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雄城 治景(おぎ はるかげ)

生誕不明。死没も不明。大友義鑑、義鎮の代の家臣。

加判衆の一人で記載がある。加判衆は大友家の重臣的なポジションですがこの人物記述があまりない。地名から稙田近郊の城主とも、別府の城主とも言われますが確実な記述はありません。まさに小説にするならこの人物の視点から大友家を書くと面白いでしょう。大友義鑑の曾祖父、大友親治(おおとも ちかはる)の諱をいただいていますのでかなりのご高齢と思います。親治が死没が1524年なのでその前に元服したとしても大友義鎮の家臣の時には40歳~60歳くらいではと思います。

1550年「二階崩れの変」で重傷を負った大友義鑑は、死の間際に嫡男大友義鎮に「義鑑条々」を送った。雄城治景は吉岡長増、田北鑑生、臼杵鑑続らと共に連署した。この時点では義鑑時代の加判衆かそれに近い要職にいたことがうかがえます。

田北はイケイケ武将、臼杵は外交官、吉岡は外交、戦略家、となるとおそらく雄城の役割は内政、平坦輸送かと思われます。地味な役割ですがすごく重要な仕事してたんではないのかな?稙田近郊の城主であれば多くの水田があったと思われます。ちなみに「多くの田んぼ」が「大分」の地名の由来でもあるのですが・・。

1551年、小原鑑元が加判衆から解任された時に、加判衆として他姓衆を代表して就任した。加判衆は同紋衆(一門、譜代)が四人、他姓衆が一人で、その他姓衆が雄城治景。義鎮としては祖父時代からの忠臣を起用したとなりますが、高齢の他姓衆代表におそらく脅威は感じていないはずです。

1553年、雄城治景は大友義鎮がキリシタン布教を許可した際に反対したため、大友義鎮の不興を買い加判衆を解任された。これにより大友義鎮は他姓衆を見限り、同紋衆(一門、譜代)重視の人材起用に舵を切った象徴的な人事だったのではないでしょうか?

高齢の他姓衆が諫言するほど大友義鎮はキリスト教に傾倒しだしていたのでしょう。正室に隠れてマリア像を拝んでいたとか逸話はありますからね。

死後は嫡男、雄城鎮景(しげかげ)が大友義鎮に仕えます。

ちなみに豊後大神氏の一族といわれていますが、他説にあの楠木正成の弟が始祖ともいわれています。なるほど、他姓衆だけど大物ですね。

活躍の記載が無いけど、多分、重要な仕事した人。

雄城治景でした。

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