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全てが奇跡のようだ!

最近、悲観的な記事を書いていなかったと思っていたので、
少し悲観的にもみて、価値観のバランスを取らせてください。

あまり意識しないと耳には止まらないものの、
まだまだ「死ね」「ばか」「ぼけ」などはよく聞きます。

私はこれを言っていることが悪いわけではなく、
クラスの中でのレベルがバレバレになってしまうと感じています。

多くの生徒は見ないと思いますが、
意識してクラスを見てみてください。

クラスの中でも、語彙力豊富で会話しているグループ、
語彙力貧弱な単発的な会話をしているグループなどがいると思います。

最近この二つのグループの特徴を見つけました。
一つ目の語彙力豊富で会話しているグループでは
「静か」なグループだと感じます。
話のトーン、話のテンポ、全てが聞いていて気持ちい会話になっています。

逆に貧弱なグループでは
「声がでかい」と感じます。
話のトーンは爆音、そして話のテンポは話が続かず、
話は区切り区切りに流れるような感じで、
会話のキャッチボールで例えると
誰もがボールを持っていて色々な方向に投げるみたいなイメージの
会話に感じます。

私の経験からもですが、長野県の先生との対話、書籍、自分の考察から
新たに分かったことがあります。

語彙力が豊富なグループは存在感は話しているだけ出てきます。
また、意識しなくても周りからは注目されます。
意見も鋭く、聞いていて気持ちい会話が実現されています。

逆に貧弱なグループでは、意見が噛み合わないため、
会話として成立することが難しく、声を大きくし、
存在感を出していると思います。

私的に思うことが豊富、貧弱だけでも
人間性が簡単にわかります。また少しの心理学勉強でも
段々とクラスの特性、技術、得意不得意が
見えるようになります。

なぜここまで「語彙力」の話をするかと言いますと、
語彙力で損している割合が多いと感じるからです。

私が長野県にいた時は授業が対話型で
いやでも語彙力は尽きます。

しかし、大阪の仕組み上、対話方の導入が遅く、
対話型どころではありません。
また、学力重視で語彙力はほとんどありません。

私は「学力だけのも抜け殻」と概念づけています。

すごく語彙力のない人は損をしているとも感じます。
本当はこの想いを届けたいのに
届けられない、話が噛み合っていない。
そんな状況が多く起きていると思います。

私の今年の目標は悪口を言いたくなった時に
この人からなら何を学べるのか?
全てを吸収したいと考えています。

ですから、今年の私は「死ね」という言葉を明確に否定します。
彼らにとってのコミュニケーションツールであったとしても
否定をします。
申し訳ないと思いませんか?
心から思っている「共」が「死ね」などと口にしていることを
止められない自分がいることが。

大阪の人は全てが悪いとは言ってませんし、
むしろ尊敬しています。

しかし、尊敬できない部分は「言葉使い」です。
これから社会に旅立つ共が損をしてほしくない。

そして、高校になると社会の見え方が一気に変わると
思います。

そんな中、「死ね」なんて使っていたらダサいと思います。

それだからこそ、明確に否定します。
1学期などは問題にもなりました。

教師から彼らのコミュニケーションツールだと言われました。
これを指摘しないんですか?
これでいいんですか?
これに関しては、「教師の職を果たした」とは言えないと感じます。

私は「教師」に憧れています。
希望を与える職。

私に希望をくれた先生、一緒に過ごした時間が
「奇跡」のように感じる「学校」生活。

だから私は「学力」などが学校に来る意味になってほしくない。
色々なことを学べる学校。

語彙力とは話が離れましたが、受験時期にある
周りの人たちと乗り越えた日々が宝物になって欲しいと思っています。

自分も中学生ですが、私は「委員会の仕事」をしっかりやる、
ことだけが私の学校に来る意味だと思っています。

大阪に来たことが間違いでもなく、
失敗でもないとやっと今になって気づきました。

私が志願して学校が立て続きに受験失敗になり悲しいですが、
私は今の学校に行けるだけで十分です。
不満もありますし、人間関係がうまくいかない時だって
あります。
それでも、私は大阪に帰ってきてよかった。
そう思います。

悲観的な記事にしようかと思ってたら
なんか、本音が出てしまうもんですね。

noteを続けて、記事数は200を超え、
発信し続けること、「継続は力なり」です。

記事の打ちミスや文法などはおかしいところはたくさんありますが、
私なりに努力をしたり、続けるために色々なしてきました。

そんな思いが文字でも伝わればと思います。

長い記事を最後まで読んでいただきありがとうございます!