革命に勉強は必要か。他、幸福の情熱と平穏とは。

『女王の教室』と『ドラゴン桜』の名言的なものを見て。不満に思ったので書きました。下の名言的なものは見なくてもいいですよ。

いい加減、目覚めなさい。愚か者や怠け者は、差別と不公平に苦しむ。 賢いものや努力をしたものは、色々な特権を得て、豊かな人生を送ることが出来る。 それが、社会というものです。
人もうらやむような幸せな暮らしができる人が何%いるか知ってる?たったの6%よ。この国では100人のうち6人しか幸せになれないの。残りの94%は毎日毎日不満を言いながら暮らしていくしかないんです。
日本という国は、そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が安い給料で働き、高い税金を払うことで成り立っているんです。

そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでるか知ってる?今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。世の中の仕組みや不公平なんかに気づかず、テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら上司の言うことをおとなしく聞いて、戦争が始まったら、真っ先に危険なところへ行って戦ってくればいいの。

『女王の教室』

国はな、お前らには馬鹿なままでいてほしいんだ。それが本音なんだ。
何にも疑問も持たず、何にも知らないまま、調べないで、ただひたすら政府の下で働き続け、金を払い続ける国民であってほしい。それを別の言葉で言い換えると何だ?
国はお前らにはただひたすら黙々と馬車を引く馬車馬であってほしいんだ。
その方が都合がいいからな。世の中は平等だ、国民は自由だ差別なんか一つもねえ。そう刷り込まれてきた。だが実際はそうじゃねえ。どんなに努力しても、どんなに力を振り絞っても、本質を見抜く力がなければ、権力者と同じ土俵にすら立てねえんだよ!
誰かのせい、国のせい、時代のせい。他人をたたき批判して文句を言って何が変わる?ルールを作ってる奴らはな、この状況が美味しいからこういう仕組みにしてんだ!
自分は関係ねえからなんて言ってたら、一生騙されて高い金払わされ続けるぞ!
なぜ社会はこうなってるのか、誰がどんな意図でこの仕組を作ったのか、本質を見抜き、自分だけの答えを出し力をつけろ!
そのときはじめて馬車馬は人間になれる。
そのためには、勉強するしかねぇんだ。
勉強ってのはな、この国で許された唯一の平等なんだ!

『ドラゴン桜』

これを言って、この人たちはなにがしたいのか、を考えたとき、革命を起こす軍隊、忠実な部下または仲間を作りたい、もしくは革命を起こす人間を養成したいのだと考えることができる。この考えだと仮定して、そもそも革命に、勉強は必要か、を考える。
知識のない阿呆なので、もっとも有名だと思われるフランス革命から、

その国王のまわりで権力を組織していた宮廷貴族は国王に次ぐ大領主であり、減免税特権の最大の受益者であった。財政支出の中から宮廷貴族の有力者は、巨額の国家資金を様々な名目で手に入れた。しかし、ある段階で国家財政が破綻し、もはや支払うべき財政資金がなくなった。権力を握っていた宮廷貴族は自分の減免税特権を温存し、ブルジョワジー以下の国民各層に対して負担をかぶせようとした。そこで「権力を取らないことには自分たちの破滅につながる」と感じた商工業者や金融業者が、国民の様々な階層を反乱に駆り立てて、領主の組織する権力を打ち破った。

wikipedia

フランス革命とは、ブルジョワジーによる国王政府への反抗によってなされたものだ。また、ブルジョワジーとは、国王の商業の奨励方針により貴族だと言われるようになった、商業で成功した人たちのことを言う。

フランス革命は、このブルジョワジーが国王政府に対して不満がなければなされなかった、と仮定して。
フランス革命と言えば「フランス人権宣言」などの、平民の望む革命によって得られた結果だが、この結果は、ブルジョワジーにとっては副作用だった。wikiからの引用文でもある通り、ブルジョワジーは平民を煽って自分たちの望む革命の為利用していた。しかし、煽って利用する以上は、表面上ほとんど平等な関係でなければならない。例えば、ブルジョワジーが望んでいなかった、平民の望むこと、をしなければならない。
つまり、私の解釈がなにもかも間違っているかもしれないが、平民=愚民にはブルジョワジーという巨大な力が必要だったが、そのブルジョワジーに、所謂貴族になるための勉強があったかとは思えないため、フランス革命には勉強が必要なかったかもしれない。

いや、そもそも、フランス革命はこうなっているけれど、ほんとうに愚民のみでは革命はなされないのかしら。日本には百姓一揆というような歴史もあったしね。革命までの情熱がないのが問題なのか。
となると、『女王の教室』や『ドラゴン桜』の、この国に対しての不満の言語化と不満への改善の言語化による情熱の駆り立ては、有効かもしれない。それって、結局踊らされているようにしか見えないのだけどね。でも、理想の冒涜者より、やはり情熱ある人間の方が美しいよ。ただね、この情熱への蝋として、私のような社会不適合者を使われるのは不愉快。ヒュウマ二ティと情熱が共存していればいいのだけど。

クール気取った省エネの幸福主義者と、情熱と改革による幸福主義者の対立は無意味だ。それこそ、偶発した権力者共のメリット。

(人間の生きる目的は幸福であること。)
(幸福には情熱と平穏の二種類がある。)
これから、そもそも幸福に革命は必要か、と前提を覆してしまうようなことも考えられる。

この省エネの幸福主義者、名付け微妙かな。望んでいる幸福が平穏だから、改革は望んでいるけど消極的で、この改革の過程による犠牲で、今ある平穏が破壊されたくない。しかし、この平穏の犠牲を厭わない、情熱にも憧憬があるのだよ。情熱がないから省エネにならざるを得ない省エネの幸福主義者、と言えるかね。


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