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与えたいというエゴの話

最近、順調すぎて怖い。
なにぶってるんだよと言いたくなるようなセリフだけれど、なんとなくそんな感じがするのだ。

何故か突然遊園地に連れて行ってもらえたり、何故かすごく好かれていたり、何故かよくしてくれる。なんで?

いつもいつもよくしてくれていて私は感謝の気持ちでいっぱいだし、相手からもいつもなんとなく愛されてる感や大事にしてくれてる感を感じているので不安になることもなく、自分のことに集中できているし、なんなら放置気味に過ごしていた。

普段と何が違ったのかよくわからないけれど最近急にいいことがありすぎる。

それに浮かれて、つられて、こっちも感謝を表したり、ついつい気にしてしまったり、なにかしてあげたくなってしまうのだけれど、
「なにかをしてあげる」というのがどれだけ恐ろしいことなのかを私は知っている。だから今少し不安なのかもしれない。

無意識に尽くしてしまうのはいいようで、よくないことなのだ。

ここで自分の母親を例にあげる。

私の母親は基本的にきっと優しくて、すごいいい母なのだと思う。
しかし、自分を押し殺して生きているせいでにじみ出る不平不満を垂れ流しながらも完璧に家事をこなすことに全力を注いでいる。
「私がいないと何もできないんだから。」
そういいながら彼女は完璧に家事をこなすのだ。
手伝おうか?と手を差し伸べると逆に邪魔だと手を振り払うが、不平不満は家族のもとに降り注ぐことになる。
それは本当に、相手のためになっているのだろうか。

相手のために、相手のためにと行動することは一見思いやり深くていいことのようなのだが、それが先立って自分をおろそかにすることは、相手に束縛や、脅迫めいた印象を与えることになると思う。

なんというか、じっとりとしたプレッシャーがかかってしまうのだと思う。

私はいつも心軽やかに過ごしたいし、周りの人にも心軽やかに過ごしてほしいのだ。
もちろん、恋人だからといって、じっとり、べったりと心に鉛をとどめていくようなことはしたくも、されたくもない。

与える心は自分が満たされていないと有効に働かないと思う。
満たされた自分の心の中の10分の1くらいをコンスタントに分け与えるくらいがちょうどいいのではないか。

なんなら、なにも与えようとなどせず、一人の人間として自由な生き方を尊重するほうがいいと思う。

そもそも人になにかを与えようとするなんて、おこがましいことであると思う。
ついつい忘れて、何かしてあげたいななんて思ってしまうけれど、そこには好かれたいという打算だったり、自分が影響を与えて相手をコントロールしたいというエゴがあるのだと思う。

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