見出し画像

小原 鑑元(おばら あきもと)

豊後国の戦国大名・大友氏の家臣である小原右並の子として誕生。初めは大友義鑑に仕え、その偏諱を賜って鑑元と名乗る。小原氏は阿南氏庶流で阿南荘小原(現・大分県由布市)を本貫とする。

1550年の二階崩れの変の際、義鑑の遺書に雄城治景・吉岡長増・田北鑑生・臼杵鑑続・志賀親守と共に連署。以後は、義鑑の子・大友義鎮の加判衆(家老)となる。同年、この大友家の混乱に乗じて隈本城に入った菊池義武を佐伯惟教らと共に攻め肥後国を平定した。1551年南関城に入り肥後方分となる。

1556年、大友家中の他紋衆(大友氏が豊後国へ来る以前からここに領地を持って住んでいた武家)を糾合し、大友庶家である同紋衆の重用政策に反対して挙兵。この同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前からあり、あえて義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。しかし義鎮は同紋衆を重用し、鑑元は肥後平定後加判衆から外されていため、この事件の要因ともなった。

他紋衆の挙兵は大友氏館のある府内でも発生し、一時は当主義鎮も要害の丹生島城へ避難する事態となったが、同紋衆の働きにより、共に挙兵した本庄新左衛門尉統綱、中村新兵衛長直(名は鎮信とも)、賀来紀伊守惟重らは豊後で討ち取られ、佐伯惟教は伊予国に逃亡した。勇将である鑑元は南関城に籠城し城兵を叱咤して奮戦したが、城に火をかけられるに及んで妻子を手に掛け、城兵と共に城外に打って出て討死した。

大友宗麟の最初の間違いが父、義鑑の遺言を守らなかったことだと言われています。これが無ければ九州6州の平定や島津との戦いもかなり違ったはずだと思われます。また部下の妻に手を出す悪いくせも反乱を起こす理由にしては十分だったのでしょう。小原さんは義鑑の右腕的な重臣です。好き嫌いの激しい宗麟が加判衆から外すところからかなりうるさい家臣に思われていたはずです。反乱なければ道雪とともに宗麟の乱痴気を押さえていたと思うんですがね。ちなみにこの年に美濃の斎藤道三も死んでいます。戦国時代の象徴的な事件の多い時期ですね。

小原鑑元でした。

よければサポートお願いします。