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御伽怪談短編集・第八話「失われた日々」

 第八話「失われた日々」

 近江八幡は、滋賀でも華やかな町であった。宝暦(1750)の頃、この町に松前屋市兵衛と言う徳のある商人が住んでいた。
 妻を迎えてしばらく経ったある日のこと、どこへ行ったものであろうか? 突然、市兵衛の行方が分からなくなった。家中の者が嘆き悲しんで、金を惜しまず方々を探し歩いたが、その行方はようとして知れなかった。他に商売を継ぐ者もなかった。かの妻も、元々一族から迎えた者であったので、他より新たに夫を迎え、商売を継がせることとなった。そして、行方不明となった日を〈命日〉と思い、葬うこととなった。

 彼のいなくなった日は、夜に、
「厠に行く」
 とだけ言って、下女に明かりを持たせて連れて行った。厠の外で下女が灯し火を持って控えていたそうである。いつまで待っても厠から帰って来ないので、妻女は、
——あの下女と夫は……。
 と疑って厠に行ったが、下女は戸の外にいた。
 妻女が、
「なんと厠の長いこと」
 と表より問いかけたが、いっこうに答えは得られなかった。不審に思い戸を開けて見ると、どこへ行ったものか、すでにそこにはいなかった。
 妻女は、下女を疑い、
「主人の行き先を隠しておるのでは?」
 と、きびしく問い詰めたが、何も知らない下女は困り果てたと言う。まったく消えたとしか言いようもなかった。

 それから二十年ほど過ぎたある日のことである。主人が消えた厠から、
「誰ぞ、おらんのか?」
 と、人を呼ぶ声がした。何人かが厠へ行くと、見知らぬ男が廊下に立ちすくんでいた。
 番頭が、
「あなたさまは、いったい、どちらさまで?」
 と首を傾げると、
「どちらさまとな? ワシのことが分からんのか?」
 と不審な顔をした。
 男の顔をつくづく眺めた番頭は、思わず叫んだ。
「あっ、旦那さま……」
 妻女も驚いた。良く見ると……彼は歳は取っていたが、当家の主人・市兵衛に相違なかった。行方不明になった筈の市兵衛が、厠の前に立ちすくんでいた。それも、行方不明になったあの日と同じ衣服であった。家の人々は驚いて彼を恐れもした。
 番頭が、
「今まで、どこにござったか?」
 と、語りかけたが、しっかりとした答えもなく、ただ、
「腹が減った」
 と言うだけであった。
 しかたなく、慌てて食べ物を見つくろった。
 市兵衛が座敷に座ってしばらくした時のことである。突然、着ていた着物がすべて、音を立てて散ってしまった。体に巻いていた布と言う布が、いきなり灰塵かいじんと化してしまったのである。彼は、その場に裸になって倒れ込んでしまった。家人は慌てて着物を与え、気付けなどの薬も与えた。
 市兵衛の意識がしっかりしてきたようなので、改めて色々と尋ねたが、何を聞いても覚えている風はなく、この二十年間、いったいどこにいたのやら。何だか呆けているようでもあった。長い闘病生活を終えたのか、あるいは痛む所を治療した後のような、元気のない様子であった。
 予の元へいつも来る眼科医が、近江八幡の者であったので、目の当たりにした出来事を語って聞かせてくれた。
 さて、市兵衛の妻君と後の夫がそれらのことを語り終えると、
「おかしなつき合いになったものだ」
 と笑ったと言う。

 何年も経ってから、昔のままの服装で帰って来た人の話は時々ある。この物語は最長くらいでは? と思う。
 もっと短い期間で帰って来る場合は、歳を取っていないようだ。もっと長い期間……例えば、五十年くらいして帰って来ても、知っている人が亡くなっている場合がほとんどだから、帰って来た人が歳を取っているかどうかは分からない。
 神隠しの間どこへ行くのかは人によって様々である。天狗の世界と言われる場所もある。
 しかし、一番多いのは……今も昔も、
「探さないでください」
 と言い残して、どこに行ったのか語らない場合である。その他にたまにあるのは、時間の壁を超えて未来に行く場合だ。この場合は、数日か、数ヶ月先の未来に、一瞬で移動する。本人は、一瞬のことなので、どうなったのか分かっていない。時間が経ったことも、まわりの人々から言われてはじめて気付くようだが……。『耳嚢』より。〈了〉

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