パリ軟禁日記 36日目 祖母と紫雨
2020/4/21(火)
今日は祖母の命日なので、祖母を偲ぶ。
大正8年生まれ、昭和を生き抜き、平成28年に亡くなった。祖父に嫁いでから福岡県八幡に移り住んだ。そこでは、製鉄所で働く人々を相手に日用品等を売る店をやっていたと聞いたことがある。「八幡のおばあちゃん」は祖父が亡くなった後も、一人でそこに住み続けた。70歳を越えて、娘家族(僕の両親)と住みはじめるまでに50年が経っていた。
僕が小学1年生の頃、当時八幡にあったスペースワールドというテーマパークに兄弟と連れて行ってもらったことがある。僕は臆病風に吹かれてジェットコースターやフリーフォールには乗れなかったけれど、併設してあった恐竜の展示スペースに感動したのを覚えている。その夜、祖母はクリームシチューに白米という和洋折衷な夕食を用意してくれた。普段食べないクリームシチューという料理に僕はまた感動した。ジャガイモがよく煮えて美味しかった。今思えば、孫が喜ぶようなメニューを祖母なりに考えてくれたのだろう。
祖母は民謡が趣味で、よく自室でテープを聞きながら歌の稽古をしていた(練習ではなく、必ず稽古という単語を使った)。大学の長期休みで、僕が実家に帰ると、祖母が家にいるのが嬉しかった。昼を過ぎても僕がだらだらしていると、祖母は煎茶と茶菓子をお盆に乗せ、居間にやって来てこう言うのだ。「お茶にしませんか。」
この台詞の抑揚と音程はいつ聞いても一定で、しっかりとこのフレーズは僕の脳裏に焼き刻まれている。僕は絶対音感を持ち合わせていないけれども、もしドレミであの音程が再現できるのであれば、僕はパブロフの犬よろしく唾液で口内を潤すことになるだろう。
東京で働くことになった僕に対して「あごを引いて、相手の目を見て話すんよ。ちゃんと食べるんよ」とアドバイスをくれた。社会人になってからも、帰る度に優しくしてもらった。祖母が作る酢の物はビールと相性がよく、美味だった。もうクリームシチューを作る必要はなかった。ありのままの祖母の味がよかった。祖母は年を取ってからもよく食べ、よく歌った。
2016年の正月に帰った時、祖母はまだピンピンしていた。耳が少し遠くなっていたけれども、家中歩き回っていたし、料理もしていた。3月末に胆嚢炎で入院と聞いた時は少し心配したけれども、まさかそのまま会えなくなるとは思わなかった。人がこの世からいなくなる時は、往々にしてそうだ。
まさかあの時会ったのが最後になるなんて。
その日は期せずして、アメリカの伝説的歌手プリンスが亡くなった日でもあった。祖母はプリンスなんて外国の歌手を聴いたことはなかっただろうけれど、アメリカと日本で同じ日に、僕にとってなかなか大きい存在だった歌い手2人がこの世を去った、というのはセンセーショナルな出来事だった。不思議と、身内がプリンスと同格になったような気がして誇らしかった。
祖母を偲ぶ日はプリンスを偲ぶ日でもある。タブレット端末から『パープル・レイン』を再生した。プリンスの歌はおそらくこれからの時代も受け継がれ、いつどこでも聴くことができるだろう。残念ながら、祖母の歌声は僕の心の中にしか残っていない。録音しとけばよかったな。
僕は今、あごを引いて人の目を見て話せる大人になっているのだろうか。
鏡を見て、居住まいを正した。
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