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「破局視患者」のパラドックス



破局視とは


こんにちは。
花田隼人(@hokkaido_wakate)です。


「破局視」

をご存じでしょうか?


我々が経験する
症例や患者のなかには、

治療を継続していけば
十分に改善が見込めるにもかかわらず、

「この痛みとは
 一生付き合っていかなければならない」

「もうたぶん良くなることはない」

などと必要以上に
悪い経過を考えてしまう方がいます。


このような考え方、
症状や物事への見方を、
「破局視」と呼びます。


破局視とは、
平たく言えば
「良くない思い込み」のことです。

他にもっと
良い可能性があるにもかかわらず、

「最悪な結末になる」と飛躍して考え

諦めや無力感から、
悲観的になる考え方を指します。


ここでいう「破局」とは、

良い状態の継続が不可能になり、
事態が滅するという形で終焉を迎える
ということです。

恋人どうしが別れることを
指すわけではありません。


また「視」とは、

考えや扱い、
物事の「見方」を指します。

「度外」「問題
「楽観」などの
「視」と同義です。


我々が活動している
「整体」や「トレーニング指導」、
「治療」といった現場でも、

自分の症状について
「破局視」をもって捉えている、
少々病んだ”クライエントに
出会ったことがあるはずです。

ときには破局視によって
治療意欲が引き出されなかったり、
想定される効果が現れなかったり、

進行上あまり好ましくない
影響が発生することもあります。

今回はこの「破局視」が
いかに特殊な状態であるか?を、

「終末論法」

という思考方法を通じて、
紐解いてみたいと思います。






終末論法(クジの総数を当てろ)

想像してみてください。


あなたはお祭りでクジ引きをします。

クジには番号が書いてありますが、

クジ番号が
最大で何番まで入っているのか
あなたは知りません。

そんな状況であなたは、

「44」

という番号を引き当てました。


さて、
このクジは最大何番まで
入っていると思いますか?

例えば
最大「10,000番」ではどうでしょう。

10,000番のうちの
「44」を引いたと思えますでしょうか?

10,000番のうちの「44」とは
全番号のうち先頭「0.4%」です。

そんな先頭の数字を
偶然引き当てるとは考えにくいもので、
ランダムにクジを引いたのであれば
数桁の番号を引いてしかるべきです。

では逆に
クジ番号の最大が
「44」ではどうでしょうか?

1番から44番までのうち
末尾番の44を引いたということです。

中間の特徴が無い番号群ではなく、
末尾の1や44を引く確率は「2%」です。

そう考えていくと、
最大「100」番まであるクジから
「44」という番号を引いた
とすれば
どうでしょうか。

先の2つに比べれば
引き当てた確率を
きわめて妥当に感じる
はずです。

このように、

「自分の置かれた状況が
 特別なものではない平均的なもの」

という前提で物事を見ると、
ごく自然な見通しを立てることができます。

こうした自然科学に対する考え方を
「コペルニクスの原理」と呼びます。






コペルニクスの原理

コペルニクスの原理とは
自然現象を科学する際に、

いま観測している物事が
特別で、例外的で、
重要な事象だと考えるよりも、

一般的で、平均的で、
典型的なものだという
前提で考えた方が、

自然で確実な結論に至れるだろう

…というテイストで物事を考えることです。

このコペルニクスの原理は、
「人類史の終末がいつ訪れるのか?」
予測する思考実験をする際にも、
重要な考え方として用いられます。

人類の滅亡が
「遠い未来の話」だと考えれば、
我々は人類史の先頭にいる、
とても希少な存在だということになり、

「近い未来の話」だと考えれば、
我々は人類史の最終盤にいる、
数少ない存在だとということになります。

我々がそのような
ごくわずかなものに当てはまる、
「特別な観測者」
という前提で考えてしまうと、
導き出す答えに不自然さが生まれます。

「コペルニクスの原理」に立てば、
終末が遠い不自然な予想と、
終末が近い不自然な予想が相反する中で、

どちらにも属さない
「妥当で自然な予測」を
導き出しやすくなります。

このようにして
適解を紐解こうとする論じ方を
「終末論法」といいます。






痛みの終末論法

さて、
同じように考えてみましょう。

ここに、
痛みが1ヶ月続いている
腰痛があるとします。

この痛みは
あとどのくらいで
良くなると思えますでしょうか?

もちろん“症状による”ので、
ここでは正確性を度外視して、

あくまで患者がイメージする
今後の経過予測について話していきます。


痛みが1ヶ月続いている中で
その痛みが「一生続く」と予想すると、

仮に50年痛みが持続したとして
その最初「0.16%」の段階に
現在はいることになります。

今日がたまたま
その0.16%である可能性は
単純な確率論に基けばあまりに限定的です。

逆に1ヶ月続いた痛みが、
明日パッと消え去るとしましょう。

この場合、
全経過31日間のうち
今日は最後の1日になります。

確率にして31日のうちの1日ですから
「わずか3%」です。

5日〜25日ほどの
ありふれた中間期ではなく、
ラスト1日という
特別な日を引き当てるのは不自然です。

あくまで
「自然な予測」を立てるのであれば、

現時点がありふれた中間期となる
経過予測のほうが現実的に感じやすく、

1ヶ月続いた痛みであれば
「あと数週間から1,2ヶ月要する」と考えると、

現実に起こりそうで不自然さが少ない、
「自然な予測」に感じる
ことができます。

ところが、
痛みを抱える患者は時々、

このような
「一般的な感覚」から逸脱します。

痛みに対して無力感を感じ、
痛みの脅威を過大評価して、

「もうこの痛みは一生治らない」
という偏った認知をします。


もし仮に、
残り人生の長期にわたって
痛みが無くならないのであれば、

長い経過のうち現時点が、
先頭のわずかな時期にあたるため
確率論的には不自然になりますし、

すぐに良くなるのであれば、
終盤のわずかな時期にあたるため
こちらも確率論では不自然です。

一般的な感覚で
経過の予測を図るのであれば、
現在が中間期だと捉える方が
受け入れやすいはず
ですが、

破局視で症状を実感する患者は、
「現在の辛さがありふれた中間期」
であるとすれば、

何かしら
かえって不都合が生じてしまいます。






破局視がない「不都合」さ

極端ではない。
非現実的ではない。
不自然ではない。

そんな「適切な予測」の中で
症状を抱えることができるのなら、
治療を継続していくうえで
理想的な心構えと考えられます。

この心構えを持つためには、
患者が自ら「特別感」を手放すこと
どうしても求められます。

「自分の辛さはありふれたものだ」と捉え、
そこにポジティブな感情を
持てるかどうかが鍵になります。


しかし、
現在辛さを抱える患者にとって、
これはものすごく難しいことです。

「この痛みは一生治らない」という、
わずかな確率のほうに
自身を当てはめてしまうのは、

それほどに本人の中では
ショックの大きな出来事である
ということを暗に示しています。

例えば治療院で
「私みたいな症状の人は来る?」
と尋ねられることがあります。


この場合、

「そうですね、
 最近は特に多いですね。」

「あなたのような症状の方は、
 たくさんいらっしゃいますよ。」

と伝えることで、

「自分と同じことで
 悩んでいる方が他にもいる」

「症状が同じ仲間がいる」

という前向きな受け取り方が
できる人もいれば、

同じように答えることで、

「特別に重症で、珍しく難しい、
 稀有な症状を患ってしまった自分」

が崩されてしまい、

「苦痛を理解してもらえない」と感じて
かえって不満や不安を抱く人もいます。

人によっては
痛みがあることによって
「悲劇のヒロイン」を演じますし、

「骨には異常がない」
「筋肉痛」
「ストレス」
「加齢」

などといった、
ありふれた説明に納得がいかず、

「聞きなじみのない病名」をつけられることで
納得できるようになることもあります。

自覚している辛さに対して
それに見合う状態の悪さを、
ラベリング」されたい。

そんな感情ではないかと
花田は思うことがあります。

いま感じている「苦痛」や「不安」が、
確かに存在するものだと認められて、
「合理的に置いておける場所」が欲しい。

患者はそんな欲求をベースにして、
破局視をもつことがあります。






破局視患者のパラドックス

今後も
その症状が永続すると考えれば、

現在感じている苦痛が
「相応の困り具合で確かに存在する」
ということ確信しやすくなりますし、

そこに病名がつけられれば
その存在は社会制度的に
認められたことになります。

感じてきた
「病(やまいillness)」が、

医学を通じて
「疾病(desease)」に、

社会制度を通じて
「病気(sickness)」に昇格されます。


これを、

「ありふれたもの」
「平均的なもの」
「一般的なもの」
「重大な病気ではないもの」
「気のせい」

というラベルが貼られてしまうと、

自分が感じている
この辛さは一体どう説明をつけるのか。

この不安は
一体どこに置いておけばいいのか。

という不安に駆られ、
「ドクターショッピング」の
一因にさえなってしまいます。

その、

「置き場所」と
「理にかなった説明」を、

患者の中で用意できるのが、
「破局視」という認知のゆがみです。


立てた予測が
不自然なものでありながら、
そうでもしなければ
現在感じている苦痛を説明できない

相反する事柄のなかで生まれる
パラドックスを、

破局視患者のパラドックス

と、

ここに名付けて
残しておきたいと思います。


破局的な経過予測をやめて
自然な経過予測をしてしまうと、
現在抱えている苦痛が
ありふれたものになってしまいます。

逆に、

現在抱えている苦痛が
特殊で重度なものだと考えると、
経過予測は非現実的で
不自然なものになってしまいます。

破局的な経過予測は
不自然で蓋然性が無いにもかかわらず、

経過予測が破局的でなければ
抱えている辛さの説明がつかない。

破局視をもつ患者には
そんなどちらにも寄りがたい
パラドックスが発生しています。

言葉にはされませんが、
ものすごく居心地が悪いはずです。






「打撲」に不安を感じる患者

上記の投稿は、
いつか昔にXで投稿した文章です。

今回はこの投稿の
深堀りリライトでもありました。

皆さんも治療家として、
「軽傷」という判断をしたときに
その判断をクライエントに信じてもらえず、

他の医療機関での
セカンドオピニオンに
クライエントが流れてしまった
経験が一度や二度あるはずです。

柔道整復師では特に
「打撲」という判断をしたときに、
骨折を疑う患者自身が不安に感じて
受診先を整形外科へ自ら移すことがあります。


打撲という言葉は
一般人のなかでは
「軽傷」のイメージが強い言葉であり、

我々が思っているような重症度では
患者に伝わっていないことがあります。

花田はなるべく、

「打撲というと
 軽症みたいに聞こえますが、
 ケガはケガなので…」

と語っていくことで、
相手の認識と自分の認識に
差が残らないように注意を払っています。

同じ内容を伝えたとしても
相手の受け取り方が変わると思います。

相手がどう受け止めるかを感じながら
我々は伝え方を変えていくべきです。






さいごに

いかがでしたか?

途中にも書きましたが、

あくまでこれは患者自身が
経過予測をするうえでの
「イメージ」の立て方であって、

ひどく長期化することが
あらかじめ分かりきっている
疾患や症状は多々あります。


今回の記事の内容を踏まえて、

「患者はそんな
 居心地の悪いパラドックスにいる」

ということを理解したうえで、

我々の専門的い知識を踏まえた
情報提供を心掛けるとよいと思います。


繊細な心には、
繊細な言葉の伝え方を――。


以上、

「破局視患者のパラドックス」でした。

最後まで
どうもありがとうございました。


  

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