【小説】出口はどこですか? 第1話
目覚ましが鳴る。午後5時。仮眠室のベッドは硬いし狭いし、正直、寝心地が良いとは言えない。
また、あの夢をみた。遠い、遠い、悲しい記憶。夢だけれど、夢じゃない。あなたが届けた悪夢なら、いつまでも彷徨えるのに。
時間に余裕もあるし、のんびり店の準備をしよう。仮眠室の薄い扉を開けると、何の変哲もない細い廊下。軋む階段を降りる前に、隣の大きな扉を振り向き、そっと手を触れる。重厚感のある、黒鉄の、誰も知らない特別な扉。どんな手を使ってでも、必ず連れ戻してみせる。待っていて。
はやく会いたい……あなたに。
「真尋さんも心配だと思うよ。沙樹君モテるから」
「なんでそうなるんだよ」
ユウヤはロンググラスの中身をくるくるとマドラーでかき混ぜると、沙樹の前に置いた。
「はい、ジントニック」
「ありがと」
新鮮なライムが浮いているジントニックをごくりと飲む。きりっとほろ苦く、それでいて爽やか。沙樹はネクタイを緩めて、ワイシャツの腕をまくった。
「スーツ珍しいね。レペゼンの日だったの?」
「プレゼンな。今日は社外の人も来てたから」
「なるほどなるほど。写真撮ってもいい?」
「撮ってどうすんの」
いいからいいから、とユウヤは尻のポケットからスマホを取り出すと、いろんな角度から沙樹を捉えた。もう……、と溜息をつきながら沙樹は顔を逸らす。こういう訳のわからないノリはついていけないけれど、同い年のユウヤは、沙樹のいい話相手だった。
「ユウヤ、お客さん」
「あ、すいません!」
氷をアイスピックで砕くマスターの折原に声をかけられ、ユウヤは「ごめん、行ってくるね」と沙樹に断ってから、慌ててテーブル席の方へ去っていった。折原が沙樹に微笑む。沙樹もなんとなく軽く会釈した。
30歳の若いマスター折原が経営するバー、「星形の月」。カジュアルな雰囲気で、若い客も多い。穏やかで優しく話を聞いてくれる折原と、元気で明るいバイトのユウヤが、常連の心を捉えている。沙樹も仕事帰りにこの店で飲むようになって、半年になる常連だ。初めてこの店に来た時は会社で新人だった沙樹も、今は入社二年目、後輩もできた。彼女もできた。この半年で、抱える悩みの種類がだいぶ変わった気がする。
「真尋さんは元気?」
「元気じゃないすかねぇ……」
折原に声をかけられ、沙樹は言葉を濁した。ついさっき、ユウヤに街中で真尋を見かけた話を聞き、自分はいつから会ってないっけ、と数えたら3週間。それは長い期間なのか短い期間なのか、世間の恋人の感覚は知らないけれど、同じ行きつけのバーもあるのに3週間会えていないのは、まあまあ長い。
「相変わらず忙しいのかな」
「みたいですね」
なんとなく俯いている自分に気づき、グラスに手を伸ばすとジントニックで不満を飲み込んだ。
「うちに来てくれたのも2週間くらい前だったかな。その時もだいぶ疲れてたみたいだったし、1杯だけって言ってね」
「はあ……」
その話はユウヤから聞いた。沙樹はその日、家で動画を観てダラダラ過ごしていたし、連絡をくれていたらすぐに顔を出したのに。
「……折原さん、ミックスナッツください」
「はーい」
折原はナッツの用意をしながら、ユウヤに「BGMの音量調整して」と声をかけていた。店内の客の様子を見ながら、時々調整しているらしい。気づけば、テーブル席の方がだいぶ賑やかになっていた。
すぐにナッツが用意され、丸っこい木製の器が沙樹の前に置かれた。
「はい、ミックスナッツ」
「どうも」
カシューナッツを口に放り込みながら、先程飲み込んだはずの不満を吐き出した。
「忙しいっていっても、女友達には会ってるんですよ」
「そうなの?」
「らしいです」
言ってから、ちょっと女々しかったかなと軽い自己嫌悪になり、溜息をついた。
寂しいなんて少しも思っていなかった。もともと真尋はべったりするタイプではなかったし、年上女性ってこんなもんなのかなと割り切っていたのだけれど、連絡もお互いマメにするタイプではなかったので、気づいたらだいぶ疎遠になっていた。でも忙しいなら仕方ないよな、と星形の月でひとり、夜な夜なジントニックをあおっていたのだが、先程のユウヤの話によると真尋は休日、女友達と買い物をしていたらしい。もやもやもやもや。ユウヤは、沙樹が連絡をしないせいで真尋が寂しい思いをしていると誤解しているようだが、連絡をしないのはむしろ真尋の方で――いや、自分もか。でもそれは、真尋が忙しいと知っているから遠慮しているのであって、空いた時間があるなら連絡してくれてもいいのに。寂しいわけではないけれど。
「君たちはなんていうか、器用そうに見えて不器用だよね」
「そうなんですかね……。向こうは結構器用な方だと思うけど」
「そう?」
「うん。なんか大人の余裕みたいなのをちらちら見せてきて――」
「ははは」
折原が笑い出すから、沙樹はなんだか恥ずかしくなった。子供っぽかったか?
「君は余裕ないんだ?」
「え、いや……」
この人、悪い人じゃないんだけど、なんか苦手だ。嫌いじゃないし、むしろ人柄は好きだけれど、見透かされるというか……ユウヤを相手にしてる時みたいには誤魔化しがきかない。なんでこんなことを話してしまったのだろう。
「なになに? なんの話?」
店に入ってくるなり、大きな声で割り込んできたのは、常連のカヨ。ユウヤの地元の先輩らしいが、騒がしくて沙樹は苦手だ。もう1軒目でだいぶ飲んできたらしく、態度が図々しい。
「沙樹くん、こんばんはー」
「こんばんは」
そろそろ帰ろうかなと沙樹は思った。もしかしたら真尋が顔を出すかもとか思いつつ、最近は頻繁にこの店に通っていた。でもよく考えたら俺たちつき合ってるんだよな。店で待つことなんてなかったのに。とりあえずLINEを送ってみるか。沙樹はスマホを取り出したが、なんて送ればいいかわからず、手が止まった。
沙樹が隣の席にジャケットやカバンを置いているので隣には座れず、カヨは一つ空けて座った。沙樹のお気に入りはカウンターの端の席で、右側は壁、左側に荷物を置けば、隣に座られることはない。混んでいない時はこうして席を取るし、混んできたら席を立つ。それに、このコーナーにはユウヤがいることが多く、気楽に話せるのだ。
「なに? LINE?」
「はあ……」
カヨが覗き込もうとしたので、スマホを壁側に置いた。
「そういえば折原さん~、あたしね、面白い話聞いたの!」
「なにかな」
カヨの興味はもう次に移っていた。沙樹はそろそろとスマホに右手を伸ばしながら、いや、でもなんて送ろうか、と考えてカウンターの上に右手は留まった。左肘をついて、スマホを睨む。真尋がこんなもだもだした時間を過ごしているようには想像できない。やはり余裕がないのは自分だけなのか。いや、余裕ないつもりはないのだが。ナッツを口に放り込みながら、蟠りを噛み砕く。
「この店にね、異世界の扉があるってぇー」
カヨの大きな声が思考を邪魔する。異世界? 酔い過ぎだろ。
「うちに? 誰がそんなことを?」
「えっと……誰だったかなぁ。この店知ってるって人がいてぇー。折原っちのことも知ってたよ?」
「へぇ。誰だろう」
折原は斜め上を見上げて考えていたが、これだけでは考えてもわからないだろう。
「ほんと? あるの? 異世界の扉」
カヨが身を乗り出す。意外にも少しの間があったため、思わず沙樹も折原を見上げてしまった。
「あはは。異世界の扉かぁ。アニメの見過ぎだよ、さすがに」
「ええ~……。まあ、そっかぁ~、あははは」
はぁ。大人のやり取りとは思えない。こんな風に酔いたくはないな。そもそも「異世界」というワードが嫌いだ。概念があまりにも短絡的というか。
沙樹は残っていたジントニックを飲み干した。
「折原さん、会計お願いします」
「えっ、沙樹君もう帰るの? 俺もっと話したいことあったのに!」
沙樹の声を聞きつけて、カウンターの反対側でユウヤが残念そうな声をあげた。
「次来た時、相手して」
沙樹は言いながらカバンを探って、財布を取り出す。
「ありがとう、お会計、これね」
折原が伝票を沙樹の前に置いた。
「ごちそうさま」
沙樹はぴったりの金額を木製のトレーに乗せて、席を立ちながらジャケットを羽織った。忘れずにスマホを手に取り、反対の手でカバンを掴む。
「ありがとう。また来てね」
「沙樹君またねー」
「ええぇ~、帰っちゃうのぉ?」
軽く手を振って、沙樹は店を後にした。
星形の月を出ると、店の看板の前でスマホを睨む。LINEの画面を開くと、3日前に送った「おやすみ」が最後のメッセージになっていた。こんなつき合い方をしたのは初めてで、正直沙樹は戸惑っていた。これって普通なのだろうか。今までの彼女はちょっとうざいくらい近寄ってくる子ばっかりで、沙樹から動かなくても連絡が途絶えることはなかったのに。
初めて自分から強く魅かれた女性。真尋のことがよくわからない。寂しくはないのだろう。自分だって、寂しいわけじゃない。ただ、どうしてるのかなって自分は気になるけど、真尋は気にならないんだろうな。気になるなら連絡してくるはずだし、用がなくたって自分たちは恋人同士なのだから、なんでも送ってくればいい。沙樹が返信しなかったことだって一度もない。なんでも送ってくればいいのに。
沙樹はスマホの画面を閉じると、ポケットにしまい、歩き出した。星形の月に来る前に夕飯を軽く食べたけれど、なんか小腹が空いた。コンビニに寄ってサンドウィッチでも買って帰るか。あとスイーツも欲しい。なんだっけ、真尋が前に美味しいって言ってたやつ。まだあるかな。
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