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「自分を被災者だと思ってはいけない」仙台で震災を経験した私が、東北の子ども支援を始めるまで #東日本大震災から12年

あの日リアルタイムで目にした大津波の映像。仙台市内の自宅で強い揺れに襲われた後、真っ黒い波が沿岸部の町を飲み込んでいく様子をワンセグで見たある高校生は、そのときから「自分を被災者だと思ってはいけない」と意識するようになった。

東北の広範囲で、大多数の人たちが被災した東日本大震災。それぞれの悲しみと辛い記憶を抱えながら、どんな風にこの12年を過ごしてきたのか。ハタチ基金が助成する団体でも、被災経験がある方々が様々な思いの中で今も東北の子どもたちを支えている。

今回は、高校2年生のときに仙台で被災した、公益社団法人チャンス・フォー・チルドレンの武林里穂さんのお話を伺った。

チャンス・フォー・チルドレン 武林里穂さん ©鈴木省一

チャンス・フォー・チルドレン
被災等が原因で経済的困難を抱える子どもたちに、学習塾などで利用できるスタディークーポンを届け、すべての子どもが多様な学びの機会を得られる社会を目指す。また、大学生ボランティア「ブラザー・シスター」が子どもたちの学習や進路相談のサポートをするなど、親でもなく先生でもない身近な相談相手として子どもたちに寄り添う。

“被災者とは思ってはいけない” 被害の大きさを比較して感じた後ろめたさ


ーー3.11は武林さんにとってどのような出来事だったのでしょうか。

私が東日本大震災を経験したのは、高校2年生の頃でした。
ちょうど大学受験の勉強を始めていた時期で、学校が休みだったので仙台市内の自宅で勉強をしていたときに、今までに経験したことのない揺れに襲われました。自宅はマンションの7階だったので、立っていられないほどの激しい揺れ方で、机の下に潜り込み、そばにあった抱き枕で頭を守りながら揺れに耐えました。一緒に家にいた母が、テレビが倒れてこないようにと必死にテレビを押さえて足を踏ん張っていた姿を覚えています。

震災から2週間の中でとりわけ記憶に残っているのは、夜の暗さです。停電で長い間電気が付かず、真っ暗な夜に懐中電灯の明かり一つで過ごしました。外では雪が降り、暖房も付けられずガスも使えず寒さに耐える中、夕方になるにつれて街が暗闇に飲まれていく様子に、私と同じように不安を覚えた人は多かったのではないかと思います。

最もショックだったのは、やはりテレビでリアルタイムに流れてきた津波の映像です。当時持っていた携帯のワンセグで見たニュースでは、真っ黒い波が街を飲み込む映像と、女性のリポーターが叫ぶように実況する声が流れてきて、今まさにこんなことが起きているとは信じ難いその状況に、ショックで呆然としてしまいました。
その映像を見てから、私は無意識のうちに「自分のことを被災者と思ってはいけない」と考えていたような気がします。大きな地震に見舞われて、電気もガスも使えず食べ物を得るのにも苦労しているけれど、雨風をしのぐ家があって家族も無事でいる。沿岸部の方たちはもっと過酷な状況に置かれているのだから、自分が大変そうなそぶりを見せたり、被災者として振る舞ったりしてはいけないと思いました。

数ヶ月間は何も手につかず、受験に向けて勉強をする気にもなれず、日中は学校の友だちと一緒に品物を無償で提供をしてくれるスーパーや薬局をはしごしながら、食べ物をかき集めて回りました。友だちとおしゃべりをしながら方々のお店を巡っている様子は、はたから見れば楽しそうにすら見えたのかもしれません。そのことに、どことなく後ろめたさを感じている自分もいました。

何もできなかった自分への後悔から始めた、子どもたちを支える活動

ーーそんな中、東北の子どもたちを支えるチャンス・フォー・チルドレンで活動をすることにしたのはどうしてだったのですか?

チャンス・フォー・チルドレン(以下CFC)と出会ったのは、震災から3年後、大学3年生の時。仙台事務局の大学生ボランティア「ブラザー・シスター」(通称ブラシス)としての活動が最初でした。
始めた背景には、教職を目指していたので子どもたちの教育に携わりたいという思いもありましたが、それ以上に、震災直後に何もできなかったことへの後悔の念がありました。

震災直後、全国からボランティアの方が駆けつけ、避難所の運営や物資の提供等を担ってくれ、私たちの地域のことを助けてくださって。その当時はただ支援をいただくばかりでしたが、その時に何もできなかった分、何らかの形で東北に貢献したいとの思いをずっと抱いていました。

私がブラシスとして活動していた当時は、面談で沿岸部出身の子どもたちと接する機会が多くありました。震災から日が浅く、特に沿岸部では復興が進んでいない状況にあったので、震災当時の話や家族に関する話を不用意にこちらから話したり聞いたりしないように、ブラシス同士で細心の注意を払いながら活動をしました。

大学卒業後は、地域の学校で教員として2年間働いたのち、3年目にCFCに職員として入職しました。ブラシスとしての立場にいた時とは異なる形で、もう一度CFCで頑張りたいと思ったためです。

©平井慶祐

震災から10年以上が経過した今、職員としてブラシスと接していると、自分がブラシスだった当時と比較して震災への意識が大きく変化したと感じます。当時は東北に何らかの形で携わりたいという理由で活動に関わる学生が多かったのですが、現在は多様な動機や思いを持って活動に関わってくれているように思います。そもそも今活動しているブラシスは、震災の発生直後はまだ幼くて当時のことをよく覚えていないという子も多く、震災に対する意識も様々です。

それでも、毎年3月11日にブラシスが行う仙台市内での街頭募金は、ブラシスにとっても私たち職員にとっても特別な活動です。3.11に対する思いや経験は違えど、毎年3月のこの日は東北に想いを馳せ、自ら街頭に立って募金を呼びかける日にしたい。ブラシスに職員側から何かを伝えるということはなくとも街頭で様々な方からお声がけをいただき、優しさに触れる経験を通じて震災に対して自分なりの思いを持ち、次の代に繋いでいってほしいなと思っています。

毎年行う街頭募金

今もなお震災の影響で困難な状況に陥る子どもたち

ーー東北の子どもたちは今、どのような状況にあるのでしょうか?

震災から12年が経とうとしている現在、被災した街やインフラの復興は進み、その地域で暮らす人々も日常生活を取り戻したように見えるのかもしれません。
一方で、CFCに寄せられる声からは、今もなお被災された方々の暮らしに震災の影響が色濃く残っていることを感じます。震災当時に発生した困難な状況が長期間続いたことにより、経済的困窮や健康面の課題、孤立、不登校、家庭内不和など、家庭や子どもたちが抱える課題はより複雑化しています。加えて、長引くコロナ禍や物価高騰の影響も相まって、困難を抱える家庭が一層困難な状況下に置かれていることも窺えます。

<CFCに寄せられた声>

「東日本大震災の避難がきっかけで、母子家庭になりました。避難生活のストレスや元々あった自分の特性のせいで体調不良になり、中学3年生から学校へ行けなくなってしまいました。」

「東日本大震災で被災し、両親を亡くしてしまい、母1人娘1人となり、精神的にも経済的にも絶望的な状況でした。」

「東日本大震災の時は幼稚園の入園式がなくなり、コロナで小学校の卒業式は生徒のみの出席、中学校の入学式の延期と、節目節目できちんと式に参加出来ていない年代です。学校行事も知らないまま体験しないままに、中学3年生になります。」

©Natsuki Yasuda / Dialogue for People

CFCの一職員としては、引き続き東北地域で経済的に困難を抱える家庭や子どもたちに寄り添うとともに、現在活動しているブラシスとも連携をしながら、複雑化した課題を抱える家庭が、CFCに限らず公的機関や適切な支援団体につながるためのサポートの一端を担うことができればと考えています。
常日頃から震災や東北を意識したり思いを馳せたりする機会を持つのは簡単ではないかもしれません。それでも、CFCに関係する方にもそうでない方にも、この日のことを考える機会を持ってもらえるよう働きかけられたらと思っています。


ハタチ基金は、「東日本大震災発生時に0歳だった赤ちゃんが、無事にハタチを迎えられるその日まで」をコンセプトに、2011年より活動をスタートしました。2023年3月に12年目を迎え、残りの活動期間は8年となります。東北被災地の団体が、ハタチ基金活動期間終了後も子どもたちを持続的に支え見守れるように。そんな思いで、これからも皆さまからのご寄付とともに支援を続けてまいります。

ハタチ基金についてはこちら https://www.hatachikikin.com/


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