人文系博士で留学するまでの学歴
1990年代、団塊ジュニア世代による受験戦争は最盛期を迎えていた。
全国の大学の偏差値は軒並み上昇し、後の世ならば上位の大学に行けていた人間が、中堅大学へ入学する時代。
大学入試センター試験をはじめとした大学受験問題が軒並み難化。
大学受験はまさに修羅そのものだった。
それから10数年、少子化という社会問題に直面した大学受験戦争は、新たな局面を迎えた。
大学全入時代。
センター試験の受験者数が、全大学の総定員数を割る。
四方八方に座る他の受験者たちを悉く打ちのめさなければいけない、あの殺伐とした時代はもはや過去の遺物。
果たしてこの生ぬるい環境において学問の質を保つことができるのだろうか。
日本のアカデミアには暗雲が立ち込め始めていた。
そんな時代に能天気に大学に進学したのが何を隠そう私です。
こんにちは、Harryです。
今回はみんな大好き学歴の話。
現在アメリカの人文系の大学院博士課程に留学中の私が、どのような学歴でここに至ったのかという話をしたいと思います。
なぜか。
いや、別に自分の学歴を誇示したいとかそういうんじゃないんです。マジで。
そういうのは東大→ハーバードみたいなスーパーエリートにお願いしたい。
私の目的は、研究者を目指すための一つのロールモデルを示すこと。
自分自身の学歴をほんのりと開示することで、あーこんなルートでも研究者って目指せるんだ、という一つの道のようなものを紹介できたらなーと思っています。
まあ、その道も雑草が生い茂ってそうではありますが。
ともあれ若者よ(中年でも年寄りでもいいですが)、絶望するなかれ!
夢と希望と愛と勇気とやる気と金と運があれば大丈夫!
で、いつもながら話が長くなるので、先に言っておきましょう。
私の学歴は、県立高校(偏差値50)、私立大学(偏差値50)、旧帝院(修士)、国立院(博士)、米国大学院(博士)です。
なので、もともとエリートでもなんでもないフツーの人間です。
でも頑張ればアメリカまで行けます。
よし、これで情報としては満足!と言う人はブラウザ閉じても大丈夫。
以下には、いつどこで何をしたとかそういう自分語りが続きます。
さて、私はクッソ田舎の県立高校出身です。偏差値50。
しかも成績はドベから2番目。
もう普通どころか劣等生。落ちこぼれ。
なーんも勉強してなかった。
英語も余裕で赤点だった。
ひたすら小説読んだりゲームしたりしてました。
で、現役受験の時は、自己推薦で屁理屈並べた小論文書いて適当な大学に合格しました。
この頃私はまだ甘々のクソガキだったので、親がどういう思いで大学に送り出してくれたとかそういうこと一切考えてなかった。
とそんな浮かれポンチで大学に入ったのですが、その大学が全く肌に合わず、わずか1ヶ月で退学を決意。
ここからマジでクソガキですまなかったと猛省。もう一度だけチャンスを欲しいと懇願し浪人。
結構頑張ったのですが、結果が振るわず、偏差値50の大学に入学という運びになりました。
なんというか、この時はせっかく浪人させてもらったのに申し訳なかったなーという気持ちが強かったと思います。
でもまあ腐っていても仕方ないので、受かった大学で法律を勉強し始めました。
弁護士になろうって思ってました。
いやなんか違うな、とりあえず両親に顔向けできる人間になりたかった、と言った方がいいかもしれません。
散々世話をかけた罪滅ぼしのような側面もあった気がします。結局大学院に行くことで更なる業を背負うことになりましたが。
で、その大学で法律を勉強しだした頃、ある英語の授業に出逢います。
その英語の授業は他のパンキョーの英語とは一線を画しており、授業の目標がはるか高みに設定されていました。
分かりやすく言うと、他がTOEIC500点を目指す授業だとしたら、その授業はGREや LSATで高得点、あるいはその先を目標としていました。
実際その授業を乗り越えた私の先輩、同期、後輩の多くは、日本国外へ羽ばたいていきました。
ちなみに40人受講者がいたとしたら38人は脱落する授業でした。もちろん単位は出たのですが、授業についていけないと言う意味での脱落です。
で、その授業に非常に感化された1年生の私は法律の傍、英語を勉強するようになります。
この授業何をやったのか、というとひたすら多読と英単語暗記。
授業は毎回テスト。GREとかSATとかLSATとかそういうやつを時間内でやる。
宿題は毎週4-50ページくらいの英文(学術書、文学、雑誌など)を渡されて、知らない単語を無くすこと。
翌週テストがあります。
その他にも2冊海外の単語帳を買って覚えるように言われる。これも毎週テスト。
範囲は全部。
っていうのを毎週繰り返して得点を蓄積し、順位を決めるというクラスでした。
「フン、面白い…」と中二病を再発した私はクソ勉強の末、年間順位で1位を獲得することができました。
思えばこれが私の初めての成功体験だったのではないでしょうか。
一方、このクラスを担当していた教員は、前の記事で触れた英語で文学を読むクラスも持っていました。
この英語のクラスに感動した私は、そちらのクラスも受講しますが、詳しくは以前の記事をお読みください。
というわけで、大学2年生からは法律そっちのけで英語と人文学に染まっていました。
ちなみに大学生の頃の私の英語力はTOEFL ITPで600程度でした。
で、英語と人文学に多少自信のついた私は旧帝国大学の人文系大学院に入学、もとい入院。
共同研究室のメンバーと飲み会したり、BBQしたり、野球したり、ボウリングしたり、映画に出たりと失われた青春を取り戻していました。
一方、授業や修論などは大変でした。
まず文学部で教育を受けていないので、研究のイロハがよくわかっていない。
英語も緻密に文学作品や論文を読み込むまでに至っていない。
授業では基本的にベタ読み(先行研究や批評理論などを使わずひたすら精読すること)を行い、一文ずつ読んで訳すというものだったのですが、これが本当に辛かった。
自分の無能さを悔い改めよと言われているかのようだった。先生めっちゃ怖いし。
まあでも、今になって思うと、ここで作品の読み方をみっちり叩き込まれたと思います。
修論はガンダムZZ見ながら書いたという記憶しかないです。
で、修士でも辛かった私は1年博士浪人という名のプータローをして、別の某国立大学に博士編入します。
どれだけ叩きのめされようと研究をする、という意思だけは消えてなかったわけですね。
で、この大学院、ここはもう神。ゴッド。すごいところでした。
修士の時と全く逆。理論、歴史、その他のコンテクストを使って小説、映画、写真、絵画なんでも研究する。
ぶっちゃけアメリカの大学院でやってることと遜色ない。
先生も優しいし!!
先輩、同期、後輩、教員に恵まれ、本当に豊かな研究生活ができたと思っています。
そんな感じでアメリカの大学院へ留学するに至りました。
これはもう本当に自分の力だけではなく、周りの環境やサポートがあってのものなので、私自身は運がいい方なんだなと感じています。
長かったなー。何年学生やってるのか数えたくないですね。
もともとが劣等生だったので、時間がかかるのは仕方ない。
でもなんとか博士号取得まであと一歩ということろまできています。
この後のキャリアがどのようなものになるかは分かりませんが、まあなんとかなるやろ。
いや、すいません、何とかします。Maryも見てるの忘れてたわ。
と色々書いてきましたが、これが読まれている方の何かしらの参考になればいいと思います。
アメリカの博士まで行くのは、結局は運。
でもその運を掴むためには適切な努力を惜しまないということが大事。
学歴というのは、頑張った結果としてついてくるものなのであって、目的にするものではないということですね。
これを間違えるとやべーやつが生まれます。日本の大学院でよく見ました。
厳しい大学受験戦争の中から生まれた学歴コンプレックスという名の魔物。
それは大学全入時代を迎えても人の心の中に蠢いていた。
そしてそれは時として人に牙を剝く。
次回!「俺は高二まで東大模試の偏差値80!」に、スタディー・ゴー!!!
これまじで言われたからなぁ・・・。
Harry
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