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尾畑雁多
2022年6月5日 13:27
第十六話「妖怪の書く文」 天保(1829)のはじめのことであった。 かの有名な『忠臣蔵狂詩集』を書いた植木玉厓の親戚の家に、不思議な妖怪が出ると言う。大きな被害はない。ただ、障子やその他の所へ文字を書く。おおむね意味も通じるが、この妖怪、他愛もないことばかりを書く。その中に、時々、滑稽なものもあり、人の心をよく知っているかのようだと言う。 この家の主人の母御は芝居好きで、人気の立役者・
2022年5月16日 17:16
第十ニ話「夏行の疫病神」 時は宝暦(1750年)の頃。京都一乗寺金福禅寺の住僧・松宗禅師の語られた物語である。 先年、備後の国・三好鳳源寺で愚極和尚を招き講和が開かれた時のことである。愚極和尚は梵網経の解説本を書いたほどの知恵者でござる。講和の終わりに夏安居と呼ばれる夏行がはじまった。 拙僧は、壮年の頃であったので、この会座に連なって、他の僧たちと共に修行しておった。僧侶たちは、昼夜の勤
2022年5月21日 09:11
第十三話「参拝は心の糧」 最近はあまり聞くことはないが……少し前まで死に逝く者が別れを告げに来ることは、普通の出来事だった。これは江戸時代も後期に、拙者・佐藤中陵が山形へ薬草の調査に赴いた時、善勝寺の天膳和尚から聞いた物語である。 米沢に町田弥五四郎と言うご隠居が住んでござった。彼は常に阿弥陀仏を信じ、何年も前から、毎日、善勝寺に参詣しておった。いつもひとりで来ていた。お付きの者もなく、
2022年5月11日 16:53
第十一話「看病する亡霊」 予は本草学者の佐藤成裕。本草学とは漢方薬を研究する学問のことである。本草研究のために各地を歩いて、その時に聞いた話を『中陵漫録』と言う随筆に書いている。 さて、岡山の笠岡から北へ四里ばかりの所に荏原村がある。薬草の研究のためこの地を訪れた時、奇妙な噂を耳にした。 幽霊が病人の看病をしたと言うのである。 村に嘉右衛門と言う男が住んでいた。彼の妻は流行り病ですでに
2022年5月8日 14:31
第十話「雪隠の疫病神」 ここに不運で哀れな男がいた。 時は延宝(1672)、天下分け目の関ヶ原から七十年ほど過ぎた頃のこと。 不運な男は名を、御厨松之助と申した。立派なサムライではあったが、いわゆる勇猛果敢な性格には、ほど遠かった。小さなことに怯えては騒ぎ立てる弱腰に、同僚たちも閉口していた。軟弱な心の持ち主であり、まわりからは軽く見られていた。不運と言ったのはそれだけではなかった。何を
2022年5月2日 20:52
第九話「先夫の死霊が」 拙者は鈴木桃野と申す儒学者。儒学と申すは、孔子にはじまる古来の政治・道徳の学びのことである。世の中に少しは名を知られておるが、儒学とは関係のない『反古のうらがき』と申す本に不可思議なることを書き記して、世の不思議を知ることやや度々となりぬ。 さて、今回は、友人の斎藤朴園の奇妙な体験について少し語ろう。 ある時、朴園に後添えの妻が来ることとなった。一昨年の流行り病で
2022年4月28日 15:00
第八話「失われた日々」 近江八幡は、滋賀でも華やかな町であった。宝暦(1750)の頃、この町に松前屋市兵衛と言う徳のある商人が住んでいた。 妻を迎えてしばらく経ったある日のこと、どこへ行ったものであろうか? 突然、市兵衛の行方が分からなくなった。家中の者が嘆き悲しんで、金を惜しまず方々を探し歩いたが、その行方は杳として知れなかった。他に商売を継ぐ者もなかった。かの妻も、元々一族から迎えた者
2022年4月24日 18:09
第七話「疫病神を退散」 天保八年(1839年)二月下旬のことであった。その日、予・宮川政運の次女の乳母をしている者が、俄かに高熱が出て、夜具を引きかぶって寝てしまった。病に苦しんでいる様子であった。家の者も心配してあれやこれや手を尽くしたが、回復する兆しはみられなかった。乳母は名を〈お伝〉と申し、まだ若かったが、子供の頃から当家に仕えていた。 翌朝、少し持ち直して乳母のお伝が、「さても
2022年4月20日 15:59
第六話「幽霊なきとも」 予、根岸鎮衛の元を時々訪れる友人に、栗原幸十郎と申す浪人がおった。彼は小日向に住んでいた。時々、予の屋敷を訪れては、様々なことを話してくれた。 だが、そんな時も、「お奉行様は、よく幽霊などのことを書かれておられるようでござりまするが、それがしは信じてござらん」 と、笑っていた。 幸十郎は浪人の身分ではあったが、近隣の旗本の屋敷へ出入りし、「中でも、ひときわ懇
2022年4月17日 10:14
第五話「犬を恐れる男」 予・宮川政運の父がまだ若かった頃、江戸の本所石原町に播磨屋惣七と言う人足の世話人が住んでいた。これはその男から聞いた体験談である。 晴れた秋の日のこと。そろそろ紅葉が色づいて、落ち葉も舞う季節。惣七たち数名が両国からの帰り道に、ひとりの男が近寄って来たと言う。「どこへ参られまするや?」 声をかけたのは痩せた貧相な男であった。顔は嫌な感じであったが、着物は新品のよう
2022年3月13日 15:44
一 延宝六年(1678)、時代は徳川様に代わって七十年ほどが過ぎた。ある春の敦賀での出来事であった。 旅籠の主人・七右衛門が大袈裟に語りはじめた。「ここは古くからある町で、まだ海の向こうに新羅の国があった古代のこと、王子・ツヌガアラシトがこの地を訪れたことから、この土地を敦賀と呼ぶように……」 五人の旅人が宿に泊まっていた。気比神社の参詣なのか、貞吉は他の者の理由を知らなかった。
2022年3月6日 16:32
一 その昔、江戸は亀戸に松五郎と言う男が住んでいた。仕事は貧しい版木彫りであった。版木彫りとは、浮世絵などの元版を彫る仕事のことである。 体は丈夫で、それだけが取り柄であった。親もすでに亡くなってひとりぼっちの松五郎は、苦労してようやく美しい妻に巡り会い、仲睦まじい日々を過ごしていた。長屋の片隅に居を構え、狭いながらも楽しいわが家。幸福な日々を過ごしていた。 妻の名は〈お鈴〉と申し、や
2022年2月27日 17:10
一 延宝五年(1677)の七月のこと、——七條ケ原あたりに、誰とも知れぬ死人の塚があって幽霊が出る……。 と噂が広まった。毎晩、人魂が漂っては、すすり泣く女の声が響くと言う。特に雨のシトシト降る夜は、人魂がゆらゆらして、怖ろしさ満点であった。 友人からまた聞きした者の話によると、「人恋しや。人恋しや……と、確かに聞こえたんや」 真実かどうかは分からなかった。悲しげな声は凄まじく、
2022年2月20日 15:05
一 延宝年間(1674)のことであった。播磨の国・佐用村に、イトと言う独り身の年増の悪女が住んでいた。家は貧しく、朝夕の飯炊きの煙も立ちかねる暮らしであった。イトは身を寄せる知り合いもなく、侘しい日々を送っていた。 村人を見ては、「アホンダラめ。今に見とれ……」 と、悪態をつきながらも、——いつか飢えたとしても、食事をくれるヤツすらおらん。 と、心の内で思い悩む日々であった。