はじめてのオンライン面接で自分の夢を見つめ直す
この前、はじめてオンライン面接をやった。
オンライン面接でも一応服装はしっかりしたほうが良いということで、上にシャツだけ着て、下はスウェットのままというオンラインならではの服装で参加した。
そしたら別に向こうもスーツじゃなかったので、そこまで気を使わなくてもいい感じだった。
しばらくコロナで引きこもっていて、外部の人間関係を遮断しているので、家の中にいても、会社に出向いたときのように緊張した。
Zoomを初めて使って、URLから飛ぶだけでミーティングに参加できるなんてすごい世の中になったなぁと思ったりもする。
実際、面接は上手く話せなかったのだが、向こうの面接官も自分の話をかいつまんで何がいいたいのか傾聴してくれる優しい人だった。
自分のやりたいことに近い会社だなぁと思っていたけども、なんとなく面接を終えると、『うぅ~ん』となってしまう。
おそらく面接官の人も『うぅ~ん、どうしようかなコイツ』みたいな感じになっている気がする。
自分にはまだまだ実力は無いが、やりたいことばかり多いので、面倒な性格だなぁと自分でも思ったりする。
ほとんどの人は面接で、会社に入りたいという思いが強いと思う。
ただ、自分はその気持ちに疲れ果てて、この会社だと仕事してストレス溜まんないかなとか、他の働いている人達大丈夫かなとか、余計なことを考えている。
もちろんベースにはこの会社で好きなことができそうだ。という前提の元で申し込んでいる。
自分が好きなことができれば、労働時間が何時間だろうがどうでも良いと思う。
実際に、今の私は低賃金でそれに近い。
ただ、自分に実力がない以上、どうしても満足に結果が出ないこともある。
なんとなく自分のやりたいことが固まっているなら、自分でそれを実現させてみたい反面、なんかモヤモヤしている部分がある。
そのような気持ちに、面接をやると気づくことが多い。
面接に限らず、人と相談すると抽象的だったものがはっきりしやすい。
noteで文章にして書いたりすると、自分の気持ちに自分が向き合えることもある。
自分の中で自分の道はこれだ!と決めきれないものがあるのかもしれない。
なんとなくモヤモヤしているから、一直線に走れずに蛇行している感じはある。
実際、あれやりたい。これやりたい。と子供のように言うのは簡単だが、やることに意味があるし、やらなければ何も生まれない。
やり続けることの大変さを自分は経験できないでいる。
言ってるだけでは、何も始まらないのは自分でもわかっている。
漠然とした不安に囚われているのか、何も動けずに何年も過ごしている自分が急に情けなくなったりする。
採用面接の度に、こういうことをやりたいとか、こういう夢があるみたいに語ってはいるものの、ペテン師のように実績も無ければ実力もない自分に呆れるというか、何のために存在しているのかわからなくなる。
『それがやりたいんだろ?じゃあ、やればいいじゃん。』で済む話なのに、何かウジウジ調べ物をしたりしてしまう。
いい歳して未だに自分がどこに向かおうとしているのかブレていることに苛立つというか、金があればこの問題が解決するのかわからずにもいる。
夢と呼べるのか、ダラダラと夢だけ見ては、夢から覚めてを繰り返している感じではある。
この前テレビで、ダウンタウンのまっちゃんと、SMAPの中居さんとブルーハーツの甲本ヒロトさんが出ていて色々話していた。
甲本ヒロトさんが最近の若いやつは夢を2つ言う。みたいなことを言ってて、「例えば『バンドで有名になりたい』とか『会社を起こして金持ちになりたい』とか、2つも言うな。」と、言っていた。
この考え方は非常にわかりやすいと思う。
要するに、バンドが夢ならバンドだけやってろ。有名になるなら、手段はバンドだけじゃないだろう。ということで、犯罪だろうが、なんだろうが有名になる方法はいくらでもあるじゃないか。と言っていた。
多分、夢とはそういうものだと思う。
そう簡単に2つも3つもあるものじゃない。
甲本ヒロトさんは音楽をやりたいと思って、音楽を始めた瞬間にもう夢は叶っていて、ずっと音楽を続けていると言っていた。
たまたま、食うには困らない状況になったけど、音楽だけで良い。ということらしい。
自分にとっての、甲本さんの音楽は何なんだろう。と考えてみても、あまり見当たらなかった。
この行動をしている時間が続くのが夢と言えるものがなかった。
noteを書くことを続けているけど、自分にとってnoteというのは記録みたいなもので、自分の気持ちや考え方を書き留めておくものである。
それによって頭が整理されて、自分の人生に役に立つ。
何かあったとき「あの時こう考えて失敗したな」とか、教訓を自分や他人と共有できるものが、自分にとってのnoteの位置づけであって、note自体が夢というわけではない。
もちろん書くことは好きだが、一番好きかと言われると、書いている間が幸せで堪らないということもない。
書き終えると爽快感があるが、ジムに行って一通り運動したより低いくらいの感覚である。
なので、何もやらないよりはやった方が爽快感があるんだろうけども、雨の日にジムいくの面倒臭いな。とか今日なんか時間取れないからやめよう。という日も同じようにnoteにある。
熱中という言い方をするのかもしれないが、書くというよりは、何か自分の中にあるものを吐き出しているだけで、友達と会話しているのとあまり変わらないかもしれない。
自分の中で得意で充実感があることを見つけられればいいし、収入など度外視で自分が熱中できることを続けられれば良いと思う。
自分の中でそれを見つけるというのは難しいし、なんなら最初から持っているものでも無いと思う。
自分で磨いていくというか、やはり充実感が出るまでは一定の実力を得る必要がある。
お金を稼ぐというよりは、自分のやりたいことをやって収入を得られるという喜びの方が大きいと思う。
自分がやりたいことや社会で必要とされていることが、お金に変換されて自分が社会に役立てているという充実感に繋がる。
逆に考えれば、お金が全然入らない状況というのは、役に立っている人の数が極端に少なかったり、自分の実力が突出するほど優れていないということだと思う。
自分の収入を上げるために実力を伸ばすというよりは、自分に実力を付けて、社会に貢献したり影響力を増すということが重要になるかもしれない。
やみくもに安定性や収入を求めると、どうしても自分のやりたいことから外れてしまう。
オリジナリティを求めているのに、既存のサービスの手伝いをすることになるのだから、ある意味当然と言える。
もちろん、生活するのに収入は大事だし、最低限のお金は必要だが、自分の夢というかやりたい事の本業をおろそかにしてはいけない。
会社に雇われるということは、自分の時間などをコントロールされることでもあるし、会社の都合でその仕事が出来なくなるかもしれない。
noteに自分はもうすぐ200記事くらいを書くことになるが、noteというウェブサイトが消滅したら、自分の記事も消滅してしまう。
自分でやろうとしたら、自分の体力次第では維持できなくなって消滅するかもしれないが、会社に頼ったらそれはそれで自分の都合と関係なく消滅するかもしれない。
夢を追うのも、追わないのも、結局の所、どちらが安全とか充実感のある人生になるというものでもない気がする。
もちろん、自分のやりたい事にむかうことは大切だろうが、どんな場所であっても自分のやりたいことが出来る環境を見つけていくべきだし、自分でも創造するべきだと思う。
こうした方が良いという決まりもない。
自分がやりたいことができそうなら、実力を付けて伸ばしていくべきだろうし、違うのに組織に所属する理由もない。
そこの明確な線引きは難しいが、難しくて不安なら自分でやるのが早いということかもしれない。
やりたいことと言っても1つではないし、いくら得意でも、業界として、これから伸びなさそうな産業に突入しても難しい。
その微妙なバランスの中で生きるということが、なんか野生動物が本来持っている生存本能みたいなものに近いかもしれない。
とりあえず、あんまりピンと来なかったので、多分通ってないだろうが、安定に走らず、自分のやりたいことを突き詰めたい。
無駄に思えることを一生懸命やっていきます サポートありがとうございます。