ブラック企業回顧録 ①
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中学を卒業してすぐのことだった。当時、漠然とアニメーターになりたいと思っていた僕は、毎月近所のパン屋でアニメ雑誌の『アニメージュ』を取り寄せてもらっていたのだけど、その月の表紙に衝撃を受けた。それはその年の夏に公開される『さよなら銀河鉄道999』のポスター用に描かれたメーテルのイラストだったのだけど、それまで見たこともない作風でメーテルが立体的に描かれていたのだ。驚いたことに髪の毛が一本一本描かれており、メーテルの金色の髪は画面の中心から両端に向かって青く変化し、どうやって描いたのかさえも想像すらできなかった。今ならCGで楽に描けるだろうけど、1981年のことだ。描いたのはアメリカで活躍するイラストレーターの長岡秀星さんだった。
僕は買ったばかりのその『アニメージュ』を持って近所のゴリの家に向かった。ゴリというのは、中学三年のクラスメイトで、漫画がうまくて、本気でアニメを作ろうと思っていた僕は絵コンテを描き、ゴリにキャラクターデザインをやらせていた。
ゴリもきっと「すげー」と言うだろう、僕はヤツの驚く顔が早く見たかった。家に行くと、眠そうに出てきたゴリに『アニメージュ』の表紙を見せた。しかし、ゴリは驚く様子もなく「鼻の穴の大きさが左右で違うじゃん」と言ったのだった。その反応の薄さに落胆した僕は家に帰ったのだけど、それがゴリとの最後になった。
そして、4月に僕は歩いて行けるところにある高校のデザイン科に入学した。クラスメイトに長岡秀星さんの画集を持っているヤツがいて、そこで初めてリキテックスというアクリル絵の具とエアブラシなどで描いていることを知った。
ちょうどその頃、NHKで長岡秀星さんと喜多郎さんのドキュメンタリーがあり、実際に絵を描くところを見ることができた。
僕はボンベ式のエアブラシを買ってもらい、入学時に買わされたポスターカラーで銀河の絵を描いてみた。しかし、水性のポスターカラーでは色を重ねると滲んで汚くなってしまい、しばらくして、高校から月五千円になった小遣いを全部叩いてリキテックスを何色か揃えた。
長岡秀星さんはイラストボードに「ジェッソ」というリキテックスの白い下塗り剤を厚塗りして表面をサンドペーパーで磨き、トレッシングペーパーに描いた下書きの裏にパステルを塗って鉄筆で転写してから着色していることもわかっていたので、その辺もそっくり真似た。
しかし、ボンベ式のエアブラシは使っていると次第にボンベが冷えて噴き出す空気が弱まって、絵の具の粒子も荒くなってしまう。それに、一枚描くにも何本ものボンベが必要になって小遣いではとても足りない。しかし、デザイン科に入学した時点で学校指定の様々な画材や道具を買い揃えてもらっていて、5万円ほどのコンプレッサーを買ってもらえるとは思えなかった。それで結局、高校三年間で描いたのは僅か5枚ほどでしかなかった。
高校を卒業すると、僕はエアブラシで写真修正をする「湯川画房」という会社に入社した。というより「してしまった」と言った方が正しいだろう。その湯川画房という会社は、名古屋の栄のはずれの小さな5階建てのビルの5階にあった。
僕の他に沢村と黒木という同期がいた。沢村はビシッと三揃いのスーツを着てきたのだけど、その目は死後三日ほど経った魚のようで、初日からタバコを吸ったり、なんとも無気力な雰囲気を漂わせ、黒木は沢村とは正反対に必要以上にやる気を漲らせ、真面目で堅苦しそうなつまらない男だった。
社員はどこか感じの悪い男ばかりで、入社してすぐに「なんか嫌な会社だな」と思ったのだけど、もとよりそこでずっと務めるつもりはなく、エアブラシの技術を身につけて素早くフリーのイラストレーターを目指す作戦だったので、今は下積み的な辛抱が必要だと思った。
実際、それまでエアブラシのマスキングには、マスキングシートを貼り付けて切り抜いていたのだけど、その会社では透明なセルロイドを切り抜いてマスキングにしていて驚いた。マスキングシートのように粘着するものではなく、エアブラシの風圧でセルロイドを押さえつけるようだった。
「チーフ」と呼ばれている男が「まずはセル切りができないことには仕事にならないからね」とセルを切るためのペン先のようなナイフをくれたのだけど、そこからエアブラシの技術を身につけてオサラバという僕の作戦は早くも頓挫していくのだった。
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