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【小説】出口はどこですか? 第10話

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 月曜。仕事を終え、沙樹さきはエレベーターを降りると、吹き抜けになった広いロビーに出た。午後7時半。今日はもう少し早く上がることもできたが、チームリーダーから提出した資料のチェックがなかなか返ってこなくて、結局いつもとそれほど変わらない時間になった。それでも、忙しい時期は終電ぎりぎりになったりもするので、この時間に上がれるのはありがたい。飲料メーカーの商品企画という仕事は、他社だったらもっと忙しいのかもしれない。沙樹は流行やニーズのリサーチ能力を買われてこの部署にいるが、実際に自分が好むのはシンプルでスタンダードな飲み物で、牛乳や水、それとジントニックだけで十分なのだ。それでも仕事は仕事。今日もサンプルの炭酸飲料を4本、紙袋に入れて持ち帰る。
 ジャケットを手に持ったまま、ビルの外に出た。こんな時間でも、もうポロシャツ一枚で過ごせる。暑い夏が苦手な沙樹は、今から既に冬が恋しくなっていた。


 ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ……。
 駅に向かって歩きながら、尻のポケットからスマホを取り出すと、ユウヤからの着信だった。
「どうした? 仕事中じゃないの?」
「うん、今買い出し中。レモンが切れてて……。沙樹君、今日来る?」
「いや、今日は行くつもりないけど。なんで?」
「んー。なんとなく」
 こんな電話、ユウヤから来たのは初めてだった。なにか用があるわけではないのか? 別に予定があるわけではないから、店に行っても構わないが、折原おりはらの顔はあまり見たくない。
「なんかさ、昨日ちょっと変だったじゃん? 沙樹君」
「え、そう?」
 ユウヤは鈍感そうに見えて、実はよく人を観察している。その上で、ズレている部分もだいぶあるが、たまに鋭い。
「まあ、気のせいならいいんだけど」
「気のせいじゃないかな」
「そっか」
 あ、これもお願いします、と電話の向こうで誰かと話している声が聞こえる。そんなことのために、忙しい中電話をかけてきたのだろうか。どうやら、心配させてしまったらしい。思い返してみると、たしかに昨夜の自分は様子がおかしかった。
「じゃさ、沙樹君。水曜の夜、空いてる?」
 ごそごそと袋やなにかが擦れる音を立てながら、ユウヤの大きな声が響く。「彼、外だとあんなに声がでかいんだね」と真尋まひろが笑っていたのを思い出して、沙樹は少し笑った。
「うん、空いてる」
「ドライブ! ドライブいこ!」
 ユウヤの声が更に大きく響いた。
「わかった。安全運転で頼む」
「まかせて!」

 ドライブかぁ。いい気分転換になりそうだ。沙樹は混んだ電車に揺られながら、窓に映る自分の姿をぼーっと見つめた。先週までと、何も変わらない日常のように見えるのに。他人の目には映らない非日常が、沙樹の中に存在する。今日一日、忘れようとしていたはずが、ユウヤの声を聞いてすっかり甦ってしまった。
 昨夜は折原が「神」などと言い出すから、沙樹の中でこの一連の話を「なかったこと」にした。さすがについていけない。沙樹はそもそも、この手の話が苦手なのだ。こういう、非現実的な作り話。作り話……ということに、しておきたい。こんなものをひとりで抱えるには重すぎる秘密だった。しかし、よく考えると、折原に口止めをされているわけではないのだ。沙樹でなかったら、他の人に話しているのかもしれない。沙樹でなかったら。
 でも、沙樹はこんな馬鹿げた話を、他人に話したりなどしないのだ。できるわけがない。そんなことも、もしかしたら折原は計算済みなのかもしれない。結局沙樹は、何度も頭の中で否定しながら、折原の話にひとり、囚われてしまっている。折原が出口の話をした時に、なぜ自分なのか理解できなかったが、今ならわかる気がする。思う壺だ。悔しいなぁ。

 約束の水曜、夜。沙樹は仕事を早めに切り上げ、ユウヤに会う前に一度帰宅して、着替えることにした。スーツを着ているわけでもないし、そのままでも問題はないのかもしれないが、仕事と同じ服でドライブは気分が上がらない。身も心も軽くして、夜の遊びに繰り出したい。できればシャワーも浴びてから出かけたいところだが、さすがに時間が足りなかった。開いたままのクローゼットを覗き、くすんだブルーのビッグシルエットTシャツを頭から被ると、黒のパンツを合わせた。革紐のネックレスとブレスレットもついでにつけて、完全にオフの姿になった。鏡の前で、髪をセットしていると、ユウヤから電話がかかってきた。
「沙樹君、もうすぐ着くよ!」
「わかった、出るわ」
 家を出る前に、玄関の鏡に映る自分の姿を見て、「ただのドライブに気合い入り過ぎだろ」と苦笑した。しかし、全力で気分転換をしたかったのだ。ドライブなんて学生の時以来である。免許取りたての友達が親の車で遊んでいたあの頃。ただつるんでいるだけでそれなりに楽しかったあの頃。ユウヤはどこへ行くつもりなのだろう。どこだっていい。たぶん、走っているだけでそれなりに楽しい。

「沙樹君、こっちこっち!」
 沙樹の家の側の通りに寄せてある車の脇に立って、手を振るユウヤ。
「え、なんか意外」
「なにが?」
 どうぞ、と助手席のドアをわざわざ開けて沙樹を招く。どうも、と乗り込む。こういうこと、男女問わず平気でできちゃう奴なんだな。自分だったらどうだろう。まあ、そのくらいは自分もやるか。なんて考えながら、シートベルトを締めた。
「なにが意外?」
 運転席に乗り込みながら、ユウヤが尋ねる。
「いや、なんかさ。もっとこう、車高低かったり、改造してたりする車なのかと」
 ユウヤが先輩から譲ってもらった車と聞いていたから、もっとやんちゃな車なのかと思っていたが、実際来てみたら、なんともかわいらしい、ライムグリーンのトールワゴンだった。
「ああ、そっか。たしかに俺の地元の先輩ってそういうイメージよな」
 ユウヤは笑いながら、シートベルトを締めた。
「これ、ルーミーっていうの。かわいいでしょ」
「うん、ちょっと安心したよ」
 ユウヤはエンジンをかけると、ミラーを確認しながら、発進した。スマートで優しい運転だった。
「どこいくの?」
「いや、とりあえず適当に走ろうかなって。行きたいとこある?」
「特にない」
「はは、だよね。ちょっとおすすめのとこあるんだけど、行ってみようか」
「ん、どこでも行って」
 ユウヤの運転は心地よい。窓も半分くらい開けて、ユウヤの好きなヒップホップをかけながら、夜の街を駆ける。道も比較的空いていて、顔に優しく当たる風も、隣で暢気にBGMを口ずさみながら運転するユウヤも、なにもかもが心地よかった。
「恋バナでもする?」
 赤信号で減速しながら、唐突にユウヤが振ってくる。
「は? なんで」
「なんかドライブって、そんな感じじゃないの? 知らんけど」
「いいよ、恋バナは。それとも、お前なんかあるの? 聞いたことないけど」
「んー……。ないな!」
 ユウヤは笑いながら、「あ、そうだ、これ」とシートの脇からコンビニの袋に入ったペットボトルのお茶を取り出すと、沙樹に渡した。ほんと、気が利く奴。恋バナがないのが不思議である。
「俺、沙樹君と違って、モテないから」
「んなことないだろ」
 実際、星形の月にだって、ユウヤ目当てで来ている女性客はいるはずだ。
「まあ、あんまそういう気分になれないっていうのもあるけど」
 なにか事情がありそうな言い方だけれど、聞いていいものなのか。いや、いいんだろうな。自分から言い出したんだし。でも、沙樹は聞かなかった。聞いてほしければ、続けるだろう。
「俺さ」
 少し間があってから、ユウヤは続けた。「うん」と沙樹は静かに答えて、聞く態勢を整えた。こうしてユウヤが話し出すのは、珍しい気がする。
「弟、いるんだけど」
 弟の話は初めてだ。家庭環境があまりよくないようなことは聞いたことがあったけれど、具体的には聞いたことがない。
「ずっと、植物状態なんだよね」
「そうだったのか……」
 恋バナの流れから、急に重い話になってしまったが、ユウヤの声のトーンは暗くはなかった。
「原因不明なんだけど、なんかずっと起きなくて」
「うん」
「うち、母親はいないし、父親は全然弟のとこ、いかないし。かわいそうで」
「うん」
「子供の頃からね、いっつも悪夢にうなされててさ。怖い夢見たって、夜中にいっつも泣いてて」
「うん」
「だから今も、ずっと怖い夢見てるんじゃないかって」
 ユウヤの言葉を聞きながら、沙樹は前の車のテールランプを見つめていた。
「弟は優しくて、繊細で、傷つきやすくて。俺はずっとそばにいてやりたくてさ」
「うん」
「きっと、そのうち、目、覚ますから」
「そうだな」
「うん」
 ハンドルを握って、前を見たまま、ユウヤは「へへ」と笑った。
「弟のこと、店では誰にも話したことなくって」
「そうなのか」
「あ、折原さんには話したけど」
「ああ……」
 あの人は、知っているのか。沙樹は複雑な気持ちになった。大丈夫なのか? あの人にはあまり、弱みを見せない方がいい気がするが。まあ、でもユウヤと折原の関係は沙樹にはわからないし、信頼関係があるのかもしれない。
「まあ、そういうわけで。女の子といちゃいちゃすることは今はあんまり考えられない感じかな。弟のせいにするのもアレだけど。俺、つき合ったらその子のことばっかになっちゃうから」
「んー……。けど、弟もそんなの望んでないんじゃね? 優しいんだろ? 自分のために兄貴が恋愛もできないなんてさぁ……まあ、ユウヤの気持ちもわかるけど」
「うん、そだね。たしかに」
 交差点を大きく右折しながら、ユウヤは「たしかに」ともう一度、呟いた。
「沙樹君は真尋まひろさんと、なんていうか……大人の恋愛してるって感じよね」
「んー……」
 なかなか痛い言葉。ユウヤの目にはそう映っているのだろう。実際は、自分の子供っぽさ、余裕のなさに、自信をなくしている沙樹にとって、「大人の恋愛」には全然到達できる気がしない。でも、だからといって、沙樹は真尋のスタイルが「大人の恋愛」のスタイルなのだと認めたくはない。淡白すぎるだろ!
 ユウヤは直進しながら、ちらっと沙樹の顔を覗いた。すぐに視線を前に戻して、「うーん」となにか考えている。
「まあ、けどさ。幸せになるのって、なかなか簡単じゃないよね。ひとりでは得られない幸せも、あるしさ。そういうとこなのかな」
「そういうとこって?」
「んー……なんか。沙樹君いつも寂しそうだから」
「え? 別に寂しくないけど」
「そう? なら、まあ、よかった。恋人がいるから幸せそうって、なんか俺、思い込んでたとこあったかもって思ってさ。今、こないだの沙樹君とか思い出したら、寂しそうだった気がして。気のせいか」
「気のせい、気のせい。勝手に寂しい子にすんな」
「はは、ごめん」

 それから程なく、ライムグリーンのトールワゴンは、丘の上に停車した。
「着いたよ、沙樹君」
「え? ここ?」
 ユウヤがおすすめの場所というから、てっきり定番の海とか夜景とか、そんな感じのものを想像していたのに、人気のない丘の上。ユウヤはエンジンを切ると、シートベルトを外し、ドアを開けて外に出る。沙樹も続いた。
 ゴォォォォと低い音が辺りに響く。機械のような、風のような、耳にしたことのない音。見上げると、大きな風車がゆっくりと回っていた。
 ユウヤは風車が二基並ぶ、ちょっとした公園のような広場に入っていった。他に人は、誰もいない。夜に風車を眺めに来る人も、そう多くはないのだろう。
「風力発電の風車。なんかさ、ここに来るとパワーがもらえる感じ、するんだよね」
 沙樹もユウヤに続いて風車の下に立ってみた。ゆっくりと風を練る様子は、人工的なのに、妙に神秘的な、不思議なパワーをたしかに感じる。
「なんか、わかる」
「でしょ?」
 ユウヤは嬉しそうに、沙樹を振り向いた。そして、遠くを指さす。
「あそこの病院にいるの、弟。病室から風車が見えてさ、あれなんだろって気になってて。車、手に入れてすぐにひとりでここ来たの。そしたらなんかすげーパワースポット的なものを感じてさ。よくない?」
「うん、いい」
 ゴォォォォ……。静かなような、騒がしいような、唸り声のような、優しい息吹のような、そんな風車の下でふたり。みなぎる風を感じていた。
 自分の手では届かないもの。自分の力では変えられないもの。今の自分には守れないもの。それでも、どうにかして守りたいもの。もう、神でもなんでもいいよ。力をください。
「弟、はやく目覚めるといいな」
「うん」




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