『WE ARE LITTLE ZOMBIES』映画評・人生ってクソゲーなのかな?
こんにちは。ササクマと申します。趣味で映画評を書く者です。お金ください。仕事はいらないです。
いつもはアニメ映画を専門としているのですが、今回は2019年公開の邦画『WE ARE LITTLE ZOMBIES』評をnoteに投稿します。
なぜ、アニメ映画以外を取り上げるのか?
前回の映画評『若おかみは小学生!』を書いて気づいたのですが、両作とも主人公の境遇が似通っているんですね。置かれた環境は異なりながらも、それぞれのアプローチで最終地点へ到達するのが面白いと思ったので、映画評として『WE ARE LITTLE ZOMBIES』を取り上げます。
この映画評自体は過去に書いたものです。時系列がややこしいので、多少の加筆修正はしてあります。映画と小説の記憶がごっちゃになってますが、あまり気にしないように。すみません。BD買います。
今以上に拙い文章ですが、どうか生ぬるい目で見守ってください。ちなみに、次回は『JOKER』評を予定しています。では、どうぞ。
◯本文
『WE ARE LITTLE ZOMBIES』を観ました。
有名なゾンビ映画と言えば、以下の作品でしょうか?
●ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(ロメロ版)
●ゾンビ
●死霊のえじき(完全版)
●サンゲリア
●バタリアン
●デモンズ
●ブレインデッド(ピーター・ジャクソン)
●28日後…
●ドーン・オブ・ザ・デッド
●ショーン・オブ・ザ・デッド
●REC
●ゾンビランド
これらの作品を通らなければ、ゾンビ映画は語れません。
初心者の方には敷居が高いかもしれませんが、あまり身構えずとも大丈夫。
なぜなら、『WE ARE LITTLE ZOMBIES』はホラー映画じゃないからでーす。
ちなみに僕はホラー映画が大の苦手で、上記の中だとRECしか観たことがありません。おかげで暗闇恐怖症になり、夜一人でトイレに行けなくなりました。
で、『WE ARE LITTLE ZOMBIES』は何映画なのか?
……何でしょうね? 音楽映画、と呼べるほどバンド演奏してません。青春映画、と呼べるほど甘酸っぱい物語でもありません。言うなれば、冒険映画に近いものだと思います。そう、超音楽的青春RPGムービーです! 何それ?
【あらすじ】
両親を亡くした4人の13歳が、火葬場で偶然に出会う。
ヒカリ。イシ。タケムラ。イクコ。3人の少年と1人の少女。
彼らは悲しいはずなのに、泣けなかったことで意気投合する。
心を無くし、居場所も無い彼らは、目的も無く放浪するしかなかった。
「つーか私たちゾンビだし、何やったっていいんだよね」
やがて4人は、ゴミ処理場の片隅でバンドを結成する。
その名も“LITTLE ZOMBIES”。
バンドの演奏動画がSNSで拡散され、音楽事務所からデビューすることに。
社会現象となった彼らのバンドは、予想もしない運命に翻弄されていく。
■監督は長久允さん。
1984年生まれ、東京都出身。大手広告代理店の株式会社電通にて、CMプランナーとして働く傍ら、映画やMVなどを監督。
今作の主人公ヒカリのモデルは、長久監督自身です。長久監督も幼い頃、親が共働きで朝から晩まで帰ってこなかったため、一人でゲームをして遊んでいたとのこと。
家庭や学校に現実味を感じず、映画や漫画などの物語にライブ感を抱いたそうです。また「ライブ・ア・ライブ」を一番好きなゲームとして挙げており、その影響が映画にも詰まっています。
前作の短編映画『そうして私たちはプールに金魚を、』は、第33回サンダンス映画祭ショートフィルム部門のグランプリを受賞しました。『WE ARE LITTLE ZOMBIES』の公式HP、NEWS欄に動画のリンクがあります。無料ですので、ぜひとも視聴してみてください。
どうでもいいですが、このURLを踏んだ先がエロサイトだったら面白いのにな、とか思いながら僕はリンクを貼り付けています。ご注意を。そんなことしませんけど。
前作の「金魚」は実話を原案にしています。2012年の夏、埼玉県狭山市にある中学校のプールに400匹の金魚が放たれました。犯人は4人の女子中学生であり、犯行の理由を「キレイだと思って」と供述しています。
普通の大人なら不可解な言動に眉をしかめるところ、長久監督は彼女たちの主観に着目します。その裏に何か複雑なものがあったはずだと考え、女子中学生の一人を主役とし、彼女の主観から世界を覗き込みます。
そして田舎で暮らす閉塞感と、田舎で暮らすしかない若者たちの鬱屈とした、言葉では表現し切れない想いを映像にしました。
今作の「ゾンビーズ」では監督紹介で述べた通り、ヒカリのモデルは長久監督自身です。長久監督の純度100%の主観が映画になっています。自分と同じように両親が帰ってこなくても、寂しくないし悲しいとも思わない、そんな子どもが集まったらどうなるのか? という仮定が出発点です。
監督自身の主観を通して、何を人々に伝えたいのでしょうか? そのことは田中泰延さんとの対談で語っており、自己の経験から得たメッセージが込められています。
「人間は社会の承認を得ずとも、誰かに何かを言われたり命令されなくても良くて、そんな優劣をつけるべきではない」
今作の物語は、“青いクジラ”というロシアで起きた集団自殺の事件をモチーフとしています。これは首謀者がショッキングなゲームを仕掛け、若者たちを自殺コミュニティに導く社会問題の総称です。
首謀者は逮捕されましたが、130人もの若者が命を落としたとのこと。この事件を知った長久監督は、子どもが絶望しない物語を作りたいと思いました。
しかし本作は、死を悲観的な概念から切り離し、むしろユーモアたっぷりに描いています。
冒頭から「今日、パパとママは粉になった。パスタにかけたら美味しくいただけちゃうくらい粉になった」というヒカリのナレーションから始まり、第35回サンダンス映画祭でブラックエンタメとして受け入れられ、審査員特別賞・オリジナリティ賞に輝きました。
一方では「哲学思想を内包した文芸芸術」と評され、 第69回ベルリン国際映画祭ジェネレーション部門準グランプリを受賞しました。
ブラックジョークを楽しんだり、高尚な芸術的作品と捉えたり、はたまた不謹慎にも思えてしまえるほど、見る人によって見え方が変わってしまう映画です。
テーマである「生と死」を、どのようにして考えるのか? ヒカリの場合は死に対する実感の無い嘘臭さが、現実の生に対する虚無感と繋がっています。
そんな主人公たちの人格が、どういった過程で形成されていったのでしょうか? 本作では一人一人に焦点を当てながら、回想を挟みつつ物語が進行していきます。
この映画評ではヒカリだけの人物紹介をしていきながら、彼から見た世界を考察したいと思います。ネタバレ全開です。セリフはうろ覚えです。劇場では現金しか取り扱っておらず、パンフしか買えませんでした。誰か金ください。
【ヒカリ】
・パパが広告代理店で、ママが新聞記者の仕事人間。いつも一人で家の留守番をし、ゲームをして遊んでいた彼は、親から愛情を受けていると感じないまま育つ。
・いつものようにゲームをしていると、バス事故のニュースがテレビ画面に映る。両親が亡くなった知らせを聞いても、ショックというより驚きの方が先に来る。
・遺体安置所へ。顔の白い布を取る際、バエティ番組のドッキリ大成功を想像してしまう。そんなことが起こるはずもなく、静かにママの顔を触る。すごい冷たい。でも温かさも知らなかった。
・葬式が執り行われる。悲しむ大人たちと、大げさに泣きじゃくる叔母。自分も悲しいはずなのに、どうしてか涙が出ない。
・通夜。食べ物で遊ぶ子どもたち。葬式の静けさとは一転して、賑やかな大人たち。誰もヒカリに話しかけようとしない。人生で一番まずい飲み物は、葬式のオレンジジュースに決定!
・告別式。すっごい退屈。棺桶を霊柩車に運ぼうとすると、あんたは子どもだから手伝わなくていいと叔母に言われる。こんな日に限って天気が良い。
・火葬場へ。職員から後がつかえていると遠慮気味に言われる。ヒカリは「繁盛してるんですね」と皮肉めいて返すと、そんなことありませんよと愛想笑いで流される。死に対して鈍感。
・それと同じ頃、イシは弁当を食べても味がしないことに気づく。
・タケムラは香典を奪いに来た借金取りに、台車を投げつけていた。
・イクコは火葬場の煙突を見上げ、清掃員に話しかける。
イクコ「すみませーん。あの煙って、私のママですかね?」
清掃員「さぁ? ただの煙じゃないですか?」
イクコ「それはわかってるんですけど、うちのママを焼いたときのかなーって」
清掃員「同時に焼いちゃうんで、混ざってるかと。ま、でも煙なんでただの」
イクコ「ですよねー」
・ヒカリの両親を火葬する直前、職員から「最後のお別れです。何か言い残したことはございませんか?」と聞かれる。叔母はヒカリに確認するが、ヒカリは特に何も無いですと断る。
・火葬場のロビーにて、ヒカリは叔母から説教される。どうしてそんなに無感情なの!? 両親が死んで何とも思わないの!? また、ヒカリのことは自分が引き取ると告げられる。
・全てが嫌になったヒカリは、憂鬱なまま気分転換に外へ出る。そして3人と出会う。
イクコ「あんた泣いてんの?」
ヒカリ「は? 泣いてませんけど」
・両親を亡くしたばかりで、しかも泣けない4人は意気投合する。
イクコ「ねぇ、誰のお葬式?」
ヒカリ「パパと……ママ」
タケムラ「うそ、俺も」
イクコ「私も一緒だ」
イシ「え、ぼ、僕も」
イクコ「あ!……てかさ、さっきママって呼んでた?」
ヒカリ「呼んでないよ」
イシ「呼んでた〜」
イクコ「マザコン」
ヒカリ「マザコンじゃねーよ」
タケムラ「うわー、マザコン」
イクコ「でもさ、そんなこと言って、自分もママとか呼んでるパターンあるよね」
ヒカリ「あるある〜」
タケムラ「呼んでねぇよ! ママに聞いてみろよ」
イクコ「死んでんじゃん」
イシ「聞けね〜〜」
タケムラ「じゃあさ、パパに聞いてみろよ!」
ヒカリ「……って、パパも死んでる〜〜」
イクコ「今、わざと言った?
タケムラ「一番ユーモアが必要なのは、葬式の日でしょ」
イシ「たしかに〜〜」
イクコ「はいはい……じゃ私、行くわ。帰んなきゃ……親んとこ……」
全員『両親死んでる~~っ!!』
・居場所の無い4人はヒカリの家を目的地とし、まるでRPGでパーティを組んだかのように一列となって歩き始める。歩き方は少し異なりながらも、行き先は同じという安心感があり、これから冒険が始まるワクワク感もあった。
・ヒカリの家に着く。大量のゲーム機。欲しい物は何でも買ってもらえる方針だった。テンションが上がるイシと、タケムラが羨む一方、なぜかイクコは勝手に臍の緒を取り出す。
ヒカリ「臍の緒が首に絡まる難産だったらしいです」
イクコ「そう、生きててよかったね。いや、死んでたらよかったね」
・突然、なぜか塾に行こうとするヒカリ。
タケムラ「こんな時にまで塾に行くのかよ?」
ヒカリ「冷凍庫にパスタあるんで、それ食べててください」
・塾に行くと講師に説教される。
講師「なんで三日間も休んでたんだ?」
ヒカリ「両親が死にまして……」
講師「そんなわけあるか! やる気が無いなら帰れ! って、本当に帰るのか? ここで遅れてる間にもなぁ、他の奴らはドンドン先に進んで行くぞ! おい!」
・ヒカリの回想。教室の掃除用具入れに閉じ込められている。また掃除用具入れごと、クラスの男子生徒に外へ引きずられる。まるで棺桶みたいだと自嘲気味に笑う。
・学級崩壊したクラス。後ろの掲示板には夢や希望と書かれた習字が貼り出されている。授業をボイコットされた担任は、一人だけ残ったヒカリに話しかける。
担任「ヒカリ君も、みんなと同じようにすれば、いじめられないで済むのに」
ヒカリ「別にいいです」
担任「そう。ヒカリ君は優しすぎるのね」
ヒカリ「現実を見下しているだけです」
・一方、タケムラは冷凍庫のパスタをレンジでチンして食べていた。
タケムラ「あいつ、こんなまずいもんばっか食ってたのかよ」
イシ「僕にも食べさせて。やっぱ味しないや」
・ヒカリが家に戻ると、なぜか3人は外にいた。家に来た叔母さんに締め出されたとのこと。家に忘れ物をしたヒカリは、叔母に見つからないようにポケットゲームと、ペットのベタ(魚の品種)を取って戻って来る。そしてベタを川に放流した。
イクコ「あーあ。ママに買ってもらった思い出の魚なんじゃないの?」
ヒカリ「いいんです。ベタも狭いコップの中にいるより、広い川で自由に泳いだ方がマシですから」
以上、ヒカリが両親を亡くしてからの三日間です。いかがでしたでしょうか? この後でヒカリほどではないにしろ、他3人のエピソードも重厚に語られます。人物の主観が見たい、長久監督の面目躍如と言えましょう。
この三日間だけでも、ヒカリの中で欠落している現実感と、生きているという実感の補い方が垣間見えます。
〇無気力
まず中学生というのは、子どもでもあるし、大人でもある年齢です。大人の建前を読み取るだけの知慮は備わっています。
しかし、大人の無責任さを受容できるだけの、成熟し切った精神は持ち合わせていません。だからこそ、嘘臭さを嫌悪します。この嘘臭さこそが、ヒカリから世界のリアリティを奪った元凶です。
親から愛情を受けていると感じないまま育ったヒカリは、周囲の大人たちのことも信用していません。葬式で涙を流して悲しんだり、慰めたりする大人の体裁を見抜いておきながら、現実処理の方法は充分に会得できていない状態です。
また、自分が自分であるという基盤を持たないため、自己の存在感が希薄になっています。だから、どうしていいか分からない。自分がどうしたいのかも分からない。
しかも、ヒカリは子どもの純粋さが好きではありません。ここが「ライ麦畑でつかまえて」のような、従来の青春物語とは異なる点です。例えば、両親の遺体を火葬して黙祷する間、親戚の親子の会話が聞こえてしまう印象的なシーンがあります。
子「あの中で何をやってるの?」
母「遺体を燃やしてるのよ」
子「へー。カムチャッカより熱い?」
母「え? カムチャッカって何?」
子「世界で一番熱いところ」
母「そうね、カムチャッカより熱いかな。でも死んでるし、熱いとか感じないから大丈夫」
子「じゃあ、良かったね、死んで」
大人のように感情表現を取り繕うのは嘘っぽいし、子どものような純粋すぎる感情を表に出すのも馬鹿らしい。子どもの夢と、大人の現実との境で葛藤しないヒカリは、ただ無気力に生きています。
本来であれば生きている感覚も麻痺するはずですが、そのリアリティはゲームで補われていました。ヒカリのモデルである長久監督自身、ゲームを通して日々のライブ感を得ています。
ちなみにヒカリ以外の3人も、生きている感覚を何かしらの方法で補っています。それぞれ異なる家庭環境でありながら、同じような境遇に陥り、同じような感覚を持ち合わせているのは面白いです。ついでに載せてきましょう。あとで伏線になるかも分からんし。
【イシ】
・イシの家へ向かう。だが、イシの家はガス爆発で焼失していた。
・回想。学校から帰り、母の作った青椒肉絲を食べてから、空手道場に行くのが日課だった。
・しかし、この日は「タコの知能は三歳児」と歌う酔っ払いに店で絡まれる。
・空手を辞めたいと父に相談する。タバコを吸う父は、自分で決められるのは強い人間だと言う。そして自虐的に、自分は弱い人間だと、何も自分で決めなかったと言う。
・今の店も夜逃げした兄から引き継いだもので、今の妻も妊娠したから結婚しただけ。
・そんな父の話を聞いたイシは、再び空手道場へ通う。胴着から着替える最中、同世代の子にブリーフを笑われる。
・その帰り道、夕日が綺麗だった。って、夕方ちゃうやん! 家が燃えている。
イシ「なんで両親が死ななきゃならなかったんですか? 死んでいい人って他にいると思うんですけど。あの酔っ払いとか、僕とか」
・それ以来、何を食べても味がしない。でも、食べ物は食べる。だってお腹が空くから。
・火事の跡地で中華鍋を発見する。
【タケムラ】
・タケムラの家へ向かう。途中、コンビニで万引きをし、スリルを味わう。
「これオーパーツじゃん全部」「いらねー」
・タケムラの学校の前を通る。死因で山手線ゲームをする。
「死因ゲーム!」「いぇーい!」
・家に着く。玄関前にある自転車に、ベンツのエンブレムが付いている。
イシ「車はいらないけど、このエンブレムだけは欲しい!」
・タケムラの回想。自転車で家に帰ると、母の顔に殴られた痣がある。母は家計簿をつけ、弟は宿題をし、妹は赤いスライムで遊んでいる。
・父に文句を言うが、ボコボコに殴られて返り討ちにあう。そこへストリートファイターの演出。
「イタイカ? コレガ オレノ アイジョウヒョウゲンダ。・・・アイハ マッカナ チノイロナノサ」
父「お金は幸せになるためにあるものだと思ってたんだけどな」
・仕事場でバンドの練習をする兄。ずっと愛だなんだのと喚き散らしている。
・タケムラはコードをアンプから引き抜き、俺の方がベースが上手いと挑発する。そしたら兄から思い切り殴られた。
兄「死ね! あ、死ねは言いすぎか」
・台所から戻ったタケムラは牛乳を飲む。口元の傷から出る血の味と、牛乳が口の中で混ざる。
タケムラ「ピンクとかさ、だっさいよね」
・久しぶりに家に戻ったタケムラは、冷蔵庫にあった牛乳を飲む。腐っていたので吐き捨てる。
・両親は借金を苦に、仕事場で首吊り自殺をしていた。
・借金取りが来たので逃げる。ついでにメルセデス自転車を河原に乗り捨てる。
【イクコ】
・イクコの回想。天才スケーターボーイが、取材に対して友達はいらないと答える。
・それを見ていたイクコと両親。土手を歩きながら、イクコのいじめの話になる。
・否定するイクコ。パパは娘がいじめられてないことに安心する。
パパ「そういうもんだよ、親ってさ」
・ピアノ教室でクラシックを習うイクコ。ロリコン講師から、何か一つだけお願いを叶えると言われる。イクコが何を願ったかは、自主規制のピー音が入り聞こえない。
・自宅で、パパから結婚してほしいと言われる。イクコは薬指が無いから無理と答える。
・ママから貴方は無差別に愛を振りまくと言われる。イクコは顔の半分だけメイクされる。
・家に帰る途中の階段でロリコン講師とすれ違う。両親は変質者により殺害されていた。
・イクコの家は警察の捜査により、立ち入り禁止となっていた。
・バッティングセンターで遊んでいた最中、ロリコン講師からラブコールが鳴る。
タケムラ「愛って概念、西洋のものなんだって」
・スマホごとバットで打ち壊し、全員でバッティングセンター内を走り回った。
・イクコのピアノがトラックで運ばれる場面を目撃する。隙を見てトラックの中に侵入し、ピアノを演奏する。運転手に見つかって逃げる。
やがて彼らは心を取り戻すため、音楽バンド“LITTLE ZOMBIES”を結成します。
〇仲間
僕から言わせてもらえば、バンドを結成してMVを撮影した時点で物語は終わっています。なぜなら、もう心は取り戻したからです。と言うか、元から心はありました。ただ感情の出し方が分からなかっただけです。
それを裏付けるシーンがあります。バンド結成前、居場所のない4人は仕方なくラブホに泊まりました。その夜にヒカリは両親の夢を見ます。ママはヒカリが眠っていると思い、暗い寝室の扉を少し開け、その隙間から離婚することを告げていました。
ママ「どっちに付いて行きたい? ママは一人になりたいかなぁ。どうせ聞こえてないよね」
一方、パパは昼間の明るい窓際で、足の爪を切りながら語ります。パパは会社内で部下に慕われており、その様子の写真が何枚かスライドショーで流れます。
パパ「愛はお金みたいなもんでさ、いろんな人に配れるし」
両親は離婚について話し合うため、いちご狩りバスツアーに出かけます。
ママ「一人でも大丈夫よね?」
大丈夫と答えた瞬間、両親は目の前から消えていました。そこでヒカリは目を覚まします。自然と目から涙が流れていました。
イシ、タケムラ、イクコと出会えたことで、ヒカリは自分の存在を認識します。他者から承認されることで、ようやく本当の意味で両親が死んだことを自覚できました。自然と目から涙が溢れていたところをイクコに見られ、ヒカリは照れ隠しに慌てて言い訳します。
ヒカリ「デフォルトで孤独だから、悲しいとか存在しない感情」
イクコ「ごめん、聞こえなかった」
イクコはクールでありながら、本当のことしか言いません。タケムラも言いたいことは率直に言いますし、イシは自分を偽ったりはしません。ヒカリは仲間とのコミュニケーションを重ねていくことで、芽生えたばかりのアイデンティティを少しずつ確立していきます。
こんな仲間ができた時点で、ヒカリは救われていると思いませんか? あくまでバンドは、感情を出すための手段です。
ヒカリが実は救われていたと仮定するのなら、そのモデルである長久監督自身も救われていることになります。
僕は映画評で度々、「優れた物語は99%の現実と、1%の不思議で構成されている」という言葉を引用しました。
また、その不思議は創作者の願いでもあると書きました。不条理な現実を超えたいがために、たった一度きりの人生に対する反抗として制作を行う。
あの頃の自分に“LITTLE ZOMBIES”みたいな仲間がいればなぁ……と願うのは長久監督だけじゃありません。僕もそうですし、誰だって願うのは当然でしょう。そこが出発点だったわけですから、この物語の不思議はバンド演奏できる仲間の存在です。
しかし、“LITTLE ZOMBIES”はバンド活動で現実を超えていません。むしろ現実に打ちのめされます。
僕の狭い人生経験の範囲で申し訳ないですけれど、現実では境遇や感覚が似た子どもたちは4人も集まりません。誤解を恐れずに書くのなら、ヒカリは虚構で救われたことになります。
嘘臭い物語では“青いクジラ”で命を落とすような、現実の子どもたちは救えません。なので物語の続きはヒカリから、望月という青年に主観が移行します。
【望月】
望月は“LITTLE ZOMBIES”のマネージャーです。警備員のアルバイトか何かをしていたのか、ゴミ処理場で偶然にもヒカリたちと出会い、スマホ撮影でMVのカメラマンを任されます。
その動画をネットに投稿するやいなや、瞬く間に拡散されて社会現象となり、バンドは音楽事務所からデビューすることになります。
僕は最初、望月はセックス・ピストルズの仕掛け人である、マルコム・マクラーレンのような人物ではないかと危惧していました。実際、メンバー全員が両親を亡くしていることに目をつけ、いかにもセンセーショナルな売り出し方をしています。このままではヒカリたちも大人に利用され、いいように大衆から消費されてしまうことでしょう。
しかし、違いました。望月は子どもの夢と、大人の現実との境で葛藤する青年でした。ヒカリたちの感情を出すというバンドの目的を汲み取りながら、活動が成功するよう大人たちに魅力をプレゼンします。
望月「いつだって時代は子どもが変えるんですよ! キッズ・アー・オールライトですよ!」
望月の立場は子どもと大人を繋ぐ、架け橋のような役割として機能しています。なぜ、そのような根拠が言えるのか。それは仕事の休憩時間にて、望月が取材のカメラマンと会話したシーンにあります。
カメラ「あんな子どもたち、一体どこから発掘してきたの?」
望月「ゴミ処理場から拾ってきたんですよ」
カメラ「へぇー。じゃ、リサイクルってわけだ」
望月「いやいやいや、ゴミは俺ですよ(笑)」
この会話を聞いた時、僕はもう望月が愛おしくてたまりませんでした。彼がゾンビーズのメンバーと関わる描写は少ないのですが、それだけでも面倒見の良さが伺えます。ヒカリたちと同じ目線に立ち、一緒に何かを感じ取ろうとしていました。
しかし、望月も完璧ではありません。ゾンビーズの活動が順調な中、彼は少しずつ大人側の商業主義に傾いていきます。
ツアーの最終地をヒカリの両親の事故現場にしたり、ファーストアルバムのタイトルを「殺したのは誰だ?」にしたり、ゾンビーズの目的を逆手に取った企画作りに盲進します。
元から小狡いところはありましたが、仕事で大人社会に入り浸っていた影響を受け、知らず識らずの内に狡猾な現実処理の方法を会得していました。
とはいえ、話題性だけを狙ったバンド活動は、とあるニュースをきっかけに破滅へと向かってしまいます。バンドをプロデュースしていた大人たちは誰も責任を取らず、結果的に“LITTLE ZOMBIES”は解散するしかありませんでした。
ゾンビーズ解散ライブの夜、会場のゴミ捨て場に来た望月は怒りを発散します。ゴミ袋を投げつけ、殴りつけ、蹴り飛ばすなど、暴れに暴れ回ります。
そこへ仕事仲間の女性が通りかかりました。彼女は望月の姿を見て、「怖いんですけど……」と呟きます。それを聞いた望月は「ごめんごめんね」と、笑いながら謝ります。雨に打たれ、狂ったかのように、作り笑いで謝り続けました。
望月役を演じた池松壮亮さんは、長久監督との対談で以下の内容を語っています。
池松「主役のヒカリが全てを脱ぎ捨てた長久さんだとしたら、社会性を呑み込んでしまった長久さんが望月。だからこそ、この4人を引き上げなきゃいけないし、そこに小狡さ、小汚さがちょこちょこ垣間見える」
長久「もしかしたら、これは望月の物語なのかもしれない。望月を肯定してあげるために。と言うか、正しい行いをさせて償わせるために、作ったのかも」
社会に救われなかった望月がいる一方、そんな彼の姿を間近で見たヒカリも絶望します。ここから先は再びヒカリに主観が移行し、ゾンビーズも、現実の子どもたちも、望月のことも救うために、物語が最終章へと収束していきます。
〇愛情
ヒカリの絶望とは何か? それを説明するため、話の時系列をバンド結成前に戻します。
以下の会話はバンド結成前、ゴミ処理場でバスケをする一幕です。
イクコ「ヒカリの目が悪いのって、勉強じゃなくてゲームが原因でしょ? 残念眼鏡だよね」
タケムラ「レーシックしたら?」
ヒカリ「いえ、目が悪くなったのは両親が買い与えたゲームのせいですから、この目の悪さは両親からの贈り物でもあると言えます」
仲間と出会う前のヒカリであれば、両親との思い出を理由に、レーシック手術を断ったりはしません。かと言って怖いと答えるのも恥ずかしいため、もっと気の利いた台詞を選べたはずでした。
しかし、前の晩に両親の夢を見たことで、自分が無かったヒカリにも自我が芽生えます。ただし自分が自分であるという基盤が脆いため、絶対的な肉体に依存しかけているところを、わざとらしい両親への寂寥で隠蔽しています。
だからこそ、心の中で何が欠けているのかを自覚してしまいました。それは愛情です。
怒りや悲しみの感情は既に持っていましたが、愛情だけは生まれた時から知らないので獲得できません。本来は何も無かったヒカリは、自分から見た自我の存在を認識し始め、ちぐはぐな愛情を埋めたくて生きる意味を見出そうとします。
その様子が色濃く出たのは、カメラマンとの取材のシーンです。
カメ「両親を殺した犯人について、どう思ってる?」
ヒカリ「特にありません」
カメ「またまたぁ~。本当は何か言いたいんじゃないの?」
ヒカリ「特にありません」
カメ「本当に? 本当はあるんでしょ? ほら、言ってみなよ」
ヒカリ「殺してやりたいです。両親を殺した犯人は、僕にとって人生のラスボスです」
ヒカリとしては、いつまでもしつこいカメラマンに対し、過激な発言をして使えなくしてやろうという意趣返しのつもりだったのでしょう。ただ同時に、他人から見た自己を形成し、生きる意味を捏造する機会でもありました。
この発言をした後で、ヒカリは望月から感情を出すなと注意されます。カメラマンにも使わないよう釘を刺したのですが、おそらく使われてしまったのでしょう。ライブでヒカリは観客に向かい、両親を殺したのは誰だと大声で叫びます。
状況を面白がる匿名の人たちの調査により、バス事故の運転手がネットで特定されました。また義憤に駆られたファンたちの行動により、街中に顔写真を貼って個人情報を晒し上げます。
それに精神が病んだバス運転手の草野は、謝罪動画を投稿サイトにアップします。「自分はヒカリ君の人生のラスボスじゃないよ」と言い残し、自宅のアパートから飛び降り自殺をしました。
草野を自殺に追い込んだのはヒカリだと、ゾンビーズは世間からバッシングを受けます。またバンド活動を応援したイベント会社や、音楽事務所の大人たちも、ゾンビーズのことを責めるような目つきで睨みます。その責任を取らされ、“LITTLE ZOMBIES”は解散させられました。
居場所を失ったヒカリたちは、ゴミ処理場に戻るしかありません。感情を出すためにやったバンド活動で、感情を押し殺されたゾンビーズは、その場で楽器を燃やしました。
また社会に折り合いをつけた望月の姿を見たことで、ヒカリはアイデンティティやパーソナリティを持っても意味は無いじゃないかと、芽生えていた自我と自己を閉ざします。ヒカリは社会に開き直ることを諦め、再び無気力に悟って生きるしかありませんでした。これがヒカリの絶望です。
イクコ「私たちは永遠に“LITTLE ZOMBIES”でしょ? ……何か言ってよ」
場面は変わり、ヒカリは叔母夫婦に引き取られます。駅の改札を通った後、ゾンビーズがヒカリのことを呼び止めました。
タケムラ「どこ行くんだっけ?」
ヒカリ「福島だって」
イシ「良い所なの?」
ヒカリ「たぶん。みんなはどうするんだっけ、これから」
イクコ「目的なんて無いよ。ゾンビだし。所詮、だらだら生きるよどこまでも」
ヒカリ「あ?」
タケムラ「何?」
ヒカリ「あ、あのさ、やっぱいいや」
イクコ「ださ。言わないの、ださ」
イシ「超絶ださい」
ヒカリ「あーーーー、行きたいとこあった」
タケムラ「ゾンビのくせにあんのかよ」
ヒカリ「ほら、ツアーの途中だったから、最後のさ」
イシ「ツアー、ファイナル、しに行っちゃう?」
ヒカリ「うん。今度ね」
イクコ「は? うける。今でしょ」
タケムラ「今だろ」
イシ「いまいま!」
ヒカリ「え、無理だよ」
イクコ「うるせぇ眼鏡」
ゾンビーズは改札を飛び越え、強引にヒカリを攫います。この瞬間、僕は号泣。
彼らは追ってくる駅員から逃げ、歩きスマホする大人たちの隙間を縫うように走り、間一髪で新幹線に乗り込みました。自分にもゾンビーズのような仲間がいたらなぁと、思わずにはいられません。
ようやく逃げ切って一息ついたところで、車内にも追手の影が迫ります。タケムラは新幹線の緊急停止ボタンを押し、ゾンビーズは線路の上を走り抜けました。
そして紆余曲折を経てゴミ収集車を強奪し、ゾンビーズは最終地点である事故現場に向かいます。
なぜ、ヒカリは事故現場に行きたいと言ったのでしょうか? それは愛情を確かめたいからです。現実を知ってヒカリは心を閉ざしましたが、ゾンビーズによって再び心が開かれます。自意識に目覚めたからこそ、心の欠損にも自覚的でした。
しかも、今は社会の厳しさを痛感した状態です。自意識を持っても自分が自分でいられないことを悟ったヒカリは、現実で生きる理由を見出せません。仲間がいても世界に絶望している彼は、車窓から見る風景がモノクロに見えていました。
そんな中、トンネルで対向車と衝突します。ヒカリだけが目覚めると、そこは女性の胎内でした。
目の前にゲームのコンテニュー画面が表示され、彼の人生を振り返る走馬灯が流れます。学校でのイジメ、冷たい家庭環境を改めて見て、自分の人生はゴミだったと悟りながら、コンティニューのカウントが0になるのを待ちました。
GAME OVER
映画のエンドロールが流れた……かと思いきや、今度はゾンビーズが目覚め、ヒカリを叩き起こします。そこはまだ、女性の胎内でした。戸惑うヒカリに向かって、彼らは罵倒を浴びせます。
タケムラ「絶望だっさ」
イクコ「なんでコンテニューしないの?」
ヒカリ「だって、ゴミみたいな人生だし」
タケムラ「あはは。今さら気づいたのかよ。うける」
イシ「みんなゴミでしょ」
コンテニュー画面を無理やり表示させ、ヒカリは再び決断を迫られます。今度は誰かに用意された走馬灯なんかじゃなく、自分自身の記憶を思い出す。
イジメはどうでもいいし、現実は見下してた。ゲームは楽しいからやってただけだし、両親が帰ってこない日もパントマイムの練習とかやっていた。デフォルトで孤独だから、寂しくなんてない。人生は楽しい。ゴミみたいだけど、楽しいゴミで、カラフルなゴミだ。
考え直してYESを選択した突如、爆発して崩壊する胎内。急いでゴミ収集車を走らせようとするも、臍の緒が車体に絡み付きます。その臍の緒ごと引き千切り、ゾンビーズは暗闇から脱出しました。
光の先へ吸い込まれると、そこはヒカリの出産シーンでした。苦しむママと、励ますパパ。ヒカリが誕生した時は大喜びで、名前を考えている間は慈しみに溢れていました。最後に、自分は両親から愛されていたことを知り、ヒカリは幸福感に包まれます。
無事、現実世界に戻ったゾンビーズ。車窓から見る風景も、モノクロからカラフルになっています。やがて目的地の事故現場に着きましたが、ヒカリは車から降りずに通り過ぎます。もう愛情を確かめる必要はありませんでした。
それよりも、両親が行きたかった場所を見たい。また事故現場の僻地に供えられた花や、千羽鶴などを見て、彼は本物らしい感情に触れます。
ゴミ収集車がガス欠で止まりました。仕方なく、ゾンビーズは歩き出します。暫く目的も無く歩いて行くと、辿り着いたのは果てしなく広がる草原でした。
カメラが空高くロングアップし、上から全体を俯瞰するような構図へ。4人が最初に出会った時の、RPGみたいなパーティを想起させ、草原を進む彼らの後ろ姿を捕えて締め括られます。
イクコ「映画は終わるけど、私たちのラストじゃないもん。人生的には」
真のエンドロールへ。最後の最後、葬式時のヒカリの顔をクローズアップして、映画は終わります。
映画を観終えた観客は、ヒカリの中で様々な感情が渦巻いているのが分かります。そんな彼に向けて、僕たちは何と言って声をかければ良いのでしょう?
〇まとめ
この映画に込められたメッセージは、表と裏で二通りあります。
・表「生きてるくせに、死んでんじゃねぇよ」
・裏「死んでるみたいに、生きてもいいよ」
二つ並べると全く逆の意味に捉えられそうですが、どちらかだけ別々に受け取るのではなく、どちらも表裏一体に考えてほしいです。なぜなら、どちらか片方だけを都合良く受け取ってしまうと、どこかしらで破綻してしまうような気がするからです。気がするだけです。
■表について。
無気力に生きる若者に対して、挑発するような印象があります。ただ生きるだけではなくて、自分が存在する意義のアイデンティティを確立しろ、という強い意味の言葉に受け取れます。
ただし、これは自己実現を達成し、パーソナリティを得られたら届く話です。強い自意識を持った人間は夢を見がちですが、その夢が叶うとは限りません。自分が理想とする自己像と、普通以下である現実の自分との乖離に苦しみ、世界に絶望します。
■裏について。
無気力に生きる若者に対して、肯定するような印象があります。ただ生きてるだけで良くて、他人が承認するパーソナリティなんて気にするな、という優しい意味の言葉に受け取れます。
ただし、これは安定した基盤を持ち、アイデンティティを得ていたら届く話です。自意識が薄くなった人間は現実を見がちですが、それを望んでいたとは限りません。他人が期待する偽の自己像と、何も無い自分の存在感に苦しみ、生きる虚無感に襲われます。
なぜ、表と裏、どちらか片方のメッセージだけでは破綻してしまうのか。それは自分だけではアイデンティティを確立するのが難しく、自分という存在を他人からのパーソナリティに頼るしかないからです。
従来の社会では他人との差異でアイデンティティを確立していましたが、高度に発達した現代社会では他人との差異が出しづらく、すぐに個人の価値が相対化されます。一方、パーソナリティはSNSなどの情報普及により、他人から共感されて承認欲求を満たしやすいです。
つまり、自分が自分であるという確証を得るには、アイデンティティよりもパーソナリティの方が優先されるということです。そうすることで実存の不安が解消されます。
問題があるとすれば、そのパーソナリティが嘘臭いことです。世間体を気にする大人たちは体裁を取り繕うため、子どもにも都合の良い子どもらしさを求めようとします。だからこそ気にしなくて良い、そのままで良いと監督は伝えているわけですが、額面通りに受け取ってしまうのも違う気がします。
なぜなら、実存の不安が解消されたわけではないからです。アイデンティティでもパーソナリティでもなく、自分が生きている感覚を回復させるためには、生まれながらに純粋で絶対的な肉体に依存するしかありません。実際、ヒカリ以外の3人は肉体に依存する描写が見られました。おさらいしておきましょう。
【イシ】の場合は、空手と空腹と、空腹を満たすことで生きている感覚を得ています。
長久監督の作品に出てくる料理は、どれも不味そうに映されているため、美味しい物を食べることではないです。
また、イシはキャンディを舌に擦り付け、色を塗ることで舌の感覚を確かめようとしています。
【タケムラ】の場合は、スリルと痛みと血と牛乳です。
ストリートファイターの演出はギャグでもあり、真実でもありました。
父と兄に反抗するタケムラでありましたが、自分から殴られに行っているようにも見えます。
【イクコ】の場合は、ピアノを弾くことと、薬指が無い身体の記号性です。
これは僕の偏見かもしれませんが、二つが組み合わさることで他人との差異が際立ちます。
そのせいか強い自意識を持ち、女子の同調圧力から浮いた存在だったと予想されます。
両親から愛情を受け取らなかった、または愛されていると感じられなくなった、イシ、タケムラ、イクコの3人は、自分が生きている感覚を肉体から得ていました。
自分の存在感が希薄になるだけならば、人間を機械だとか、幽霊だとか表現した方が分かりやすいのですが、実存の不安から逃れられないからこそのゾンビです。
肉体への自傷が行き着く先は、より現実的で絶対的な「死」です。ただ、その両親の「死」ですら、なぜかリアリティを感じられません。これはおかしいぞと戸惑っていたところ、別の方法で生きる感覚を補っていたヒカリと出会い、彼ら3人は救われます。
僕から言いたいことは、ただ一つです。
仲間を作れ。
アイデンティティとパーソナリティを両立させる方法は、今のところ仲間を作る以外にありません。
友人関係を否定するわけではないです。友人と世間話で盛り上がったり、楽しく遊ぶのも大切な時間でしょう。
ただ、必要以上に気を遣ってはいませんか? 互いの役割を演じてはいませんか? 本当に大切なことは、その人間関係の中で何をして、何が残るかです。
バンド、スポーツ、漫才、動画投稿。小説を書く、絵を描く、プログラミングなど一人の制作であっても、演劇、アニメ、ゲーム制作に関わり、誰かと繋がれる可能性はあります。
プールに400匹の金魚を解き放つでも良いです。サイコロで次の行き先を決めるでも良いです。別に甲子園で優勝しろと言っているわけではありません。結果的に予選敗退でも、共に本気で優勝を目指した仲間がいます。
夢なんて叶わないし、気の許せる仲間とも出会えない。
ええ、そうでしょうとも。どんなに本気で、本気で、本気を出し尽くしたとしても、夢が叶わず、仲間と出会えなかった人は現れます。
ですが、できなかったことを隠す必要はありません。
実存の不安に襲われている人は、自分に価値が無いことを極端に恐れます。
社会が悪い、上司が悪い、相手が悪い、運が悪い、自分は悪くない。
ええ、そうでしょうとも。社会構造の欠陥、組織体系の怠慢、それらに対して怒りの声を上げるのは当然です。
しかし、その目的が実存の不安から来る存在証明であれば、履き違えていると言わざるをえません。
トラックで歩行者天国に突っ込む。アニメ制作会社に火をつける。10年前、20年前から何も変わっていない。
だからこそ、長久監督は「死んでるみたいに、生きてもいいよ」とメッセージを伝えています。
他人からの眼差しに怯えなくても良い。周囲からの視線なんて気にしなくて良い。何かをしようとして、何もできなかったとしても、そのままで良い。社会からの評価だけで、人間の優劣は決まらない。
ヒカリたちは未来に夢や希望が無くとも、自分に生きる理由が無くとも、何も変わらない現実社会を生きようとします。これを彼らの成長と呼ばずして、何と呼ぶのでしょうか?
僕はライトノベルを書いています。ですが、いくら書き続けても一向に芽が出ません。20代後半になっても結果が出ないということは、まぁ才能が無かったということなんでしょうが、自分では現実を受け入れられません。
執筆に費やした時間は何だったのか? 今までの努力は何だったのか? そう自問自答すればするほど、自分は悪くない、悪いのは理解できない他人だ、という思い込みの考えに陥ります。
一度こうなってしまうと、常にイライラしっぱなしです。他人に対し怒りの感情が込み上げ、押し殺そうとしても自分は悪くないと開き直り、再び怒りの感情が込み上げ、また自分を押し殺すの繰り返しです。頭の中で皆殺しのメロディが鳴り止みません。やべぇ危険人物です。
そんな中で『WE ARE LITTLE ZOMBIES』を観て、この映画評を書いています。
僕の怒りは、実存の不安から来る、存在証明でしかありませんでした。
誰かに対して、ましてや自分に対して、感情を取り繕う必要はありません。
そう思えた時、何もできなかった自分を許せたような気がしました。
は? 泣いてませんけど。