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ブラック企業回顧録 ②

⚠️宣伝目的での♡禁止

 僕が入社した湯川画房は初日からブラック企業だった。求人票には勤務時間は9時から17時45分と記載されていたのに、初日から残業だった。残業が当たり前のようで定時に帰れる雰囲気ではなく、帰っていいとも言われず、仕事があるわけでもないからなんとなく座っているだけだった。その後、3か月で退職するまでの間、定時過ぎで帰ったことは一度しかなかった。その日は異様に権田の機嫌がよかったのだ。
 入社して数日後、定時の17時45分を大幅に過ぎてから「歓迎会」ということで、「あさくま」というステーキの店に行き、二次会はどこかのジャズバーに連れて行かれた。ドラムとベースとハモンドオルガンの生演奏がある店で、社員達は主役であるはずの新入社員に話しかけることもなく水割りなどを飲んでいて、まったく退屈な時間だった。
 そして、ようやく帰ることができると安堵したのも束の間、今度はどこかにある権田の自宅に連行されたのだけど、新入社員は僕だけになっていた。
 権田というのは社長である湯川の義理の弟で、刑事ドラマの気難しい刑事役に出てきそうな、頑固そうな顔にいつも眉間に皺を寄せている神経質なチビで、経理をやっている母親と共に重役出勤した途端にネチネチと小言を言い始める嫌な男だった。
 権田の母親はいかにも金持ちの婆さんという身なりで上品な人だったけど、どこか近づき難い雰囲気があった。
 その権田の自宅は『モダンリビング』に載ってそうな豪邸で、狭いビルの一室に十人以上の社員を詰め込んで、電通や朝通の下請け仕事をやっているような有限会社の役員に過ぎない権田が、なぜそんな豪邸に住んでいるのか謎だった。
 広いリビングのテーブルに座ると、当時では最大の大きさではないかと思うブラウン管テレビに突然映し出された映像に、僕は唖然とした。
 それは裏ビデオだったのだ。
 まず会社の幹部である権田が、自宅で未成年者である僕を含む社員に裏ビデオを見せるという状況が理解できなかったし、女性経験がなかった僕は、その裏ビデオで初めて女性器やら性行為を見せられて、僅かながらショックを受けた。
 スキンヘッドの筋肉質の男が、「背面駅弁」とか「バック駅弁」と言われる体位で結合しているシーンは今でもはっきりと思い出せる。
 しかも、そこに権田の母親がいるというのも異様だった。普通、母親の前でアダルトビデオ、それも裏ビデオを観るだろうか。さらにおかしなことに、その母親も未成年者の僕を夜遅くまでつき合わせて裏ビデオを見せていることを窘めることはなかったのだ。
 ようやく釈放されて権田の自宅を出ると、どこかにある「分室」で一人で仕事をしている山男風の髭を生やした男に「大変でしょ?でも辞めないでね。続ければいいことあるから」と声を掛けられ、僕はこの人がいる分室に行きたいと思った。山男の言った「大変でしょ?」は権田のことだったのだろう。今思い出しても、湯川画房で唯一マトモな人間だったのだ。
 新入社員の中で最も権田の小言の餌食になったのは、死後3日の魚の目をした沢村だった。実際、仕事すらロクにできないのに社員の中で最もタバコ休憩が多かったのだから当然ではあるけど、権田のネチネチグチグチとした陰湿な小言は、かなり精神に堪えるもので、しばらくして沢村の目は死後1週間の魚の目になっていた。
 湯川画房では8時過ぎると、弁当が出るのだけど、その弁当の前にも権田がネチネチグチグチと小言を言うこともあって、社員達は食事の配給前に神父の説教を聞かされるホームレスのように大人しく権田の意味不明な小言を聞いていた。
 そして、入社して僅か2週間で沢村はノイローゼになって出社しなくなった。一度、チーフの足立に頼まれて沢村の自宅に電話したことがあったけど、沢村は「もう行きたくない」と言い、それっきりになった。
 湯川画房は広告やカタログの商品の写真修正をやっているので、5月頃から仕事が忙しくなり、出社するとエアブラシの社員が全員床に寝ていたりして、僕はとんでもない会社に入ってしまったと思った。
 商品写真の「切り抜き」は今なら画像編集で一瞬でできるけど、当時は商品の形に合わせてマスキングを切り抜き、周囲に白い絵の具をエアブラシで吹き付けるという仕事が大量にあり、新入社員に仕事を教える時間もないようで、僕は沼戸というデブ男の下で新築マンションの間取り図のトレースと「洋室6畳」などの写植を貼る作業をやらされ、肝心のセルの切り抜きの練習はできなくなってしまった。
 そんなある日、70年代のフォークシンガーのような古臭い髪型をした徳田というナヨナヨしたチビが、僕の脇腹を執拗に突いてきた。中学生かよと思いながらもしばらく突かれていたのだけど、僕は急速にイライラしてきて「いい加減にしろよ。表に出ろ」みたいなことを言っていた。他の社員には聞こえなかったので、騒ぎにはならなかった。
 見た目おとなしそうな僕の反応が予想外だったのか、徳田は明らかにビビっていて表に出ることはなかった。実際に表に出ていたら、徳田は救急車、僕は人生初のパトカーに乗っていたかもしれない。
 それから徳田のセコい嫌がらせはなくなったのだけど、沢村が来なくなって権田の小言の鉾先は僕と黒木に向けられるようになって、このままでは権田に「表に出ろ」と言ってしまうかもしれなかった。
 僕は相変わらず入社目的のエアブラシには一切触れることもできず、間取り図のトレースを続けていた。
 湯川画房でただ一人のデザイナーである加古さんが新婚旅行のエジプトから帰ってくると、僕はデザインの方に回され、ファミレスのメニューや怪しい先物取引のパンフレットのカンプを作った。「カンプ」というのは、クライアントへのプレゼンするための見本のようなものだ。
 僕はエアブラシから確実に遠ざかっている状況に失望していたし、帰宅すると22時過ぎが普通で、時には0時過ぎていることもあって、休日に絵を描く気力も失われていった。

©Hida*Hitsukï/転載禁止

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