさ)を負傷させる戦功をあげ、大友軍の勝利に貢献した。

二回崩れの変後、大友義鎮の加判衆筆頭として筑前方

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小原 鑑元(おばら あきもと)

小原 鑑元(おばら あきもと)

豊後国の戦国大名・大友氏の家臣である小原右並の子として誕生。初めは大友義鑑に仕え、その偏諱を賜って鑑元と名乗る。小原氏は阿南氏庶流で阿南荘小原(現・大分県由布市)を本貫とする。

1550年の二階崩れの変の際、義鑑の遺書に雄城治景・吉岡長増・田北鑑生・臼杵鑑続・志賀親守と共に連署。以後は、義鑑の子・大友義鎮の加判衆(家老)となる。同年、この大友家の混乱に乗じて隈本城に入った菊池義武を佐伯惟教らと共

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問注所 統景(もんちゅうじょ むねかげ)

問注所 統景(もんちゅうじょ むねかげ)

生誕不明。死没は1593年文禄の役での討ち死。

筑後国長岩城城主。

問注所(もんちゅうじょ)というのは元々鎌倉時代の行政機関で今でいう裁判所みたいなところ。初代執事の三善康信(みよしやすのぶ)を祖先に持ち大友氏が九州に派遣された際に同行し問注所を名乗ったそうです。

大友義統の諱を貰い統景を名乗る。1578年の耳川合戦の敗北で肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が叛旗を掲げ、筑後侵攻を行う

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