平穏

優しくて、平和で穏やかで、しかし情熱はない。これが平穏。 せめて人生が平穏であればいい。

平穏

優しくて、平和で穏やかで、しかし情熱はない。これが平穏。 せめて人生が平穏であればいい。

最近の記事

人はなぜ思い悩むのか

人はなぜ怒ったり思い悩んだりするのか短気な人は幼稚な人だと言われることが多いような気がするが、もしかしたらそうではないかもしれない。 まず、人が怒ったり思い悩んだりするのは、人生が短いから、というのが一つ挙げられると思う。 もし寿命が永遠に近いほどあったら、思い悩むだろうか。精神を病んでしまう程、追い詰められるだろうか。 人間には100年くらいしか時間がない。それを人間は、生物として無意識に理解していて、100年では自分の思い描く理想にはたどり着けない、ほとんど進めないか

    • 破滅願望、そして、幸福恐怖症

       幸福恐怖症、とは、幸福が続いて、つぎにはとんでもない不幸が待っているかもしれないという恐怖ではない。 今まであった不幸、絶望感を、私はアイデンティティとしていた。 しかしそれが贋作だったという疑惑が浮かび上がったとき、私の唯一のアイデンティティが崩壊してしまう。だから、破滅を願う。 まず第一に、私は、人より苦労していないという劣等感がある。あらゆることから逃げてきて、その代償、つまり一般に人が支払うべき不幸の代替として、別の不幸、絶望感が私には課せられている、と思って

      • 感覚の世界 知らないことの希少性

        私たち人間は言葉の世界に生きている。しかし、最初から、ではない。 子どもは感覚の世界に生きて、やがて、言葉の世界に踏み入れる。そうして、人間は言葉と感覚の世界、両方に跨り生きていく。 私たちは、無知な人間を馬鹿にするだろう。 『知識や教養は自分の人生の為に必要なんだなって初めて思った日記』とあるように、馬鹿にしている訳ではないと思うが、知識や教養のない人間より、知識や教養のある人間の方が良い、ということは読み取れる。 知識や教養は、たしかに良いものかもしれない。 しかし

        • なぜ死にたいのか。希死念慮。

          えらい奴には分からんのかね。芥川龍之介だとか太宰治とか、成功している自覚はなかったのかしら。 なぜ我々は死にたがるのか。 結論から言えば、不幸が続いたから、だと思う。 不幸がたくさんあって、幸福が少ない、そして不幸が続く。すると、段々不幸がないことが幸福になってくる。 不幸がないこと=無感覚、だから、無感覚=死、という式は殆ど成り立つから、死にたい。 ただこの死にたがり、たしかに自分を許そうという心の防衛反応でもあると思う。私は私の悪を自覚している。だから、ちょっとでも許し

        人はなぜ思い悩むのか

          革命に勉強は必要か。他、幸福の情熱と平穏とは。

          『女王の教室』と『ドラゴン桜』の名言的なものを見て。不満に思ったので書きました。下の名言的なものは見なくてもいいですよ。 これを言って、この人たちはなにがしたいのか、を考えたとき、革命を起こす軍隊、忠実な部下または仲間を作りたい、もしくは革命を起こす人間を養成したいのだと考えることができる。この考えだと仮定して、そもそも革命に、勉強は必要か、を考える。 知識のない阿呆なので、もっとも有名だと思われるフランス革命から、 フランス革命とは、ブルジョワジーによる国王政府への反抗

          革命に勉強は必要か。他、幸福の情熱と平穏とは。

          自分にとってほんとうに大切なもの

          単に理屈だけとってみても、それは真理と言えるだろうし、だのになぜ、「社会が他人に思っていること」と「自分が自分に思っていること」の価値が同じだと言えるのだろう。 人にとってほんとうに大切なものは幸福だ。 人は幸福のために生きている。幸福のためにあらゆる行動をする。 では自分の幸福を一番に思っているのは誰だろう。無論自分だ。社会なんてのは、有象無象の一人である自分のことなんて、一番には考えていない。だって、自分の幸福を一番に願い、そして二番は身内や自分の好きな人間になる。赤の

          自分にとってほんとうに大切なもの

          人間の時間の価値

          なぜ人は思い悩むのか。 それは、人が100年も生きられないからだ。 生物はそれぞれに独自の時間感覚、価値が存在する。明日には死ぬ生物の時間の流れと、100年くらい生きる生物の時間の流れは、それぞれ違う。 ここで、1万年くらい人間が生きられるとしよう。10年なんてちょっと。100年だってちょっと。これだけ時間に余裕があれば、なんだってできそうだ。 そう、100年では自らの幸福を掴めない可能性があるから、思い悩むのだ。 今日ダラダラしちゃったって、思うのは時間がないから。

          人間の時間の価値

          管理職は嫌われ役、という免罪符

          俺は指導する立場だから、嫌われて当然。 当然という免罪符から、嫌われずに仕事をする方法を模索しない。努力の放棄。 例えば、嫌われる理由が管理職だから、以外にあれば? 指導する際に、パワハラか、ギリギリを攻めた言動をして、部下を萎縮させていないか。

          管理職は嫌われ役、という免罪符

          学生の延長線にあるような生活

          毎日ただ働いて、淡々と生きて、なにもない生活。 この生活は、学生時代の劣化版ではないのだろうか。 青春とは尊いものだ。今では手にしがたいあの清澄さ、懐かしさのような、儚いものを感ぜられる。学制服だからこそ、あの風景が似合う。 今にそれはあるのか? 物質的な快楽は、金のある今の方が達せられるだろう。しかし、それは、この先何十年も生きていく中で、どれだけ重要なのだろう。学生であっても、多少の我慢をすれば、達せられなくもない。 そして、あの青春は、今では叶わない。 青春以外の

          学生の延長線にあるような生活

          優しいとは何か

          優しくない奴は説明するのを諦めるから、ネチネチ説教してくる奴は、実は優しいのではないか。という説がある。 ほんとうにそうだろうか。 私が思うに、それは優しいのではなく、情熱があるからではないか。 その物事に対してどれだけの情熱を持っているか、情熱があればめんどうくさくても説教するだろうし、情熱がそこまでないのであればめんどうくさくて説教しないだろう。つまりは自分の都合だ。 ほんとうに優しい人は、相手がまず、どれだけその物事に対して情熱を注ぎたいかを考える。それによって対応

          優しいとは何か

          原因が一つしかないと思っている奴ら、自己責任論者め、自身のせいだと言っているようなもんだぞ。って話

          「この世の不利益は全て当人の能力不足」ならば、あたかもソイツにしか原因がないかのような口ぶりでソイツを責め立てる、キレる奴が、思い通りにならないのは、その奴の能力不足が原因であると言える。 例えば上司が部下に対して「〇〇やって」と言い、部下ができなかった場合、上司にしてみれば思い通りにならなかったわけであるが、それは部下のせいではなく、上司のせいである。 勿論、この論を通すと、キレられて不幸に思うのはソイツのせいである。 となると、結局自己責任論は破綻するわけである。 未

          原因が一つしかないと思っている奴ら、自己責任論者め、自身のせいだと言っているようなもんだぞ。って話

          考えを纏める時間が欲しい。

          久しぶりに三連休があると、精神と身体の療養に時間を使って、ちょっとだけ考え方の異常性が修正され、その際浮かび上がった疑問だとか、異常性に対する考えが思いつくのだが、それを咀嚼して纏めるまでは至らない。 時間がないのだ。 療養に時間を注いで、三日では足りない。 そうなると、気持ちの悪いまま、嫌なまま、次の出勤に臨むことになる。いやまあどうなっても嫌だろうけどさ。 五連休欲しい。

          考えを纏める時間が欲しい。

          ブラック企業で働く奴らが嫌い。人間らしく振舞おうとしない奴ら。

          ブラック企業であることを受け入れ、それを当たり前、むしろ正しくしている人間が嫌い。 彼らは自らが犯した罪の深さを知らない。 彼らは受け入れるがゆえに、人間らしく振舞おうとしない。 飯の食い方からわかるのだ。米椀に全部乗せ。さっさと食って帰る。飯を楽しもうという気がない。ただの栄養補給、もしくは惰性で食っているだけだ。 それがいかに失礼なことか。いかに人間らしくないことか。 彼らとてお礼は言うが、形式でしかない。ただの知識の集合体。生きていない。生きようという気がない。

          ブラック企業で働く奴らが嫌い。人間らしく振舞おうとしない奴ら。

          今と未来の価値

          今よりも未来に価値があると考える人がいる。 今苦労すれば未来に幸せがある、と。 しかし、私は思う。 未来の今と、今の今の価値は同等だ、と。 今の快楽に溺れ、未来を考えない人間を、君たちは蔑むか。 今の不幸を考えず、未来のために努力する人間を、君たちは尊敬するか。 人間の究極的な目標は、幸福だ。 しかし幸福になること、ではない。常に幸福であること、こそが理想であると言える。 今、幸福であることがいい。未来の今、幸福であることがいい。 どちらも無下に扱ってはいけないのだ。

          今と未来の価値

          若い時期のワークライフバランスなんて不要、なんて所詮強者の根性論

          なにをやっても、どうやっても、エリート思想は抜けないのか? 自己責任論者が仮にエリートに多いとして、自己責任論が破綻したことが事実になっても、彼らエリートは強者弱者を知らないのか? ワークライフバランスがいいのか、悪いのか、二元論にするのは良くないと言って、ワーク=ライフの生き方を選択するリスクを取り上げているが、そもそも、この筆者は勘違いしていないだろうか。 ワーク=ライフ、どころかワーク<ライフの生き方をしている人間の、ワークに対する情熱の量。そして、リスクがあるのは

          若い時期のワークライフバランスなんて不要、なんて所詮強者の根性論

          「純粋に幸福な物語」を読むと、失望する。

          ああ、この物語の世界に行きたい。主人公じゃなくていいから、この物語の世界の住人になりたい。 でも、決してなれやしないから、ずっと現実のままだから、物語の世界に入れないと理解するから、失望する。 物語を作る人間に問いたい。宮崎駿さんとか、なんとかさんとか、例えば自分の理想の世界を作って、そこに行けず、作って鑑賞することしかできない、と思わないのかな。そして、嫌な気持ちになることって、ないのかしら。 他人の作った世界にのみ、そう思うのかな。

          「純粋に幸福な物語」を読むと、失望する。