合唱の名曲「大地讃頌」が意味するもの
「大地讃頌(だいちさんしょう)」という合唱曲がある。
「音楽の授業で歌ったことがある」
という方も多いのではないだろうか。合唱曲としては認知度がとても高いと思われる作品である。
わたしもこの曲が大好きである。
大きなものフワッと包み込まれるようなゆったりしたテンポ。「われら人の子の」ところでは、男声と女声がそれぞれの特性を生かして異なる詩と旋律を歌う憎い表現。そしてフィナーレへの盛り上がりはこれまでため込んできたエネルギーを「さあ爆発させろ」というかのよう。そして歌い切った時の爽快感はたまらない。
佐藤眞の音楽もそうだが、「母なる大地、平和な大地、静かな大地をほめよ、たたえよ」という、当たり前の何気ないことではあるが「そうだよね、その通りだよね」と思いつかせる大木惇夫の愛に満ちた壮大な詩。
双方が織りなした間違いなく感動的な名曲である。
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わたしは中学生の時、クラス対抗の合唱コンクールでこの作品に出会った。社会人になるまで合唱を続けていたが、最初に合唱にのめり込むきっかけ。それはこの「大地讃頌」という曲に出会ったからだと思っている。
この曲は歌いたい曲のナンバーワン。とにかく歌う機会をあれこれ見つけていたように思う。
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楽譜には、「大地讃頌」というタイトルの上に
“混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」より”
と書かれている。
初めて出会った時は「土の歌」という作品のうちの一曲なんだ、という程度の認識で「土の歌」の部分を気にしたことは全く無かった。
が、しばらくして「土の歌」の全曲を音楽の授業で聴く機会があった。
強い衝撃を受けた。
それは「大地讃頌」を
「ああ、いい曲だなぁ」
という思いだけで歌うことはできない
と思ったからである。
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大木惇夫による、7つの詩に佐藤眞が作曲した「土の歌」。
耕し種をまくと、花咲き実る土の不思議さを思う、第1楽章「農夫と土」。尊い土を大切に護っていこうという第2楽章「祖国の土」。
しかし
第3楽章は「死の灰」というタイトルになり様子が変わる。原爆を作り投下した人の愚かさを嘆く。
第4楽章「もぐらもち」は土の中で暮らすもぐらを笑う人間に対し、原爆に恐れ、結局土にかえっていく人間を笑ってやれというコミカルなもの。
第5楽章「天地の怒り」は大地が持つ自然の力への警告。
第6楽章は「地上の祈り」。美しい大地を思い、戦争という狂気を無くすための祈り。
それに続くのが第7楽章「大地讃頌」である。
「大地讃頌」の前にたどり着くまでの過程は、生きるための源を称えるとともに、人間が犯した歴史の汚点と再びその過ちを起こさないという思いを強くするもの。
「母なる大地をたたえよ ほめよ たたえよ土を」
最終楽章で、なぜこう歌うのか?という意味。それは「土の歌」すべてを知っていることと、知らないことではまったく異なってくるはずである。
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大木惇夫は広島で生まれた。詩人として活躍するが戦争がはじまると軍の宣伝担当として戦地へも赴き、愛国的な作品で人気を博した。広島には原爆が投下されるが福島へ疎開をしており、そこで故郷に原爆が投下されたことを知る。戦後は戦争中の活動により文壇からは疎外される状態になる。
愛国的作品から一転、反戦や特に原爆のことを書いたのは、故郷広島が受けた想像を絶する大きな被害にショックを受けたからであるのは疑いようがない。
大木の疎開先は福島県浪江町。東日本大震災による福島第一原発からの放射能漏れで避難地域になった町である。偶然ではあるが大木の暮らした二つの街には共通点があった。
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「大地讃頌」
いったい何度歌ったのだろう。「土の歌」全曲を歌った機会は残念ながらないのだが、第7楽章だけを歌うときも第1楽章から第6楽章までのことを思って歌っていた。
今はもう、歌うことは無くなってしまったが、8月になると「土の歌」を全曲聴く。
やはり「大地讃頌」は間違いない名曲だと思う。
でも、全曲を通して聴いてみて、この大きな愛にあふれた「大地讃頌」のすばらしさ、本来の意味を再認識するのである。
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なかなかオーケストラ付きで全曲が生演奏される機会はないが、一度聴く機会があった。ピアノ伴奏とはその表現の大きさが全く比較にならないほど素晴らしかった「大地讃頌」。思わず口ずさみそうになってしまったが。
ぜひ、一度、全曲を通して聴いていただきたい作品である。
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「三原室内管弦楽団 第37回定期演奏会」
尾道市民合唱団、三原市民合唱団 他、近隣の合唱団の皆さま
指揮:増田洋一
(三原市芸術文化センター ポポロ)
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