『JOKER』映画評・救われない絶望
こんにちは。ササクマです。趣味で映画評を書きます。挨拶と自己紹介は人として当然の礼儀です。アイコンは幼女です。読者の方が望まれるのであれば、これからも幼女キャラに徹します。おぎゃ!
今回noteに投稿するのは、2019年公開の洋画『JOKER』の映画評です。
わたしの映画評を読んだことがある方なら分かるのですが、本作と『若おかみは小学生!』と『WE ARE LITTLE ZOMBIES』の主人公には、とある共通点があります。
なんですけど、他作品と違って本作の主人公はおっさんです。共通点がありながら、年齢によって見え方が異なって面白いと思ったので、映画評として『JOKER』を取り上げます。
実はわたし過去に「街角のクリエイティブ」という、主に映画評を載せているサイトのDMMオンラインサロン「街クリ映画部」に入っていたことがありまして、本作の映画評はその時に書いたものになります。
で、その中で何作かの映画評を上げていたら、いつの間にか【伝説】になってました。大丈夫、わたしも状況を呑み込めておりません。
多少の加筆修正はしてあります。どうぞ当時の雰囲気を含め、お楽しみください。
◯前半
『JOKER』が観たい。
『JOKER』が観たいぞおおおおぉぉーーーーっ!!!!
人々を笑顔にしたい主人公アーサーが、悪のカリスマであるジョーカーになる話。
ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得し、急速に話題沸騰した本作。
公開直後のツイッターでは『JOKER』がトレンドとなり、本作を観た人の感想ツイートが絶え間なく流れてくる始末。以下、一部を抜粋。
・生涯のベスト映画
・人生で一度は観ておくべき映画
・落ち込んだ時に観てはいけない
・えげつねー
・影響された人が暴れないか心配
・社会不安を増大させる
え、面白いの? 面白くないの? おすすめしたいの? おすすめしないの? まとめると『JOKER』は2019年を代表しうる傑作だが、精神が不安定な人が観るには危険、という総評になるらしい。
何それ? 観たくなるじゃん。
観るなと言われたら、観たくなる。これが映画だと言われたら、観たくなくなる。白と言われたら、黒だって言っちゃう。素直になれない天邪鬼。甘いバニラに、ソルトかけるよ。
?……観たい。よく分からん勢いのまま『JOKER』鑑賞を終える。
率直な感想。アーサーは僕でした。僕がアーサーでした。そして僕はジョーカーになりたいと思いました。
僕は日常生活をショートコントにする妄想癖があります。なぜなら現実で辛い出来事があった時、それを笑いに変換してやれば自分が救われるからです。だからこそ僕はアーサーに共感し、悪のジョーカーになりたい願望を理解できてしまう。
しかし、同情はしません。何かを分析する際、調査対象に肩入れするようでは、信憑性のある考察など不可能。すべて書き手の主観とならないよう、公正さを保つには俯瞰的な視点が必要です。
映画評は池のようなもの。テーマとなる枠の広さを決めたとしても、その深さは一見して計り知ることはできません。ならばいっそのこと、池の水を抜いてやりましょう。
既に『JOKER』は様々な言説で溢れ返っています。先に誰かが指摘したことを、後で自分が書いても意味は無いため、言説を掬い上げるように水抜きする必要があります。
しかし、『JOKER』の池は琵琶湖くらいあります。もはや湖の水抜きは無理。なぜ、ここまで池が拡大してしまったのか? それは映画で語られたストーリー全体が、主人公アーサーの妄想である可能性が高いからです。
ジョーカーの存在自体が曖昧にされているため、テーマとなる枠も曖昧なまま広がり続けます。この状況でジョーカーについて考察することは、琵琶湖に潜って魚を捕るみたいなものです。それはそれで快挙だけど。
いきなり琵琶湖を水抜きしたら滋賀県民が黙っちゃいないでしょうから、まずは池となる外枠作りから始めます。追い込み漁です。テーマは「悪」。浅いわけがない。日本本州の湖面積ランキング、上位3つを答えた人から続きを読んでください。
◯正義の原理
悪とは何か? それを知るためには、正義について調べなければいけません。ここからはジョン・ロールズの「正義論」を参考にします。
大前提として、正義は善悪を超えたバランサーです。正義と善を切り離した上で、正義は善よりも優先されるとします。
では、バランサーたる正義の役割とは何か? それは善悪を決めること。
なぜなら法律で善悪を決めてしまうと、法で裁けない悪人を許容しなければいけないからです。善悪という相対的なものを法では決められないため、正しさを判定する正義とは何か論じる必要がありました。
その正義を構築する絶対の基準として、ロールズは正義の原理を2つ提示します。
第一原理
:平等な自由
= 各人が各人の善の構想を追求できること。
第二原理
:機会均等原理
格差原理
= 社会的、経済的不平等に対する処置を行う。
つまり、平等な自由が善で、不平等な自由を悪とする、「公正としての正義」です。これを支持する立場を、自由主義と呼びます。この考え方に至った経緯としては、功利主義の問題点を解決しようとした結果でした。
功利主義での善は快楽で、悪は苦痛です。この善悪は正義が決めずとも、自動的に決まります。なぜなら、社会の中の度合いを足し算したとして、その総量が大きい社会が望ましいと考えるからです。これを「最大多数の最大幸福」と呼びます。
いかにも合理的なシステムですが、ある致命的な欠陥がありました。それは公然と個人の権利や、尊厳を蔑ろにすることです。少数派を切り捨てる正義は正義と呼べず、ただの一方的な善でしかありません。だからこそ、個人の自由に重きを置いた正義論を展開しました。
しかし、平等な自由など現実にあるのでしょうか?
個人の自由を保障するなんて聞こえは良いですが、自由にも自由がもたらす問題があります。
そもそも自由には生産性がありません。人は本当に自由な時、何もしないからです。自由なことばかりやっていると生活できないため、人は仕事に就いて働きます。仕事をする上で、人は人間関係を断つことができません。人は1人では生きられず、否応にもなく他人と関わります。
有り体に書くと、人は他人の自由を侵害しなければ生きられないのです。また、自分の自由も他人に侵害されるリスクを抱えます。それこそが平等な自由だと言ってしまえば、個人の身勝手な欲望でさえ善として許容することに。極端な例だと、復讐が正当化されます。自由と不自由が反発する社会では、正義は善悪を判断できません。
そこで、今度は共同体主義が台頭します。これは個人の自由ではなく、コミュニティ内での美徳を重視する考え方です。制度や規範の目的との関係で善悪を決定するため、それを超える正義は認められません。
ゆえに、他の共同体と対立します。ただ大きさが個人から、コミュニティに変わっただけです。問題の根本的な解決になっておらず、互いに一方向からの善を押しつけるしかありません。国の戦争と同じで、そこには正義も悪も無いのです。どちらも己が善と思い込むため、重大な過ちに気づけない。
この一節の肝となるのは、功利主義、自由主義、共同体主義、複数の正義が同時に存在することです。社会、個人、コミュニティの垣根を越えるため、ヒーローはマスクを被ります。
◯メディアとしてのヒーロー
現実で善悪を判断できない中で、ヒーローはどのようにして正義を執行するのか?
分かりやすいのは強者から弱者を守ることです。例えば日本の江戸時代末期に結成された新選組は、京都において反幕府勢力を取り締まる治安活動を行いました。攘夷志士の討幕運動が活発な中、彼らが後世でも英雄と認識されているのは、テロ行為から命を懸けて人々を守っていたからです。
現代社会には警察組織が存在します。警察は法律が基準にあるため、善悪を正しく判断できません。一方で善悪のバランサーたるヒーローは、どのようにして強者から弱者を守るのでしょう? 以下の図1を用いて、ヒーローごとに分析してみます。
図1
正統派
リ ↑ コ
ア←ーー|ーー→ミ
ル ↓ ッ
ダーク ク
正統派コミックヒーローをアンパンマンとするなら、リアルダークヒーローがバットマンですね。バットマンも元は漫画作品ですが、素で超人パワーを持っていないためリアル寄りです。
また正統派とダークは、勧善懲悪かどうかで分けられます。アンパンマンはアンパンチでバイキンマンをバイバイキーンすれば、めでたしめでたしで幕を閉じることが可能です。
一方でダークナイトのバットマンは、苦労してジョーカーを捕まえても人々に賞賛されず、逆恨みしたトゥーフェイスの罪を被ります。そしてハービー・デントは正義を貫く「光の騎士」として、ゴッサムシティの象徴となるのでした。
対極な2つを比較して見ると、正義の描き方は悪の捉え方によって変化するのではないか、という仮説を立てられます。次は悪役を図2で分類してみましょう。
図2
強
リ ↑ コ
ア←ーー|ーー→ミ
ル ↓ ッ
弱 ク
アンパンマンのバイキンマンは必要悪、つまり主人公の引き立て役なのでコミック寄りの弱い悪に分類できます。対してコミック寄りの強い悪と言えば、僕はドラゴンボールのフリーザが真っ先に思い浮かびました。本当は彼も悟空の情けで必要悪になれたかもしれないのですが、それを跳ね除けて絶対悪を貫き通したのです。(なお続編では……)
さて、ジョーカーはどこに分類されたでしょう? 映画『JOKER』の彼は絶対悪として描かれておらず、主人公を食う人気があるため必要悪でもありません。絶対悪と必要悪は類義語のため、図2では縦軸を強弱にしています。悪役にはボスとザコがいるため、強弱は重要な指標なんですよね。
ジョーカーは特別な能力を持っていません。そして真正面から戦えばバットマンより弱いです。つまり、ジョーカーはリアル寄りの弱い悪に分類されます。序盤で倒されるチンピラと同じはずなのに、どうして彼はバットマンの前に立ち塞がれるのか? それは力の強さで戦わず、異なる土俵で勝負しているからです。
ここでまた、ダークナイトの話に戻します。なぜ、悪に手を染めたハービーのイメージを守る必要があったのか? それはバットマン自身が、メディアとしてのヒーローの特色が強いからです。夜空に浮かぶバットマンマークにより、自らの存在を街に知らしめることで、正義として善悪を調節していました。
しかし、ジョーカーの悪事でハービーは闇落ちし、正義は地の底へと失墜します。それが世間に知れてしまえば正義は機能しないため、正義の殉職者としてハービーのイメージを保ちました。また、イメージを保つ方法として、マスメディアを活用しています。
メディアは社会、個人、コミュニティの垣根を越え、人々からの支持を得ることができます。例えばニュースキャスターが日本人はクールだと言えば、視聴者は日本人全員がクールだと思うでしょう。中にはクールじゃない日本人もいるはずですが、国民国家としてメンバーが勝手に想像されてしまうわけです。
そして物語、漫画や映画もメディアの1つです。物語には寓話の側面があります。道徳的な教訓を付与するのは、子ども向け作品に多く見られることでしょう。
逆に小説は人間の内面を描いた、大人向け作品です。そのため、ヒーローという子ども向けメディアを利用して、大人向け作品を創作してしまうと、意図的にではなくとも、無意識に作品内で善悪が調節されます。
メディアを通すと一方的な善が、あたかも正義のように見えてしまう。
この構造を批判したのがジョーカーです。映画『JOKER』以前は絶対悪として描かれていた彼ですが、最初から力の強さでバットマンに対抗しようとはしません。むしろ、自分が弱いことを盾に使います。なぜなら、バットマンにとって弱者は守るべき対象だからです。いくら憎くても殺してしまえば、正義は善悪を超越できません。
現実に正義は無く、善悪の判断はできない。だが、ストーリーには絶対悪が存在する。つまり、お前たちヒーローが悪を作り出しているのだと、バットマンも一方的な善にすぎないと、ジョーカーは高らかに笑うのでした。
しかし、宿敵のバットマンを生み出したのは、彼の両親を殺害したジョーカー自身です。悪があるから正義が生まれ、正義があるから悪が生まれる。ここに正義と悪の円環構造が展開されます。
◯悪のカリスマ
各人同士の自由よりも、社会構造の欠陥を明るみに出したジョーカー。彼はリアル寄りの弱い悪でありながら、なぜか悪のカリスマ的人気があります。それは現実でも自らをジョーカーと名乗り、銃を乱射する事件が発生するほどでした。
ジョーカーだけではなく、人気漫画には魅力的な悪役が登場します。例えば週刊少年ジャンプのフリーザ様や、ディオ様です。わざわざ名前に様を付けたくなるほど、悪役に心酔する謎の現象が発生するのでした。そこに痺れる憧れるぅ。
この原因となるメカニズムと、映画『JOKER』のストーリーを妄想っぽくした演出意図が繋がると思ったため、ここに考察を述べて行きます。
まず、以下の図3を参照してください。
図3
A
↑
権威 | | 権力
↑ | | ↓
(象徴) | |(金・暴力)
↓
B
これは人が命令に従わされる、従いたくなる2者の関係を表したものです。
例えは無いのですが、例えばですよ? 僕が貴方に命令したとします。男はパンツ一丁、女は裸だと。そんな身勝手な命令をされて、普通なら貴方は抵抗するでしょう。ふざけるな、なんで裸にならなきゃいけないんだと。
しかし、100万円あげると言ったらどうでしょうか? 喜んで裸になりますか? そんな安い女じゃないと、キッパリ断る人もいるでしょう。ならば暴力で従わせるしかありません。拳銃を向けられた貴方は、渋々と服を脱ぎ始めるのでした。服を脱ぐのに服従か。
AからBへ。他人を支配し、強制的に従わせる力、これが権力です。とはいえ、権力は一時的な効果しかありません。なぜか? 金が無くなった時、拳銃を奪われた時、容易に立場が逆転するからです。
一方で、権威は常に効力を発揮します。AがBを監視せずとも、Bの方からAに従いたくなるのです。なぜなら、Bは象徴というレンズ越しにAを見ているため、心の底からAを尊敬していたからでした。
象徴とは何か? 例えば平和の象徴は鳩、日本の象徴は天皇陛下などがあります。ざっくり書くならば、象徴とは直接的に知覚できない概念を、分かりやすく連想できるようにした記号です。なぜ、この象徴レンズが権威に必須なのか?
また例えると、僕は伝説です。生ける伝説です。でも、本当の僕は何者でもありません。貴方たちが僕の映画評を読んで、勝手に僕を伝説に仕立て上げました。僕という個人を、映画評というレンズ越しで見ているから、いきなり初対面で抱いて! と懇願してくるのです。まったくもう、裸になりなさい。
あれ? おかしいな。また同じく映画評を書いていたはずなのに、書けば書くほど僕に対する女子の好感度が下がっていく。そうです。権威は正義と同じく、失墜する可能性があります。何か間違いを犯せば、たちまち人々の色眼鏡は外れることでしょう。
しかし、ジョーカーには権威が失墜する危険性がありません。彼の場合はピエロという記号がレンズとなり、犯罪行為が低所得者層から英雄視されます。僕と同じく権力と権威の構造に組み込まれているはずですが、そこには大きな違いがありました。恐怖と不安です。
恐怖と不安の違いは、目に見えるか見えないかです。僕とアーサーはAとして、確かに存在します。どれだけ人々に暴力で恐怖を与えようと、本質は何者でもないため色眼鏡をかけようがありません。
しかし、ジョーカーはAとして存在せず、人々の社会不安を増幅させます。元から無いものは無くならないのです。
ゆえに、人々は不安の象徴であるジョーカーを見出そうとします。だからピエロの仮面を被り、次々と模倣者が発生するわけです。
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の「笑い男」事件と同じ現象ですね。高度に発達した情報化社会の中、『JOKER』の場合はマスメディアが個人を「想像の共同体」として複合させています。彼らは外側に敵がいるからまとまるのです。
そして模倣者の中には、オリジナルを越えようとする者も現れます。
トッド・フィリップス監督はジョーカーを恐怖の対象としてではなく、不安の象徴として撮影したかったと僕は考察します。だからこそストーリーをアーサーの妄想にし、ジョーカーの存在そのものを仄めかすような演出をしたのではないでしょうか。
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〇後半
映画『JOKER』評前編、いかがだったでしょうか? 前編では映画の外側について書き、ジョーカーという存在の枠を作りました。これで映画『JOKER』を語る上での池が完成し、ようやく後編では内側について書くことができます。
しかし、ここで想定していなかった問題が発生。本来であれば完成した池の水抜きをし、そこへ自分が新たに用意した水を投入すれば終わりですが、今回は自分で作成した外枠のため、池の水抜きをする必要が無いことに気づきました。もう既に入っている池の水、おそらくここに僕の感動があるはず。
とはいえ、水抜きをしないのであれば、依然として池の深さは計り知れないままです。なら、潜るしかないでしょう。結局かよ。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。別にニーチェのことは好きでも嫌いでもありませんけど、含蓄ある言葉を胸に溺れないよう気をつけます。
それにしても……汚い水です。ジョーカーを追い込むために作った外枠ですから、この中の水にはジョーカーが凝縮されています。もはや池と言うより、硫酸が入った瓶です。世にも恐ろしい、ジョーカー製造機が目の前にあります。
で、この中に潜って何を探るのか? それはアーサーがジョーカーになっていく過程です。ここにトッド・フィリップス監督が描きたかった、人間の複雑さがあります。
監督は主に『ハングオーバー!』などのコメディ作品が有名ですが、今作では新たな出発点として人物描写に力を入れたとのこと。笑いが物語の鍵になっていることは必然のため、そこから導入へと繋げて行きましょう。
どうせ毒なら、猛毒たれ。
◯笑う殺意
僕は人を殺したいと思ったことが何度もある。別に肉親を殺されたとか、そういう悲劇から来る怒りではない。ただ腹立つ奴を殺したい。
例えば道を歩く途中、正面から歩行者が横2列になって向かってくるとする。僕は躊躇わず、わざと強く肩をぶつける。そして振り返り、立ち去ろうとする歩行者を呼び止めるのだ。相手が謝罪するのであれば許すが、もしも無視して立ち去ろうものなら後ろから飛び蹴りをかます。2対1だろうが関係なく、相手が混乱している隙に鼻を殴りつける。とにかく顔を狙って、相手を怯ませてから全力で逃げるのだ。明確な殺意を持った方が勝つ。
……なんてね、そうそう都合良く話が進むわけがない。すべて妄想。もしも今回の例え話が事実だったとしたら、この文章は刑務所で書くことになるだろう。
でも実際、道端で肩をぶつけてくる奴、混雑した電車内で足を組む奴、街中で歩きタバコする奴、自転車で突進してくる奴、ゴミをポイ捨てする奴、店内で大騒ぎする奴、人の物を盗む奴、人を馬鹿にする奴は存在する。
奴らの不正行為は罪かもしれないが、別に逮捕されるような大罪を犯したわけじゃない。警察の監視が行き届かなければ、易々と看過されてしまう。かと言って僕が奴らを注意したら、変に絡まれてしまうのは明白だ。身に危険が及ぶし、殴り勝っても僕が逮捕される。
仮に僕が犯人を捕まえたとして、この人が肩をぶつけて来ましたと、小学生みたいな理由で警察に突き出しても相手にされないだろう。つまり、奴らの不正行為は大なり小なり、呑み込んで見逃すしかない。あっさり終わらせる。
だからこそ、僕は奴らを脳内で殺す。奴らに更生なんて期待できない。あいつらは死んで当然の人間だ。どいつもこいつも皆殺しにしてやる。あいつもこいつも漫画みたいに、ゲームみたいな間抜けさで殺す。できるだけ馬鹿みたいに、面白おかしく殺す。命を軽々しく扱う。そうすれば一時的に胸はスッとする。でも、ああ、殺せるもんなら殺してぇ!!
ストレス社会は殺戮の日々。植えられた憎しみの種は、怒りを養分にして勝手に育つ。一度でも土に張った根は、なかなか掘り返せない。仕事中でも私生活でも、ふとした瞬間にフラッシュバックしてしまう。何回殺しても、殺したりねぇ。怒り憎しみが消えない。
このままでは精神が崩壊する中、僕を救ってくれたのは笑いだった。憎しみがフラッシュバックした際、怒りで相手を殺すのではなく、全く関係の無い笑えるエピソードを思い出す。
例えば「水曜どうでしょう」だ。髪の毛に良いかは分からないけど、環境には良いシャンプー。この話を脳内再生する度、僕は心の中で爆笑している。他にもグレーリング飯、パイ食わねぇか、雪原のトビウオ、バレンチノ、鹿でした、これらのエピソードを思い返すだけで、僕は怒り憎しみを忘れることができるのだ。おかげで仕事中でも私生活でも、何気無い場面で必死に笑いを堪えている。端から見たら完全にヤバい奴。
しかし、これはあくまで憎しみがフラッシュバックした際の対処法だ。目の前の現実で怒る場面に遭遇した時、僕はどうなってしまうのか。馬鹿にされた瞬間、喧嘩を売られた瞬間、さすがに「水曜どうでしょう」は間に合わない。
でも笑いに救われた僕は、すっかり笑うことが処世術になっていた。何を言われても、何をやられても、愛想笑いで受け流す。相手にしない。一方で突発的な怒りに襲われた際は、急に大声で笑い出す妙な癖がついてしまった。端から見ないでもヤバい奴。別に面白くないのに笑う。作り笑いで怒りを誤魔化しているだけだ。自分の尊厳を傷つけられても、笑顔が張り付いて取れない。
信じ難いことに、僕は僕を殺していた。
怒り憎しみを誤魔化し続けていたら、喜び悲しみなどの感情も、いつの間にか死に絶えている。いや、僕が殺したのだ。頭の中で誰かを殺す度、僕自身も自殺を繰り返していたのである。
情熱も無い。灯し方が分からない。そもそも、元からあったのかさえ疑わしい。
でもさ、これって僕だけの話じゃないと思うんだ。
◯自暴自棄
東京都内の駅、電車内は殺伐としている。特に満員電車は地獄だ。駅のホームでは列が溢れるほど並び、電車に乗った際は場所取りを迅速に行い、おしくらまんじゅう状態で電車の揺れに耐え、競歩で移動する乗り換えエスカレーターは渋滞し、誰もが我先にと改札を潜ろうとする。どこぞのアトラクションかよ。何も無いだろ。急ぐのか、ゆっくりするのか、はっきりしろ。もう通勤だけで仕事した気分だ。
電車はイライラしやすい場所で、僕には殺意が渦巻いて見える。だからなのかもしれない。何度か喧嘩を売られ、僕からも喧嘩を売り、喧嘩を買ったり買わなかったりした。大概の発端は足を踏んだとか、列の横入りをしたとかだ。そんなもん不可抗力だし、譲り合いの精神を大事にしたいとも思うが、電車という負のエリア内では普段より平静を保てないものである。もうね、ホームの隅っこにリングファイトか何かを設置してほしい。そこで個人的に話つけよう。オヤジ狩りしてぇ。
それはさておき、ここで問題提起。なぜ大多数の人間はイライラしっ放しで、極一部の人間は喧嘩っ早いのか? これは例に挙げた電車内だけの話ではない。SNSでも頻繁に炎上が発生し、弱い者が弱い者を叩いている。その音が響き渡れば、ブルースは加速してゆく。
なぜ、人々はイライラするのか? 答えは単純。努力が報われないから。
現実で頑張ったところで、必ずしも夢が叶うとは限らない。そんなことは子供から大人へと成長する段階で、誰もが経験から悟ることだろう。学生の頃から堅実に勉強を重ね、安定した収入の職に就くのが賢い選択だ。夢を見てスポーツ選手やら、芸能人を目指す連中は頭がおかしい。それで夢に敗れても自己責任だし、きっと努力も才能も不足していたのだろう。
努力が報われないのは、個人の能力に問題があるから。なんて論破したところで、それに何の意味がある? 生まれながらに才能が無いのも、顔が不細工なのも、家が貧乏なのも、すべて自分が悪いの? だったらもう、殺すしかないじゃん。
2019年アメリカ。銃乱射事件が255件発生。62人が亡くなった。
どうやらアメリカでは、毎日のように銃乱射事件が発生しているらしい。だが、これはアメリカだけの話だろうか? 日本でも2019年7月18日、アニメーション制作会社が放火された。
容疑者への事情聴取を要約すると、犯行の動機は書いた小説が落選したから、などと供述しているとのこと。いや、理由になっていない。だからと言って、会社に火をつける思考には繋がらないだろう。しかし、努力が報われないのを自己責任にしたい人は、動機について容疑者の生い立ちや言い分から理解しようとする。
それこそ不毛だ。なぜなら、殺すのは誰でも良かったからである。元から動機なんて不明瞭で、たまたま目についた会社が狙われたにすぎない。ただの八つ当たり。その八つ当たりが飛躍して。自暴自棄になった人間による、無差別連続殺傷事件を引き起こす。
彼らは人を殺すことが目的なのではない。人々に絶望を与えることが目的なのだ。
他人に絶望を与えることで、自分との希望の格差を埋めようとしていた。
◯希望格差社会
希望とは、心が未来に向かい、現在の行動と繋がっている時に生じる感情のこと。つまり、努力が報われた瞬間だ。
しかし、現代社会は努力が報われない機会が増大している。それを個人の責任にして、話を終わらせては話が進まない。ならば、社会構造にこそ欠陥があるのではないか。その要素を、ここでは大きく2つ取り挙げよう。
1.個人のリスク化
安心社会:リスクが少なく予測可能で、社会的対処が可能な世界。
リスク社会:リスクを避けることは不可能で、個人的に対処する社会。
ここでのリスクは「何かを選択する時に、生起する可能性がある危険」という意味だ。この避けられないリスクが普遍化すると、自己実現に失敗しようとも、個人の判断であるため自己責任の概念が発生する。
問題はリスクを強要されることだ。リスクは個人的に対処しなければいけないが、個人の能力、及び資源や環境によっては達成されない場合もある。そのような社会構造による制約を表す状況が雇用の二極化だ。
2.雇用の二極化
中流化社会:男女の収入が安定かつ増大し、生活水準の格差を感じない社会。
格差拡大社会:仕事の質的格差の出現、家族形態による格差が拡大した社会。
二極化の特徴として、職業に質的な格差が出現し、拡大していること。及び自分の仕事能力によらない生活水準の格差が出現、拡大していることが挙げられる。
ここでの社会構造による個人の制約は、優秀な能力を持った社員と、単純労働者という雇用の二極化だ。専門的・創造的労働者は大事に育て、他の企業に引き抜かれないよう給与を上げるが、単純労働者はコストを下げるために派遣社員、アルバイトに置き換えてしまう。
上記2つの不安要素は、相互関係にある。給料が高い専門的・創造的労働者になるためにはリスクが強要されるのに対し、失敗すれば個人の責任とされ、給料の低い単純労働者に従事しなければいけない。つまり、どんなに頑張ったとしても、絶対に誰かは社会の受け皿から零れ落ちてしまう。これこそが社会構造の欠陥だ。
資本主義という経済システムの中で、僕らは生活している。しかし、完璧ではない。確かに努力は報われないかもしれないが、それを許容してしまえば希望の格差は広がり続ける。
なぜなら、努力は報われないと開き直れば、人々は無気力になってしまうからだ。頑張って勉強や運動をしても意味が無いのなら、生きる意味も無い。ただ学校を卒業して、中小企業の正社員になっても、希望の格差は少しだけしか縮まらないだろう。
その少しが非常に大切なのだが、どうあっても心は無力感で穴が空く。希望の無い現実は空洞を通り過ぎるため、非現実的な夢で穴を塞ぐしかない。よって、無力な人ほど自己肥大感が発達しやすくなり、夢に耽る人たちが増大する仕組みとなっている。
努力は報われず、生きる希望は無いと知りながら、人は夢を見てしまう。
やるしかない。
◯死の憎悪
映画『JOKER』の主人公アーサーは、人気コメディアンを目指している。現実の彼は中年で貧乏で才能も無いが、いつか憧れのTV司会者と共演を果たす妄想をすることで、なんとか精神の正常さを保っていた。
夢を見ることで、希望の格差を埋めようとしていたのである。これはアーサーに限った話ではなく、我々が日常的に行っていることだ。例えばSNSで旅行の写真を上げたり、撮影した動画をYouTubeに投稿したりと、特別な体験を自慢することで希望の格差は埋められる。
その方法が妄想か体験かというだけで、我々とアーサーに大きな相違は無い。やっていることは同じだ。
しかし、中には他人に絶望を与えることで、希望の格差を埋めようとする者が現れる。こればかりは理解できない。いや、僕にも殺意はあるため気持ちは分からないでもないのだが、それを実行に移すためには相当な覚悟が必要になるだろう。
この『JOKER』評の目的は、アーサーがジョーカーになっていく過程を解き明かすことだ。人々を笑顔にしたいアーサーは、なぜ人殺しのジョーカーになったのか?
その決定的な瞬間は、自害の予行練習をするシーンにある。本当は自害の予行練習をしているわけではないが、便宜上そう呼ぶしかない。あのシーンに何の意味が含まれていたかは、映画『ファイト・クラブ』を参考に説明しよう。重大なネタバレ有り。
映画『ファイト・クラブ』あらすじ。主人公かつナレーターの“僕”は、自動車会社に勤める平凡な会社員。安定した収入で家具家電を買い揃え、お洒落なライフスタイルを実現するも、原因不明の不眠症に悩まされる日々が続く。さらに災難は重なり、自宅が火事で燃えてしまう。
どこにも行く宛の無い彼は、仕事で知り合ったタイラーに助けを求めた。事情を聞いたタイラーは救いの手を差し伸べるが、条件として「力いっぱい俺を殴ってくれ」と頼む。
“僕”は戸惑いながらも彼を殴り、そして彼から殴り返される。2人はボロボロになるまで殴り合い、最終的には奇妙な友情が芽生えた。その様子を見ていた酔っ払いが参加し始め、なぜか他の人たちも賛同者として集まり、いつしか地下で殴り合う「ファイト・クラブ」が結成される。
で、重大なネタバレをすると、“僕”とタイラーは同一人物だ。イケメンマッチョで自由人なタイラーは、“僕”にとって理想の姿、もう一つの人格だった。不眠症の原因は“僕”がタイラーとして活動していたからであり、自宅を爆破した犯人も自分で、最初の喧嘩も自分で自分を殴っていただけ。会社で真面目に働く“僕”も、実は夢見がちな性格だったらしい。
あらすじと真相を読んでも、意味が解らないだろう。普通に考えれば“僕”の行動に合理性を見出せないが、これら一連の物語は資本主義経済を支える、消費化社会の批判に基づく。
1920年代。工場での大量生産でモノはあっても、モノが売れない時代。当時の人たちは数着の同じシャツとパンツなど、最低限のモノしか必要とせず、世界経済は思うように回らなかった。
終戦後、疲弊した世界の人々は理想を追い求めるようになる。つまり、イメージ上での幸せな家庭像だ。それを実現するためには、モノを買う必要がある。次第に人々の購買意欲は上がり、消費化社会が到来した。
モノには付随するイメージによって自己をカスタマイズし、他人との差異を生み出してアイデンティティを確立する効果がある。消費が個性を演出していた。
しかし、現代社会はモノが溢れすぎていて、相対的に価値を低め合っている。もはやモノでは他人との差異を生み出せず、アイデンティティを確立する効果を失っていた。では、消費することの馬鹿らしさを知った“僕”は、どのようにして自己を形成するのか?
自分が生きている存在感が薄い“僕”は、生に対するリアリティを身体性に求めた。なぜなら生まれ持った身体は純粋であり、自己の存在を示す絶対的なものだからだ。その身体を痛めつけて傷つけることで、彼は自分が生きている感覚を得ようとしていた。
この自傷行為は狂っているように見えて、実は現実へ逃避しようとする試みだ。だが、逃避すべき現実の社会は、ありのままの自分を受け入れてはくれない。タイラーは自己の存在を証明する絶対的な価値を求めるため、他のすべてを否定する暴力的な手段で、自分が生きているリアリティを回復しようとする。
やがて「ファイト・クラブ」は勢力を拡大し、社会的権威に対する破壊工作を行うテロリスト集団に変貌していった。タイラーの正体と計画を知った“僕”は、後悔と自責の念からビルの同時爆破テロを止めようとする。
もともとタイラーの人格は、平凡な“僕”が生み出した憧れだった。自分にできないことをやってしまうタイラーを野放しにすれば、いよいよ肉体の主導権を握られてしまう。
最終局面。対面したタイラーは“僕”に銃を向ける。もはや勝ち目は無いかと思われたが、同一人物であるタイラーが銃を持っているということは、“僕”が銃を持っていることだと気づく。
そう認識するとタイラーが持つ銃は消え、代わりに“僕”の手に銃が握られていた。そして“僕”は銃を撃って自害し、タイラーは消滅してエンディングとなる。
しかし、自害したはずの“僕”は生きていた。つまり、彼は銃のトリガーを引いていない。“僕”は身体への自傷行為を通して、自分が生きている感覚を得ようとしていた。死に近づけば近づくほど、自分が生きていると実感できる。だが現実で死に直面した時、“僕”は死にたくないと思ってしまった。
タイラーは理想の“僕”だ。自分にできないことをやってのける知恵と暴力性を持つ。それでも死にたくないと思ったことで、かつて憧れていたタイラーを克服した。死を憎悪する心が、生のリアリティを回復させたのだ。
ここでやっと『JOKER』の話に戻れる。アーサーと“僕”には貧富の違いがあるものの、ジョーカーとタイラーという別人格を作り出していた点は共通するだろう。
アーサーが初めて人を殺し、公衆トイレに駆け込んで踊り出すシーン。あれは理想の自分を演出するための、自己陶酔ダンスだ。パンフレットでも監督が『ファイト・クラブ』に少し触れていたし、あながち的外れでもないはず。
で、だ。この話が自害の予行練習シーンとリンクする。“僕”は自分に向けて銃を撃つことで、死にたくないと思った。死の憎悪が最後のブレーキとして機能した結果だ。
対してアーサーは自分に向けて銃を撃っても、死にたいとも死にたくないとも思わなかった。現実の生に対するリアリティを完全に失い、また回復する手段も絶たれた状態をワンシーンで表現している。自分に向けて銃のトリガーを引くことで、最後の良心だったアーサーの人格を殺し、ジョーカーとして残虐非道な行いができるようになった。
本当に絶望した人間には、死を憎悪する心が存在しない。
むしろ価値あるものになる。
◯まとめ
僕は邦楽バンドの「マキシマム ザ ホルモン」が大好きだ。僕が笑う殺意の中で自分を殺していたと気づいた時、それを歌で救ってくれたのがホルモンだった。
ロックで勃たないインポ野郎を殺す「ロッキンポ殺し」からの、「ぶっ生き返す」。これを聴いてから、死んでいた感情、情熱、思い出も全て生き返った。音楽で人は殺せるし、音楽で人は生き返れる。もう自分は殺さない。ライブで「ぶっ生き返す」を聴く度に大泣き。
しかし、『JOKER』は生きるとか死ぬとかの、次元を超えている。この映画を見終えた時、僕は今まで信じていたものが崩れ去るような浮遊感に襲われた。
だからこそ、『JOKER』を観て救われた感想を持つ人のことが理解できない。マジで意味が解らん。どこに救われる要素あんだ?
でも、どうせ映画評を読むのであれば、僕は救われた人の映画評が読みたい。
つーわけで、どうやったらアーサーが救われるのか考えよう。
僕は今まで複数の映画評を書き、そのすべてにメッセージを書き残している。なぜなら、書いた先にある目的を果たしたいから。信じられる言葉が欲しい。要するに救われたいのだ。そのために感動を書く。
しかし、僕は『JOKER』で感動しなかった。むしろ絶望した。この映画は僕が映画評で書いたメッセージを、すべて紙クズ同然にできるくらいの攻撃力を持っている。よくよく考えてみれば、僕が扱った映画は若者メインなのが多い。
若者に向けて書くのであれば、ゾンビーズみたいに仲間を作れと伝えられる。しかし、おっさんに向けては何を書けばいいんだ? お前におっさんが救えるか? 『もののけ姫』のモロみたいになっちゃった。
僕もサンみてぇな美少女なら救いてぇが、おっさんを救っても何も無いじゃん。サンじゃなくて、ジコ坊を救うメリットある?
こちとらオヤジ狩りしてぇ今時の20代男性だ。包丁ハサミより俺のが刃物ぉ!
でも、今こうして映画評を書いている。なぜ? 絶望はダセーからだ。面白さを証明したい。
アーサーの絶望は今まで信じてきた者に、裏切られたことが大きな要因だろう。アーサーは母親から人々を笑顔にしなさいと教えられてきたが、その母親とは血の繋がりが無いどころか、幼い頃の虐待を見過ごされていた。
友達も恋人もいないアーサーにとって、母親は自分を承認してくれる唯一の存在である。だからこそ、母親の期待に応えようとしてコメディアンを目指し、生活も介護も世話してきたのだ。
またコメディアンの仕事を続けるにあたり、アーサーは人気バラエティ番組の司会者、マレーと共演することを夢見ている。仕事が上手くいかずとも、彼と番組を賑わせる妄想を楽しむことで、日々の心の支えとしていた。
だが、憧れのマレーからはネタを馬鹿にされる。それどころか人格を否定され、観客の笑い者にされた。もはやアーサーには、この世に信じられるものが何一つとして無い。
アーサーに対して同情する人もいるだろう。貧困、家庭環境、人間関係、精神疾患、非の打ち所が無いくらいにアーサーのことは誰も責められない。彼がジョーカーになったのは、社会全体が悪い。
しかし、これだけは言える。
自分が信じるものを、誰かに決めさせてはいけない。
これは僕の言葉ではなく、西加奈子の小説『サラバ!』に書かれた言葉だ。おっさんを救えるのは西加奈子先生だけ。オードリー若林のお墨付き。
アーサーは母親の教えに則って、コメディアンを目指した。百歩譲って、それはいい。だが、コメディアンになることを自分も希望していると、偽の自己を置き換えるのは絶対に駄目だ。外部から導入された受動的な思考を、あたかも自分の純粋な思考だと勘違いしてはいけない。
自分が信じるものは、自分で決めろ。信用している人に裏切られたとして、それは自分が信じるものを誰かに決めさせたアーサーが悪い。
……おかしい。絶望を捉え、メッセージも書いたのに、謎の違和感がある。
そうか。これは西加奈子先生の言葉であって、僕の言葉ではないからだ。僕の方こそ、自分が信じる言葉を自分で決めないと。
いや、それもあるが、大きな見落としがある。そう言えばラストシーンについては、一度も考察しなかった。監督のインタビューによると、最後だけアーサーは心から笑っていたらしい。どゆこと?
いろいろ考えていると、新しい情報が流れてきた。なんとアーサーの仕事道具であるネタ帳に、本編未公開で「キャットウーマン」の設定が書かれたページがあったとのこと。もしかしたら、アーサーはバットマンの原作者?
そう仮説を立てて調べてみるが、どうにも時代設定の辻褄が合わない。映画『JOKER』は80年代をモデルにしているため、39年に発刊されたコミックとは矛盾している。
ここまで考えて理解した。
『JOKER』はラストシーン以外、すべてアーサーの妄想だ。
もしも自分がバットマン世界に登場したら、という妄想を楽しんでいたわけである。妄想を楽しんでいたアーサーも妄想を楽しんでいたため、この映画は妄想の二重構造となっていた。ちょっと何言ってるか分からない。
監督は意地が悪いと、この仕組みに気づいた僕は思う。監督の妄想と合わせれば、『JOKER』は妄想の三重構造じゃないか。
いや、待て。よくよく考えてみれば、すべての映画作品は監督の妄想だ。映画だけじゃない。絵も小説も漫画も音楽も、こうなったら面白いだろうなと、願う表現者の妄想から創造される。
現実はクソだ。努力は報われず、生きる希望は無い。信じるものも見出せず、絶望は救われない。
未来を考えても不安になるだけ。立ち止まっては現実に追いつかれる。だからこそ、今を夢見てしまう。
妄想しても現実は変わらない。けど、今見ている景色は自分だけのものだ。その景色の中で、こうなったら面白いだろうなと、妄想すれば現実も自分の世界になる。
自分から見える景色。自分が妄想する世界。すべてが自己表現だ。
表現することで自分が救われていたのなら、誰かが救われる、救われないなんてことは、さして重要なことじゃない。てか、表現で誰かを救おうなんて無理。現実は何も変わらねーから。
ラストシーンのアーサーも、自分の妄想で心から笑っていた。
きっと、自分で自分を救っていた。
自分の人生を生きた。
いただいたお金は、映画評を書く資料集めに使います。目指せ3万円。