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眠れない私を責めていたものと、眠れなかった本当の理由

気になることがあると眠れなくて、気づくと昼夜逆転してしまう。

そんな自分を変えたくて、色々と頑張ってきた。
睡眠障害の治療を受けて、薬を何種類も飲んだこともあった。

紆余曲折あって薬での治療はやめてしまったけど、それでも自力でなんとか規則正しい生活習慣を身につけようと、眠れない原因を調べたり、色々試してみるものの、上手く行かず、あるいは上手くいっても、長くは続かなかった。

あげく「昼夜逆転が治らないのは、私がろくでなしだから」と自分を責め続けてしまっていた。

しかしそれは、ただの思い込みだ。そのことに、ずっと気づけなかった。

でも、あるときそれに気付けたら、今度は眠れなくなる理由と、自分の中にある本当の気持ちを見つけることができたのだ。

好きで眠れなくなっているわけじゃなかった

私はかつて、今よりもずっと自分がろくでなしだと思っていた。
他人の尺度ばかり気にしていたから、自分というものがなく、自分の行動にも言動にも責任が持てなかったからだ。

けれど、仕事をやめたことがきっかけで自分の意思で生きようとするようになってから、人生で初めて、自分でやったことを反省して次に活かすことができた。こんな私でも、自分の意思でやったことには責任を持つことができたのだ。

この経験のおかげで、自分はいくぶんかマシなろくでなしだと思えるようになった。

でも、眠れないことに関しては、どんなにネットを読み漁り、夜更かしや寝不足のリスクを頭に叩き込んでも、生活習慣を改善する方法を試しても、根本的な改善はできなかった。

そして、昼夜逆転するたびに「自分がダメだ。なぜメリットもないのにこんなにもバカげた生活をしてしまうんだろう」と自分を責めて、自問自答して。

とにかく苦しいだけで、答えが出なかった。

特に毎年夏は調子が悪くて、今年もろくに眠れない日々が続いていた。そんなこんなで精神状態もまともでなく、爆発ギリギリだった。

昨日、白む空を見ながら、いつものように「また眠れなかった。私は本当にクズだな」と自分を責めていた。しかしそのとき、心の中にかすかに、理不尽なものに対する怒りを感じたのだ。

言葉にするなら「私のせいじゃないのに」という感じだった。

そのときふと、以前、反省して次に活かすことができたときは「私のせいだな」という静かな納得感があったことを思い出したのだ。

そもそも自分の意思で行動をした結果なのだから、そこに怒りが沸くことはない。対して「眠れないこと」に対してはそれがなく、代わりに怒りがあった。

私はろくでなしでも、少なくとも自分の意思でやったことでの失敗を認めて反省はできた。それなら、逆に言えば、眠れなくなっているのは自分の意思じゃないんじゃないか。

そう思った瞬間。

私は本当は、好きで昼夜逆転してるわけじゃないし、心の底ではそれを悪いとは思っていない。ということに気付いてしまったのだ。つまり私は「眠れないのは私がクズだからだ」と言いながら、反省はしていなかったのだ。

というか、そもそも自分の意思じゃないから、反省のしようがない。

それに気付けたとき、絡まっていた糸がほどけるように、なぜ眠れなくなっているかが見えてきた。

糸がほどけた先に見えたもの

私が眠れなくなったり昼夜逆転をしているのは、中学生の頃からずっと抱えている問題だ。

もともと眠れなくて昼夜逆転してしまうのは、これが親に愛情を求めるための行為で、反抗の発露だということは、カウンセラーに言われていたことだった。しかし、私の中では眠れないことと愛情を求めることが、イコールでつながっていなかった。

でも、今ならその意味が理解できる。

うちは親が不器用で、愛情をうまく与えられなかった。だから、私は親の愛情をちゃんと感じられず育ってしまった。自分が愛されていないと思い込んでいたのだ。

愛情が欲しくても、愛されたことがないから、何をすればいいかもわからない。だから、歪な形でしか、表に出せない。

その結果としての夜更かし、昼夜逆転。

しかし、そんなことをしても、うちの親は「この子は寂しいのかな」と気付ける親でなかったので、結局終始頭ごなしに怒られただけだった。

その時に「わかってもらえなかった」「寂しい」という気持ちを消化できずに抑え込んでしまい、それを今でも引きずっているので、それが眠れなくなる、という形で表れてしまっていたのだ。

つまり、自分ではどうにもコントロールできない感情の暴走だった。

眠れないのは誰のせいでもない。私のせいでも親のせいでもない。
ただ寂しいからだった。

そして、寂しいことが理解されず、頭ごなしに否定された私は、その怒りを親ではなく自分に向けてしまった。

そしていつしか愛されたいという思いは、親に認められる人間にならなければ見捨てられるという呪縛に変わり、その結果が「規則正しい生活ができない私はクズだ」という思い込みだったのだ。

つまり、私を責めていたものの正体は私自身ではなく、親の言葉であり、親に愛されたかった私の渇望と思い込みだった。

それに気づけたとき、私を責める私がスッと消えて、少しだけ胸を締め付ける痛みが治まった。

本当に欲しかったもの

規則正しい生活のメリットを教わっても、おしゃれなブログで見た美味しそうな朝ごはんを真似て作っても、夜更かしも昼夜逆転もやめられなかった。

今思えば当然だ。
だって私が欲しかったのは、規則正しい生活ができたり、さわやかな朝を迎えられることじゃなかったのだから。

ずっと見誤っていた。

私が本当に欲しかったものは、ただ受け入れてもらうことだった。
ただ甘えたかっただけだった。寂しかっただけだった。

そして親がいないと一人では不安で眠れなかった私は、一人で眠ることへの不安や恐怖から逃げるために、眠くなるまで眠らないことを選んだ。

あるいは徹夜でボロボロになって、ご飯も食べられなくなった私を見て、こんなにも寂しくて苦しいのだということを、わかって欲しかったのかもしれない。

私が眠れなくなるまで

そういえば小学校にあがってすぐに自分の部屋を与えられたけど、親と離れて眠るのがつらくって、すぐ泣いてしまっていたっけ。
たまに頑張って一人で寝ようとするんだけど、やっぱりダメで。結局、小学校五年生になり、思春期を迎えるまでは、親と一緒に眠っていた。

私はそれを恥ずかしいと思っていた。

なぜなら、兄は小一の時から自分の部屋で寝ていたからだ。だから私も、小一になれば自動的に自分の部屋で一人で寝られるようになるのだと思っていた。でも実際は、一人になると不安で泣き出してしまい、眠れなかった。

加えて、それを親戚や祖母からは兄と比べられて「未だに親と一緒に寝てるのか」と驚かれたり、バカにされたりしていた。だから、ずっと恥ずかしかった。

おまけに、私の周りには(少なくとも自分の部屋がある子は)親と寝ている子なんていなかったから、自分の部屋には空っぽのベッドを置いたまま、友達には一人で寝ていると嘘をついていた。

そして小学校五年生のころ、部屋で一人で寝るようにはなったけど、それは隠れて深夜にネットをしたり年上の友人と電話するためだった。結局それは、愛情を求める矛先を変えただけだった。

思えば親と一緒に寝ていた時には、眠れなかったことはあまりなかった気がする。ただそれでも、寂しくて不安で、置いていかれるような気がして。お気に入りのぬいぐるみを抱いて、母親の手を握らなければ、眠ることができなかった。

まあ結局、そんな思いがあったとしても、親に伝わるわけもなく、あるいは伝えられるわけもなく。親から与えられたものは、「ちゃんと寝なさい」「規則正しい生活をしなさい」「また徹夜して」「なんで寝ないの」という、頭ごなしの忠告だった。

思春期真っ只中である。客観的に見ても、管理体質で過干渉な親を鬱陶しいなと思っていた。正直大嫌いだった。もちろん言うことを聞く言う気になんてならなかったし、どうしていいかもわからず、ただ形のわからない怒りだけが胸に渦巻いていた。

その怒りをうまく押し込めて大人になった結果、社会に出てからも治らない夜更かしぐせが私を苦しめた。押し込めただけで、消化できていなかったからだ。そして、夜更かしをしてしまうたびに、規則正しい生活ができない自分が悪いと自分を責めていた。

頑張って生活習慣を正そうとして一時的にいいサイクルに持っていくこともできた。模範的な生活ができた自分を、自分で褒めてあげた。旦那も褒めてくれた。

でも心のどこかで満たされなかった。無理している感が否めなかった。

頭では納得したけれど、心の底で納得してないから、感情と行動がちぐはぐになって。また昼夜逆転を繰り返して、習慣が身につかない自分を責めての悪循環。

そんなことを、結局十年以上も続けてしまった。

ただ寂しいだけだったのにね。

「愛されたい」という思い込みが、ずいぶんと長い間、目の前をくもらせていた。

ずっとヒントはそばにあった

旦那にこの話をしたら「俺はお前が眠れないことを、心配こそすれ、怒ったことないでしょ」と言われた。

思い返してみれば、本当にそうだった。

誰にだって眠れない夜はあるし、どうしようもない時はある。昼夜逆転の弊害は色々あるから、それを心配しているだけで、責めたことはないよ。と。

いつも言われてたのに思い込みが邪魔して気がつけなかった。

私の心を覆っていた大きな雲が晴れた気がした。

今日も結局、眠れなかったけど

感情を受け入れたところで、残念ながら体内時計はそう簡単には戻らない。結局、今日もまた眠れなかった。今まさに、窓から差し込む光を浴び、スヌーズを繰り返す旦那のアラームを止めつつこの文を書いている。

しかし、それを責める自分は今のところなりを潜めている。

もしかしたらまた、自分を責めてしまうかもしれないけど、これからは、少しずつ改善していけると思う。

もちろん、規則正しい生活ができるに越したことはないと思う。

しかしそれができないことに対して、罪の意識を感じたり、人格を否定したりする必要はない。

同じように、自分のダメなところや変えたいところや、恥ずかしいところはあるけど、少なくともそれを責めたり、罪悪感を感じる必要はないのだと。

もしかしたら、これが自分の感情を受け入れるってことなのだろうか。

だとしたらこれからは、もう少し自分の心に、耳を傾けることができるようになるといいなと思う。


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