『一般絶対性理論』『この世は1進数』相対という共依存的在り方から抜け出す
要約:「全一さ」 参照OSHO (2022.10.13追記)
たぶんこれで精一杯。
我々は相対性(数値)というものに慣れすぎている。
<用語>
連続的複雑系:時間的空間的連続性を持った、種々の要素からなる、ある閉じた系。常識的な感覚で言えば太陽系。具体的に言えば多元宇宙。あなたがそうだと思うもの。
主体と客体:行為者と被行為者。作用する者と作用される者。その場の何者かの判断により規定される。
批判1.自然界での「食物連鎖」という言葉
人には、連続的複雑系の中から「ある場面」だけを抜き出し、そこで起こっている現象を「主体と客体」「環境と応答」「相互作用(要素はn個)」などのように対立化させ、分別可能な要素の集合体として扱う癖がある。
例:〔する-される〕〔食う-食われる〕〔襲う-襲われる〕〔鳴く-聞く〕〔鳴く-応える〕〔吸う-吸われる〕〔かじる-かじられる〕〔自然-人間〕〔動物-植物-微生物〕〔消費者-生産者-分解者〕
この認知性質は、集団の中である役割を担うために備わった強い「自我」を持つ生物であるがゆえの、短絡的な希望的観測であり、社会的自己効力欲求を系の識別可能な要素に投影させたにすぎず、その全体を理解するにはどうしても一歩及ばない。
ゆえに、系内部の「動的平衡」を「連鎖」と呼んで片付けてしまうように「名付け」によって理解した気になっていては、連鎖の鎖の輪一つ一つが鎖の形をしていて、さらにそれらが複雑に絡み合った流動的変化を絶えず繰り返す神秘的情景を認知できようはずもない。
批判2.論理が摂理に及ばない理由
人間の認知は五感(六根:眼耳鼻舌身意)から成るがゆえに、それら感覚器官が対応していない刺激には応答することができない。これらの感覚器官は我々が「生きるため」にあったら便利な機能に他ならず、「摂理を知る」ための機能ではないのである。
機械を使って見えない波長を見る技術も、知覚の及ばない微小を知る技術も、知的好奇心を満たして生活を楽にするのには役立つが、いかなる智慧も個々人が満足に「生きるため」であって、「摂理を知りたい」というのは二の次なのである。したがって、細密に要素を識別してその関係性を分析し、個々を相対化することは職業的ではあるが、あまり生物的ではない。
批判3.分人・分有・ペルソナ・多重人格・精神分裂
「曼荼羅」
いまや自己同一性を持つというのは夢のような話で、個人の細分化もかなり深刻化しつつある。でもこれは今に始まった話ではないのだ。
【分人】その場その場に適った自分を無意識に演じざるをえない風潮。
【分有】他人の中の自分、自分の中の他人のイメージ。
【ペルソナ】仮面。誰もが持つ外的側面と内的側面を隔てるもの。
【多重人格】モノクロに色調が加わったような、高度に複雑化した性格。
【精神分裂症】上記の精神的負荷を脳が処理しきれずに起こる反応。
見える物とそこに感じられる実態とが存在的に一致しなくなっているがゆえの錯誤。自分の姿を映し見る度に襲われる違和感「私はこんなに単純じゃないぞ。」「この身体は違う私の物のはずなのに。」
宇宙(人の心)が描かれてるとされる両界曼荼羅には1800尊余りの仏が描かれている。つまり密教において古人は人一人の心をそれほどまでに分割してみせたのだ。
永遠に続くフラクタルの中、病的に錯綜する相対的世界の中で健全でいられる精神の方が異常であり、そんな彼らの鈍感さが羨ましい。こんな感覚すらあまりに主体的で狂おしい。
絶対的存在へ道
【絶対的存在の性質】
・相対的でない存在
・対象化されない存在
・対象化できない存在
・外部と隔絶された系そのもの
絶対的1:0=1、n=1、0×∞=∞、∞=1
⇒すべては1に始まり1に終わる
【相対的存在との大きな違いは”0と1”の関係】
相対的1:絶対的0:0=0、0×1=0、0×∞=0
⇒すべては0から生じて∞まで続く。すなわち絶対的0を設定し、そこから一定程度離れた数を便宜的に1としている。またこれを広く共有したがるがゆえに目に見える尺度、物質的側面に傾倒する癖がある。
10進数は{0,1,2,3,4,5,6,7,8,9}の10パターン
2進数は{0,1}の2パターン
では、1進数は??
1進数、それはまさに相対的でないもの、絶対性の象徴、無か有かを定める存在
1進数で表すならば、この世界は【Ø=" ":無】と【0=1=n:有】のどちらだろう。
私が"何者か"なんてわからない。しかし私は確かに”存在する”。これが1でなくてなんだ。空であり1であり、全でもある。まさに【0=1=n】の世界ではないか。
相対から絶対へ
「自己の拡張」により、知覚の制限が消え、現象のすべてが「摂理」そのものとなり、全ての作用と行為は相殺され、自己は時空間的広がりを持った「自虚」となる。そのとき、巷の科学や論述やらで惑わされることは決してない。
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・自他不二で考える癖を付ける。
・一人で財を囲む「私」から、共同体的「和多志」へ
・消費と生産を合わせて「生業」
・生と死を合わせて「尊厳」
・美と醜を合わせて「純潔」
・優と劣を合わせて「無垢」
・善と悪を合わせて「覚悟」
・好と嫌を合わせて「関心」
・関心と無関心を合わせて「思慮」
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ああ、なんと相対性は俗物的で、絶対性はこんなにも神々しい。
《処世訓》
・情けは人のためならず、他人は自分を映す鏡。
・愛することを怠れば、愛されることはない。
・助けることを怠れば、救われることはない。
・優しさを忘れれば、優しさに気づくことはない。
・読むことを怠れば、魅力的な文は書けない。
・相手を尊重しなければ、誰にも慕われることはない。
《諫言》
・死を恐れるな。死なくして生はない。向き合って修養せよ。
・殺生を恐れるな。殺したことに胸を張れるくらい正しく殺せ。
・社会とは暴力だ。暴力的でない集団などはない。暴力を否定するのならただ1人、誰よりも強く歩め。力を恐れず、望まず、修めよ。
・人を見るなかれ。人に物言うなかれ。自他の両目で世界を見よ。
数学的思考法・万物の定量化は確かに数え切れないほどの成功を収めてきた。
しかし相対的観念にも必ず限界はある。相対性における絶対的0を記述することは不可能だから。
資本主義の最後に共産主義があるように、
隆盛の後に衰退があるように、
啓蒙の先に理性の暴走があるように、時代は移り変わる。
絶対でも相対でもなく、1と0の間に答えがあるという人もいるだろう。
たしかに目を凝らせばそこには無限ともいえるほどの数がある。数に頼る限りは相対性なのだが。
何にせよ、この思索こそ現代に対する私の「答え」
どんな優れた弁明も言論も、妄言だの詭弁だのと非難されてしまえば逆らうことはできない。しかし、わかる人にはわかって欲しい。真の思想や信念とはそういうものだ。
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