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パリ軟禁日記 47日目 さらばペスト

2020/5/2(土)
 頂からの景色は、やっぱり格別だった。

 軟禁生活が始まってから、辞書を引きながらのゆっくり精読していたアルベール・カミュ『ペスト』を読み終わった。長いようで、短い旅だった。以前の日記で「外国語で小説を読むことは、異国の山を登ることに似ている」という日記を書いた。今回の登山も、多くの学びがある素晴らしい旅だった。

 読むきっかけは2つあった。まず、この度のウイルス蔓延による都市封鎖と軟禁生活を経験するにあたって、先人の知恵というか、ケーススタディを学んでみたかった。僕の自分の身の回りのことはこうやって記録に残すことができるけれども、周りの人々含めた一連の出来事を俯瞰しながら見ることは、この危機を乗り越える上で役に立つだろうと思った。

 2つ目は、カミュのまだ読んでいない作品だったからだ。学生の頃に読んだ『異邦人』、そして先輩がやっていた舞台『カリギュラ』を見て、圧倒的な衝撃を受けた。シンプルな力強い語り口と、底に横たわる深淵さ。両作とも、こちらに越してから原文で読み返した。翻訳というガイドがいない、僕と作者との直接の対面。完全な理解ではないにしろ、この距離感は心地よかったし、仏語で読み切れたことは少なからず語学の自信につながった。

 日本でも最近の騒動の影響でよく売れていて、既読の方もいらっしゃるとは思うけれども、あらすじを念のため。
 舞台は1940年代、当時フランスの植民地のアルジェリア、オラン市。4月のある日、街中でネズミが大量に死にはじめる。ペストの始まりだ。街は封鎖され、人々は外界から「追放」される。最初、人々は陽気に酒を飲んで暮らしていたけれども、じきに疫病に翻弄される。それらの様子が、登場人物が残した手記をもとに、謎の語り手によって語られる。

 本作は巷にあふれる単純なパンデミックをテーマにしたパニック作品とは少し異なる。この本が出版されたのが1947年。そして、冒頭のデフォーの引用から、あることが推察できる。

デフォーの前文

「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである」

 それは、ペストという病がナチスドイツによる、不条理で圧倒的な暴力を暗喩しているということだ。その「病」の犠牲者は言うまでもなく、虐殺されたユダヤ人であり、レジスタンスということになろう。

 「不条理」はカミュ文学を読む上でのキーワードだ。容赦無く人々を襲うペストは災厄そのもので、純真な子どもであろうと、悪人だろうと平等に命を奪う。主要な登場人物である医師リウーは自らの生き方、信条を自らに確認せずにはいられない。それは「自らの職務に誠実であること」であり、「聖人たちではなく、犠牲者たちと連帯すること」、そして「人間であること」だった。

 「人間であること」とはどういう意味なのだろうか。僕たちは何もしないでも人間であるわけだけれど、メタファーの世界として、人は何にだってなれてしまう。「英雄」にだって「聖人」になったり、そして「悪魔」になったり「獣」になったり、はたまた「植物」だったり「機械」になったり。
僕たちは身の丈にあった誠実な生き方ができているのだろうか?

 ペストが終息した時、リウーは言う。ペストとの闘いで我々が勝ち取るものは「認識」であり、「記憶」だと。その通りだと思った。人生におけるあらゆる不条理において、僕たちはこの違和感を誠実に認識し、そこで起こったことや失ったものを忘れないでいたい。僕がここに記録していることも、将来どこかで何かの役に立つかもしれない。

 帰り道にその旅を振り返る楽しみがあるように、登山の楽しみは下山のひとときにもある。こうして振り返りながら、山に生えていた樹や枝葉を見ていると、これまでの様々な記憶が呼び起こされた。
なんとも複眼的でニュアンスに富んだ山だった。
僕の心の百名山にその名を刻んでおこう。

さらばアルジェリア、さらばペスト!

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