空を飛ぶこと、他言語を理解すること
小学生の頃のプロフィール帳にあった、お決まりの質問。
もし、魔法が使えたら?
もし、超能力が手に入るなら?
私は迷わず、空を飛びたい、と答える子どもでした。
そんな私の憧れは、もちろん、魔女。空を飛ぶ、つまりは、どんな境界も軽々と越える力をもっている彼女たちに、どんなに憧れたことでしょう。
でも、
もしも実際に空を飛べて、
”境界”を越えたら、
どうなるんだろう?
いつからか、そんな疑問と共に、「体だけ飛べても、その土地の言葉が分からなかったら、本当の意味で境界を越えたことにはならないな」、なんて思うようになりました。
私の憧れの対象は、本の中の魔女ではなく、現実で多言語を操る人たちへと変わっていきました。
そのおかげもあり、英語の勉強は、わりと好きでした。
でも、まさに下手の横好きといった感じで、成績も大したことはありませんでしたし、なかなか上手く話せるようにもなりませんでした。
それでも、学校のテストの出来の良し悪しで英語に対する苦手意識を持たないように心を決めていました。
そして、いつか自分は英語で会話できるようになるんだ、すらすら原書を読めるようになるんだ、そのための勉強をしているんだ、と言い聞かせるようにしていました。
(↓英語勉強中の頃のスケジュール帳のメモ。見出し画像に使ったことがあるので、見覚えがある人もいらっしゃるかも?)
そして、大学4年の、今。
私は毎朝、洋書を読んでいます。
かれこれ2年近くこの習慣を続けているので、今では英語を読むのに慣れ、最近では辞書を使わずに読み進めています。
今は、洋書を読むのが、楽しいのです。
母語以外の言語を、そのまま飲み込む、あの感覚。
洋書を読み通した時の、異世界を一人で渡りきったような感覚。
……それは、空を飛ぶことと似ていると思います。
言語という壁の向こう側に見える景色を、するりと覗きに行くこと。
その言語を分かる者にしか味わうことのできない本の中の世界を、自由に歩き回ること。
それは、言語という境界を飛び越えることに他ならず、魔女に憧れていた私が手に入れた、私なりの"空の飛び方"かもしれない、と思うのです。
「日本語に翻訳されているのがあるのだから、わざわざ原書で読むことはない」なんて思う人もいるでしょう。
でも、翻訳者という媒介者なしに、作者の描きたかった世界を受け取った時の感慨深さというのは、日本語に翻訳されたものを読んだ時とは全く異なっています。
それに、何度も翻訳されている作品を読み比べると分かると思うのですが、翻訳者次第、訳し方次第で、作品の雰囲気は、本当に大きく変わるのです。
だから、原書で読むのは、やめられないのです。
英語以外でも読みたいな……と、最近、ドイツ語の原書も読み始めました。何度も同じところを読んでやっと理解するという感じなので(辞書を使わないせいもありますね)、とうてい一冊読み通すことはできそうにはありません。
いつか、気持ちよく飛べたらなぁと思うこの頃です。
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