日記(le 27 mai 2021)

夜中に泣いた曲のこと

夜中にSpotifyで音楽を聴いていたら、ランダム再生で谷村新司「サライ」からの岡村孝子「夢をあきらめないで」という流れがあって泣いてしまいました。
鬱が悪化してから感情が鈍って、本を読んだり映画を観たりしてもこれといって感動したりしなくなった一方で、変に涙もろくなって(歳をとったせいもあるのかな)泣かないまでも涙ぐむことが格段に増えましたが、今回は涙ぐむだけでは済まずに涙をボロボロ零して泣きました。
まず「サライ」が"遠い夢捨てきれずに ふるさとを捨てた"と始まるように夢を追って故郷を離れた主人公がテーマの曲で、それが2番になると"この街で夢追うならもう少し強くならなけりゃ時の流れに負けてしまいそうで"と夢やぶれかけて、それでもなお"桜吹雪のサライの空へ いつか帰るそのときまで夢は捨てない"と、望郷の念にかられながらも夢を諦めないという歌なんですね。これ、24時間テレビのテーマ曲になっていることもあって真面目に歌詞とか聴いたことなかったんですけど、最近、ここ数ヶ月で歌詞を聴いて改めて自分の今の境遇と重ね合わせてグッと来るようになっていたんです。故郷を離れてまで追いかけた夢はやぶれかけて、でも捨てがたく、そして望郷の念はつのりながらも故郷には(パンデミックのせいもあって)いまだ帰れない。そんな自分に向けられた歌のような気がして、聴くたびに胸が締め付けられるような気持ちになります。3番に"若い日の父と母に包まれて過ぎた 穏やかな日々の暮らしをなぞりながら生きる"という歌詞もあって、望郷の念はつのるばかりです。
そこからの岡村孝子「夢をあきらめないで」。本人は失恋ソングのつもりで書いたんだそうですが、2番の"似てる誰かを愛せるから"というフレーズ以外は恋愛要素を思わせる歌詞がなく、普遍的な応援歌として受け止められてきました。しかし失恋ソングの陰は残っていて、恋ではないにしても、「去ってゆく誰かを応援する歌」になっているのは間違いありません。1番の歌詞にある"後ろ姿が小さくなる 優しい言葉探せないまま 冷えたその手を振り続けた"という、応援しながらの別離のシーンは、失恋というより「夢に向かって旅立ってゆく誰かへの応援歌」という色彩が濃い気がします。
この2曲が続けて再生されると、「サライ」で旅立った主人公が、「夢をあきらめないで」で故郷の大切な人(「愛」は普遍的なものだから恋人でも家族でもいい)からエールを送られているような構図になって、それが自分の現状に重なって、なんともいえず泣けてしまうのです。むかし母親がこの「夢をあきらめないで」の一節を、仕送りの荷物に添えられた手紙に書き添えてきたことがあって、そのためによけい「夢をあきらめないで」が"遠い夢捨てきれずに ふるさとを捨てた"自分に向けられた"あなたの夢をあきらめないで 遠くにいて信じている"というメッセージのようでグッと来てしまいます。

母親のSNSのこと

そんなわけで母親からの手紙やラインには、その優しさに思わず涙してしまうことがあるのですが、一方で「頼むからSNSだけはやってくれるな」「やるにしても僕とは無関係にやってくれ」という思いになってしまいます。
ツイッターに母親のアカウントがあるのは知っていて、フォローされて即ブロックしたのですが、誰かがちょっとでも僕の短歌をつぶやいたりすると、それがたとえbotでも問答無用でいいねとRTをするので不気味がられて、短歌界隈の人がうかつに僕の歌をツイートできない一因になっていたりします。親バカなのでしょうが、正直恥ずかしくてたまらないので、やめていただきたいというのが本音です。
それ以外にもつい昨日のことなんですが、インスタグラム(アイドルや女優の投稿を見るためにいちおうアカウントだけ持っている)から通知が来て、やはり僕と関係ありそうなアカウント名で母がインスタをやっていたことが発覚し、頼むからそういうのやめてくれよ……という気持ちになりました。幸いにもインスタにはすぐ飽きてしまったらしく、2019年に数件投稿しただけで更新が止まっていたのでまだ良かったのですが。
親のSNS問題、どうにかならないものでしょうか。ツイッターならツイッターの空気を読んで、たとえば片っ端からRTするのをやめるとか、子供のことはその子供自身の個人情報にも関わるからあまりつぶやかないようにするとか、いろいろ改善してくれればまだ受け入れる余地はあるのですが。実際、そういうかたちで親子間の交流をツイッター上でもしている知人もいるので……。「やめろとは言わない、せめて僕のことには触れないでくれないか」というぐらいが妥協点でしょうか。

過食嘔吐のこと

そんな母親からの仕送りの荷物が今日も届いて、主に野菜ジュースや健康食品などが入っているのですが、届くたびについつい食べすぎてしまいます。
もともと一人暮らしを始めたときから、家に余計な食べ物を置いておきたくない主義で、必要になったら(食欲が出たら)そのつどコンビニやスーパーに買いに行くなり、外食するなりして済ませるようにしてきました。食材が家にあるというのが耐えられないので料理も一切しません(高校のころ家庭科で落第させられかけたぐらい料理ができないというのもあるのですが)。その関係で、大量の食品が届いたり買いすぎてしまったりすると、つい「食べ切らなければ」という強迫観念にとらわれて、結果食べすぎてしまうという事態に陥ることが多いのです。
今回の仕送りは甘いお菓子類が多かったので食べすぎると割とすぐに気持ち悪くなり、しかしその気持ち悪いのを食べすぎのせいではなく「しょっぱいものを食べていないせいだ」と判断してしまい、満腹の状態からさらに食事を摂ったことで、食べ終えてからすぐさま嘔吐してしまいました。もちろん摂食障害などで本格的な過食嘔吐に陥っている方々に比べたら僕のなんて食べすぎて吐いただけに過ぎない、大したことないものといってしまえばそれまでなのですが、これまでそういうことがなかっただけにやっぱりショックは大きいです。通っているメンタルクリニックは薬のことしか考えていない老医師がやっているところなので、過食のことを伝えてもろくに話も聞かず、大して効くとも思えない処方を変える提案をしてくるばかりでした。
ともあれ吐いている間はしんどいものです。嘔吐の苦しさに加えてせっかく母が送ってくれたものも吐いてしまったかも知れないという思いも入り混じって、吐きながら「サライ」「夢をあきらめないで」を聴いたときとは別種の涙をボロボロとこぼしてしまいました。
もともと十年前にいろいろなことが重なって鬱病になってから過食傾向になって、そのころ住んでいた家の近所のマックで毎食のようにハンバーガーを3つも4つも食べていたのがきっかけで太りはじめ、その後も過食傾向が収まらなかったことから(ちなみに今の家の近くにはマックはないのですが)結果として鬱になる前は172cmの55kgで痩せ型だった体重が95kgの太りすぎにまで増えてしまっています。先輩から「痩せてた頃の倍近くなったね」と言われるのですが、本当にその通りで、特にこの1年ちょっとはひきこもり生活が続いており、怖くて体重計には乗っていないのですが、もしかすると俗に言う"コロナ太り"で本当に、痩せていた頃の2倍(110kg)にまで増えてしまっているかも知れません。
痩せたい気持ちはやまやまなのですが、散歩すらできない状態なので……。

短詩型文学の最先端にうとくなってしまったこと

これは言わずもがなです。
鬱病が悪化して本が読めなくなる前から、短歌や歌壇になんとなく嫌気が差していて、原稿料がもらえるから書くし詠むけれど、最新の動向を追いかける気力まではないという状態が続いていました。これは『現代詩手帖』で2014年1月号から2015年12月号まで短歌時評を担当し、自分なりに当時の歌壇の動きや議論を呼んでいる問題などについてあれこれ追いかけていた反動かも知れません。加えて学籍も助手としての資格も失ってしまってからは、自然と大学の図書館から足が遠のき、大学で収蔵していた短歌雑誌(『短歌研究』、角川『短歌』、『歌壇』の3誌)を気軽に読めなくなったこともあります。自費で購読するのはさすがにつらい。
よくこんな状態で日曜以外隔日連載、合計156首を取り上げる「一首鑑賞 日々のクオリア」を引き受けられたものです。結果、途中で1ヶ月以上の休載を挟んでしまったり、後半になるとあからさまに1首あたりの文章量が激減して、心身の不調がモロに出てしまう惨憺たることになってしまいました。関係各位には何度お詫びしても足りないような始末です。
さらに近年は同じ短詩型文学ということで短歌と俳句や川柳との交流が盛んで、さらにいえば短歌と現代詩についても、僕が『現代詩手帖』に短歌時評の連載をもっていたように、やはり交流があります。そんななかで僕はいちおうのホームグラウンドである短歌の動向すら追えていないわけですから、当然のごとく俳句・川柳・現代詩の最先端のことなどとうてい追っかけきれず、正直なところついていけていません。
それでも、俳句・川柳に関してはそれぞれ良いアンソロジーも出ていますし、現代詩の分野ではそれなりに好きな詩人の方もおられるし、そのほかにも若い世代に読まれている詩人・歌人・俳人・柳人をリサーチするなどして、何とか短詩型文学の最先端をもう一度追いかけてみたいと思っています。いざとなればその方面の読書量は僕よりはるかに多いたよれる先輩や後輩もいるわけですし、何とかかんとか喰らいついていければな、という感じです。

この記事が参加している募集

#思い出の曲

11,246件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?