ひきこもりは深刻な問題である一方、そんな深刻に捉えないで欲しいとも思う
ひきこもりに対するイメージが改善しないのは、周りにひきこもりがいたとしても、当事者と出会う機会が無いからだと思う。
趣味を聞かれた時などに「いや~俺、ひきこもりだからさぁ。休日ずっと家にいるよ。」などと言う人はいても、実際にゴリゴリのひきこもりの人の定義というのは決まっている。
【ひきこもり】
・仕事や学校に行ってない
・家族以外の人と交流がない
・その状態が6ヶ月以上続いているが、精神疾患では無い
ひきこもり(Hikikomori)という言葉は海外でも広がっている言葉だと知っている人は少ないかもしれない。
日本人はオタクでコミュ障が多いから、ひきこもりが多いと思っている人もいる。
ただ、実態としては世界中にひきこもりはいるし、中国ではゲーム依存から抜けられずにそのままひきこもりになる子供が社会問題になっていると聞いたこともある。社会保障が充実していない海外の場合だと、貧困からホームレスになる人も多いかもしれない。
中国はフットワークが軽いので、もうそのような問題には何らかの対処がされているかもしれないが、どちらにしろアメリカにもヨーロッパにも、中南米でさえひきこもりはいる。
なんとなく明るい性格の人なら大丈夫とか、文化的なものと考えている人も多いかもしれない。全く関係ないわけではないだろうが、個人的には何かで大きく躓いたら、誰にでもなる可能性はあると思う。
精神病と結びつける人も多いが、厳密には精神疾患を患っていない人で、ずっと家にいる人を「ひきこもり」の定義に入れているらしい。
ただ、ここまで聞くと、ひきこもりというのは楽して生きているようなだらしない人のようなイメージを持つかもしれない。
もちろんそういう人もいるかもしれないが、そういう性格の人は意外と働けるので、何かのキッカケで働くようになる可能性もある。
一番の問題と言えるのは、病気まではいかないにせよ、本人のメンタルや社会との関わり合い方であると思う。
みなさんはひきこもりをどう思うだろうか。
みなさんに聞きたいが、ひきこもりは働くべきだろうか。
YESなら、どのように働くべきだろうか。
多分、真剣に考えずに想像で、どこでもいいから働けよ。と思っているかもしれない。
まず前提として、働けるなら働きたいと思う人がひきこもりには多い。
ひきこもりになる原因はいろいろあるだろうが、何かの社会的な構造の不一致である場合が多い。
ある人は、学校のクラスメートと合わなかったり、そもそも日本の教育システムが合わず、そこから20才くらいになっても、社会と断絶して戻れなくなってしまう。
ある人は、受験で猛勉強して入った大学が想像と違って、一気に不安になり行かなくなってしまう。大学の卒業間際で就活がうまくいかずに、社会から必要とされていないと感じてひきこもりになってしまう人も多い。
結局のところ、本人の問題というよりは、本人と社会の関係である事が多い。
何か違う社会の形であれば、ひきこもりの人を生まずに済む社会になるかもしれない。
以前までは、若い世代のひきこもりを社会復帰させようという活動が盛んだった。それ自体はすごく良いことだと思う。
最近は、それ以上に8050問題が明らかになり、若者以上に中年の人のひきこもりが多すぎるということで、対策が急務になった。
客観的に見れば、若いからまだ何でも出来ると言われがちだが、現実的にはひきこもりである人を好んで採用しようとする企業などいない。その状況が続くと、結局50才になって本当にどうしようもなくなってしまう。
そもそも現在の社会に疑問を持ったり、病気になるまでもないけど虚無感にさいなまれて、ひきこもりとなったのに、結果的にまた一般的な”社会”に解き放つのは、本人たちにとって幸福なことなのかわかりづらい。
極端な話をすれば、ひきこもり自体はさほど問題ではない。ひきこもりが問題になっている理由としては、そこから周りに貧困が引き起こる事である。
簡単に言えば、80の年金生活している親が死んだら、50までひきこもりで生きていた子供が、無年金で生きれずに貧困で死ぬということである。
これは本当にひどい話のようにも思える。
当たり前のように受け入れているが、私達は金がないと生きれないシステムに取り込まれている。
生前に本人の許可もなく勝手にこの世に生み落とされて、生み落とされたら金を稼がないと生きていけない”社会”に取り込まれる。
逆に言えば、ひきこもりが生き残るには、”社会”の外に出なければいけない。
甘いと言えば甘いし、酒を飲める人が飲めない人の気持がわからないように、社会の中にいる人から社会の外に出たい人の気持はわからないかもしれない。
孤独のまま、部屋でほとんどの時間を過ごし、時間を経過すればするほど状況が悪化する焦りと供に生かされる人間の精神状態は、一概に健康な怠け者とは違う。
もちろん働ければいいし、健康なまま生きれればいい。
「ひきこもり」として捉えるから、自己責任と問題が甘くみられがちだが、失業中に病気になったとか、離職中に事故って半身不随になった等で、年金の狭間にハマってしまったりすると、同じようにひきこもりを生む可能性もある。
大きく見れば、何かしらの幅広い多種多様なトラブルで、最終的にひきこもりになる可能性もあれば、何かをキッカケに抜け出すこともできるだろう。
それが果たして運なのか、人脈なのか、本人の努力次第で変えられるのか、その答えを私達は持っていないし、社会でカバーできる範疇を超えている。
仕事が無い人全てに仕事が割り当てられるわけではない。
日本は社会主義ではないので、企業側の好き嫌いで社員を採るか否か決めるからである。どうしても漏れる人がいる。
どうしても漏れる人に、社会はどこまで優しくなれるだろうか。
確率で見れば多数派ではないし、見捨てたからといって、社会全体にものすごい悪影響になるわけでもない。
結局、そのように考えると見捨てられてしまって、他人事になってしまって、理解あるフリをしても近づくと拒絶されるようになる。
その立場を変えるにはどうしたらいいだろうか。
私の浅はかな考えだと、ひきこもりが多数派になるくらい急激に増えて、社会に影響を与えるレベルにまで増えるしかない。
前に言ったと思うが、日本の給料が安いのは、安い給料でちゃんと働く人が日本には多いからである。
「給料安いから3ヶ月で辞めるわ。」という人が続出したら、企業側としては給料を上げざるを得なくなる。
ひきこもりが身近になれば、コンビニの外国人が当たり前になった現代のように、世の中でひきこもりが増えてくれば、普通にひきこもりが採用面接に来ても通るようになる。
それどころか、履歴書に空白がある人なども、多少通りやすくなるだろう。普通に能力があって、この仕事できればいいよ。という雰囲気になりやすい。
何か余計なものを日本の社会は求め過ぎだと思う。まるで人間にガイドブックがあるように、しっかりと設計図によって組み立てられた人間以外は人間じゃないような見方をしている気がする。
そうなると、ロボットとしてしか、人間は生きられなくなるだろう。
ひきこもりは確かに深刻だが、深刻に捉えすぎないで欲しい。
インターネットがあれば、仕事ができる環境で生きている人もすごく多い。
この前WBSで放送されていたのは、身体障害者で外に出られない人でも、カフェのウエイターとしてiPadとロボットを通じて遠隔で仕事ができるような取り組みをしている会社があった。
場所のこだわらず働ける人が増えることで、ひきこもりのように、ただ自宅に閉じこもる人から抜け出す新たな一歩になってほしい。
私は一応働けているが、もし何かをキッカケにこのバランスが崩れたらひきこもりになるだろう。それでも、自宅で出来る限りのことは出来るように頑張る。
英語も勉強して、プログラミングも勉強しながら、それがお金になるのかわからないレベルだったとしても、どうにか自分の出来ることとお金に替えられる事を生み出していくしか無い。
私はまだモチベーションがあるので何とかなっているが、もし不安で何も手がつけられなくなったら、それで終わってしまう。
また事情は違うが、小学4年生でヤングケアラーになり、祖母と母の両方の面倒をみながら長年過ごして、学歴も何も無いという人がこの前深夜のドキュメンタリーに出ていた。
比較にするのも申し訳ないが、まだ家族に助けてもらえる状況というのは救いがあるかもしれないし、全てを捨てなくてもいい状況というのは恵まれているとも言える。
そういう意味では甘えられる場所があるというのは、甘えかもしれない。
ずんの飯尾さんのネタであるような、現実逃避シリーズのメンタルで生きれればいい。厳しいひきこもり環境にある人にとって、平日の昼間からゴロゴロ~ゴロゴロ~♪ あーあスピルバーグ監督の目に止まんねぇかなぁ! は理想のメンタルだと思う。
ネジロウという会社の社長は、天才過ぎて学校に行かず、ずっと自宅で数学ばかり勉強していたらしい。それがある人との出会いで、自分の会社を設立して、社会に舞い戻ってきた。
Youtubeでも引きこもりで英語ばっかり勉強して、英語の仕事に就いた人や、普通にニートだけどYoutuberとして活躍している人もいる。
ひきこもりという”自宅から出ない”という状況より、”社会的に繋がりがない”という状況が一番危険と言えるかもしれない。
ひきこもりとは逆に、コロナによって自宅待機を強いられた環境が不安になり、自殺してしまう人もいる。そういう意味では、意志を持って自らひきこもって精神的に生きれる人と、社会との関わり合いを強くしないと生きれない人というのはあるのだろう。
多数はがどちらで、現在の社会がどちら寄りの社会になっているのか。という話で、どちらが弱いとかどちらが社会不適合者というわけでもない。本人達より、社会がどちらに振れるかという事だろう。
私は今、日本人の友達などと話すより圧倒的に海外の人とチャットしている方が多い。それは英語の勉強を兼ねて始めたことであるが、今は英語の勉強以上に、もし日本で生きれなくなっても海外逃亡すれば、誰かしらかくまってくれるだろう。という自信がある。
その繋がりがあることは、自分にとってかなり大きい。
日本なら彼氏彼女でもないのに毎日チャットすることはないだろうし、出来たとしても数ヶ月続けばいい方で、何年も続かないだろう。
もちろんそれは海外の人にも言えるし、何ら日本と変わらないのだが、たまたま海外にそういう強い繋がりが出来たことは、私の人生を有意義にさせるものであったことは間違いない。
日本の文化はこうだ。と言うと、海外では違うと言ってくれるのは、自分にとって新しい逃げ道が出来るようなもので、新たな甘えを作る原因でもある。
逃げても金無しで生きれる状況が作れるわけではない。結局やることは同じになるし、逃げてもまた同じように逃げ道を探すかもしれない。ただそれが自分の人生であるし、辛いことを耐えて金を稼いで生きる社会を正当化したくないというのもある。
「仕事とはそういうものだ。」と言える人は、一生懸命仕事をして無事生きてきただけで、運悪く何かをキッカケに社会の外に放り出された人を知らないだけだと私は思っている。先に言ったように、どう生きていても訪れることはあるし、自分の不幸だけでなく、家族の不幸によって巻き込まれることもある。
まず知ることが大事であるし、必要以上に深刻にならないことも大事である。
今を自暴自棄にならず、自分の時間を有意義に最大限使って、未来に投資するしかない。金さえあれば解決できる問題であれば、金を稼ぐほか無い。
本当の意味でそのような不安から抜け出したいなら、一般サラリーマンの平均所得で生きていても拭いきれない不安が付きまとう。未来は誰にもわからないし、それはひきこもりだろうが、働いていようが同じである。
、ひきこもりのまま生きるのなら、自分が出来ることにフォーカスして社会の需要を拾っていくしか方法はない。サラリーマンであれば、社会の需要に自分を合わせに行くことが出来る。企業が求める社員になれるし、客喜ばれる社員を演出できる。
ひきこもりにはそれは難しい。自分という存在価値を最大限にするしかない。だからこそ、ひきこもると自分の存在価値との葛藤が始まる。社会を拒絶して、社会から拒絶される状況で、常に自分の存在価値に自問自答してしまう。
たとえゲームをしてようが、漫画を読もうが、一瞬の楽しみを過ぎれば膨大な不安が襲ってくる。その不安を愛して、自分を愛して付き合っていけるようになるまでは、自分の努力が必要になる。自分だけは自分を見捨ててはいけないし、可能性を信じ続けなければいけない。
過去のひきこもりの人達に比べたら、インターネットがある現代は、ひきこもりに優しい社会に違いない。
社会もそう捨てたものではないし、もっと人生を楽しめる余白を本気で探したら、みつけられるかもしれない。
無駄に思えることを一生懸命やっていきます サポートありがとうございます。