mano. #18「自分の記憶・Mi memoria②」
自分の記憶、自分の感覚、自分の好み。。。
今回は、「自分の記憶・Mi memoria①」でお話しを進めてきた内容の後編になります。
先ずは前回のおさらいから、
前回は、「意思決定」の中に "理性的" と "本能的" な要素が含まれているということをお伝えしましたが、
出来事に対しての判断基準については。。。?
ー 理性的
「世の中の常識に流されたり、人の意見を意識したり、承認欲求を満たすなど、周囲からの見られ方や社会的な期待に応えようとする行動についての理性と。。。」
ー 本能的-
「無意識な領域で身体が反応してしまうことや、慣れた動作に心地良さを感じることなど、身体が勝手に保護を行うホメオスタシス機能の本能と。。。」
その時々での使い分けはあるかと思いますが、この「幾つか」の確認事項を済ませた後に、行動に移すことが「普通」や「一般的」の流れということで話を進めてまいりました。
しかし、この2つの確認作業の他に、自分の中で既に判断ができている部分があるように思うのです。
それでは “自然な感覚、素直な発想、スムーズな反応” が、どのようなときに起きるのか? どのような状態になったら感じれるのか?
今回の本題に入っていきたいと思います。
自分の場合は、普段から理性的な確認事項が多く、思考、行動、発言、習慣と、生活の中でも “人からの見られ方” を気にしてしまい、目の前で起きている状況に対しても ”普通を意識した言動” が多くなっています。
どうして、そんなに人の目が気になるのか?
これは、「自分が育った環境」や「家族内の意識」が影響しているからだと思います。
【育った環境】
・世間体を意識する
・近所付き合いを大切にする
・社会や地域コミュニティーの規律を守る
【家族内の意識】
・兄弟、姉妹での家族内での役割や分担
・世間においての両親の立ち位置、立場の理解と把握
・自己表現、行動意欲の制限や調整
このような事柄は、規律や秩序を重視している日本人にとって、当たり前に心がけている「マナー」でもありますが、この「礼儀作法」を過剰に意識し過ぎると、自分の存在を大切にした「自分のため」の生き方に意識を向けるのではなく、周囲の空気や温度を重視した「人のため」の生き方を優先するようになってしまいます。。。
日々の生活の中で、「周りの人を大切にすること、周囲の人に心を配ること、地域環境を整えること」などは、周りとの関係性を良好にするためには必要な意識になります。
ですが、人によっては 重要な考え方 として教わり、家族を守るための意識 だと認識させられると、それが強固な記憶として心や体にしみつき、その結果 ”自己の自由と平等” は失われていきます。
これにより、本能的な保護機能もストレスを遠ざけようと反応し、同様な方向に進んでしまいます。
平等性への配慮、波風を立てない、人に迷惑をかけない、家族が悲しむ顔を見たくない。。。
「模範的な人間」
そんな自分を演じる。。。
“自然な感覚、素直な発想、スムーズな反応”
人のカラダの中には、人の意識の中には、人の魂の中には。。。科学や常識のデータでは計れない、何かがあるはずです。
この世に生をうけてきたときに、赤ちゃんは「素の自分」を表現します。
ミルクが欲しくなったときやオムツを替えて欲しいときには大声で泣きだし、楽しい音楽が聞こえてきたり、好きな人と顔を合わせたりすると自然に笑顔を見せてくれます。
この時、赤ちゃんの中での社会的・一般的な常識はありません。
そこにあるのは「感覚・感性・感情」の豊かさだけです。
自分の ”感覚・感性・感情” を大切にする
周りには理解されないかもしれない感覚
自分にしか表現できない感性
心から湧き上がるの感情
これが「本当の自分との出逢い」となり、「本物の自分の生き方」として記憶に残され「自分の生きた証」となっていきます。
そうです、「感」こそが大切な自己察知・判断なのです。
自分の記憶を明るくするのは、自分です!
どうでしたか?
今回は前編・後編に分けてお伝えさせていただきましたが、「自分の記憶」の持ち方については、それぞれが歩んでいる現実世界によって異なります。
ですから、ぜひ皆さまも自分の記憶を素直な感情で辿ってみてください。
必ず大切な存在と出逢えるから (^0^)b✨
今回も最後まで読んでいただきありがとうございます。
あと数日で8月が終わろうとしていますね✋😅💦
心身ともに健やかな日々を送れますよう願っています。
Gracias a dios.
HIDE. Oza🌵
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