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パリ軟禁日記 37日目 短編映画と光

2020/4/22(水)
短編映画は、一般的ないわゆる長編映画とは違った楽しみ方がある。長い尺はもたないけれどもパンチの効いたひねりがあるもの。実験的で尖った意欲作。音楽のPVのように、世界観を提示することのみに特化した作品。起承転結やメッセージがコンパクトにまとまっていて、CMに近い作品もある。その形は実に多様だ。何の予習もなしで見るとき、僕たちは冒頭のタイトルからどのように話が進むのか、数分間ワクワクして見ることになる。この「展開の読めなさ」が面白い。

世界でいち早く、世間をお騒がせ中のヤツをテーマにした短編映画をジャ・ジャンクーが撮ってくれた。3分ちょっとなのでぜひ見てもらいたい。

ジャ・ジャンクー(賈樟柯)との出会いは僕が大学生1年生の頃、当時受講した映画論の課題で『世界』を見たのが最初だった。まず、名前がすごい。ド派手に登場して空を飛んでいるような語感があってすぐに名前を覚えた。中国の監督と知って、勝手にジョン・ウーのようなアクション映画を撮るのかと思ったら、詩的で繊細なドラマを得意とする監督だった。当時ろくな映画を見ていなかった僕にとって、正直その良さは一見して理解できるものではなかった。それでも、新作が出て彼の名前を見るたびに、引き寄せられるように映画館に行った(もしくはDVDを借りた)。今ではすっかりカンヌ映画祭等での新作発表が楽しみな監督の一人だ。

今回の短編『来訪』は、ジャ・ジャンクーのもとに映画仲間が訪ねてくる、という内容だ。入り口では体温チェック。握手はなく、部屋に通されてから出てくるのがお茶ではなく消毒液。ちょっと端末の画面を触っただけで「キレイにしないと!」と手を洗いに行く。言うまでもなく、これは緩やかに都市封鎖を解除しようとしている中国の今そのものを描いている。そして、もちろん、これは明日の世界の姿なのかもしれない。もう対岸の火事ではないことを世界中の誰もが知っている。

映画に限らず、物語を作ることは過酷な現実を超克するために有効な手段だ。物語るためにはまず自らの立ち位置を決め、出来事の前後関係・あらましを整理する必要がある。その過程で僕たちは気づいていく。自分の心を悩ませるこの現実のどこが引っ掛かっていて、どこに問題があるのか。根本的な解決策までは出てこずとも、何を伝えたいのか。そしてそれを作品として他者と共有することで、共同体は現実を見つめ直すことができる。多くの志ある芸術家が目指す、語ることによる癒し。

短編の最後のシーンで、ジャ・ジャンクー達は波の音をBGMに多くの人がひしめく昔の中国の映像を眺めている。それは人と人との距離がありえないほど近かった過去へのノスタルジーだろうか。いや、どうもそれだけではなさそうだ。『来訪』の紹介記事にあった彼の言葉が心強い。

「この世界には戦争を経験している映画監督とそうではない監督の2種類がいると言われている。でも私たちは数年後こうも言えるだろう。新型コロナウイルスが蔓延する世の中を経験している監督と、そうでない監督の2種類がいると。この災難は間違いなく私たちに考える時間を与え、私たちの新しい映画文化を作るでしょう」

僕たちは制御不能な世界の荒波に揺らされるだけの
ちっぽけな存在であるかもしれない。
それでも、僕は見た。
『来訪』のラストシーンに「どんなことがあろうとも映画の光を消さない」というジャ・ジャンクーの決意のようなものを。
言葉ではない、イメージによる語り。
そのささやかな残像は僕の心をそっと癒した。

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