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パラリンピック開会式を観ていました

パラリンピック開会式が始まりました。

選手入場を観ていて色々思うところがありましたので今日の日記として書き留めます。

思ったこと。

地雷の存在

まず地雷で身体の一部を失った方々が色んな国で参加されていること。

障碍と言っても身体的なもの、精神的なもの色んな形があって。先天性のもの、後天的なものもあって。でも、地雷がその原因になっているというのはただただ心が痛かった。今この瞬間も武力によって統治を争っている国があることは勿論知っている。だけど、誇らしげで眩しい選手たちの笑顔が眩しくて、こころは複雑な痛みを感じずにはいられなかった。

病気もそうだけれど、地雷は平等にあるものじゃない。それまでに抱いていた夢を諦めることもあったろうし、不運を嘆くこともあったんじゃないか。

でもそこに留まらず自分の歩む道を模索した人があの場所に立っているのだろうか。そんなことを思ったり。

同時にこんなことも思った。
地雷が当たり前の日常なら、ほんの隣で地雷によって命を失っていく人々もいるのではないかと。
身体の一部を失ったという事実もそのような人の存在によってむしろ「生きているだけで幸運」「これぐらいで済んだ幸運」という認識の方が一般的なのかも知れない。

人は比較する生き物だし、生き残り進化することを求める生き物だから。

違う目線から見た国々

入場の折にはそれぞれの国の出場選手の紹介に伴い国として強いスポーツや産業や文化遺産などの特色を紹介してくれていてそれだけでも感銘を受ける。

その上パラスポーツへの力を入れているところ、その競技においては各国の選手の憧れとされる国を紹介されていたりもして、これまでと国の印象が変わったりした。

世界の見え方が変わるというのは拡大する感覚を覚えるしワクワクする。

障碍を考える

わたしはリンパ療法士でヒーラーだ。経歴としてはヒーラーが1番長いけれど、リラクゼーションに携わった時間の方が仕事量としては多い。

リラクゼーションではどちらかというと「気になっている部位」をヒアリングして「痛みをとる=良くする」ことにフォーカスしてきた。
意外かも知れないけれどヒーリングとか「癒し」の場合は逆にそこにはフォーカスしない。結果としてはそうなることもあるけれど「全体性」に「完全性」に繋がるように意図してる。

リラクゼーションでも具体的には今ある痛みを無くすように身体のバランスを取るように意識するのだけれど、つい「良くなってもらいたい」と思ってしまうときがある。
「良く」しようと無意識的ににでも思うと自分の身体が酷い目に遭う。その理由がはっきりわかった。

「痛み」はことば

「痛み」が嫌だな、っていうのはある。でも「痛み」は悪くない。それは単に身体が状態を伝えるために使う言語のひとつ。
でも「病気」とか「障碍」を与えられた時人はそれを「ギフト」とは受け取りにくい傾向がある。

痛みや苦痛に苦しむ以上に未来に憂いを持つ傾向がある。
必死で「治る」方法を模索するし、周りもその人の受け入れ度合いに応じて距離を取ったり、本人も含めて目を背けるような行動になったりもする。

みんな感情的ショックから「喜ばしくないこと」「悪いこと」「不幸」みたいに定義づけしがちだと思う。見てきた中ではそうじゃない人の方が少数だった。わたしも自分自身のことじゃないだけに余計どうしようもなくて、病院でカーテン閉め切って泣きながらミニミニ千羽鶴を折る日々だった(ちなみに1ヶ月経たないうちに飽きた)。

病気や障がいはネガティブ要素じゃない

でも。
病気や障碍を「悪い」って否定したら、彼ら選手団を否定することになる。病気や障碍には当然理由とか要因とか因果みたいなものは隠れているけれど、それ自体はネガティブなものでもない。

何も悪くないし、「治す」必要すらないのかも知れない、と。

「治りたい」というのはリウマチのように痛みに悩まされる日々なら特に切望するもので、そこに「らしさ」とか「多様性」なんて言葉は届かない気がする。それでもただ「治りたい」と自分を投げ出すようにいうのは、問答無用で自分を切り捨てているのと同じなのではないかと。

自分を受け入れる余地がない故に、切り捨てられた自分自身が相変わらずの助けを求める声をあげているんじゃないかと。

そんな風にも思ったのです。

ニュートラルに観察する視点を持つ

話がそれましたが、今までなんとなく無意識的に病気や障害をネガティブに捉えていた部分が自分の内側に存在していたことに気づいたわけで。

なんでも「なったらそうなった時だ」というのはありますが、その状態をニュートラルに観察する視点を持ち続けたい。
少なくとも否定はしない。したくない。それは誰かを否定することに繋がるし、見えないほどにしても差別の種に違いないから。

「大変だったね」「辛かったね」と「かわいそう」は全く質が違う言葉だ

実際「どれだけ苦労して努力を重ねただろう」という人ばかりで「かわいそう」な人なんて、誰一人としていなかった。みんな自分の道を生き生きと歩いていた。

本当はこの世に「かわいそう」な人なんていないのだ。

かわいそう、というのは現状を写すための言葉じゃなくて、意識の状態を示している言葉なんだ。

「自分がかわいそう」という陶酔型の被害者意識。
「あの人かわいそう」という他者を否定して差別する意識。

どちらも同じところからでる。
多分同じところに属している。

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今日ちゃんと写真が撮りたくなって久しぶりにSIGMAのSD14を引っ張り出しました。メリルさんが発売された後、dpシリーズを買いそろえてどうしてもレンズ交換式で撮りたくなって中古で買い求めた思い入れのあるカメラです。

癖が強すぎて、そして不自由過ぎて、PENと一緒に2段構えで持ち歩くには重すぎてあまり構ってあげられていなかったカメラ。

久しぶりに出したらレンズにカビが!
拭き拭きして機嫌治してもらって庭に出たら蛙ちゃんが野葡萄の葉に引っ越ししてきていました。

癖はあるけれど空気が写せるカメラ(腕次第💦)。
これから時々撮っていきたいです。
今日もありがとうございます。

ありがとうございます╰(*´︶`*)╯♡ お預かりしたエネルギーが人と地球のために廻っていくよう活動します!