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「迷走」しながら「瞑想」して機嫌の良い大人を目指しているお話。

私が朝から瞑想をするようになって4ヶ月以上になる。

何事も続かない私にしては、我ながらよく続いていると思う。

きっかけは「引き寄せの法則」という本に、朝から15分の瞑想は1日を気分良く過ごす助けになるとあったからだ。

だから私は目が覚めたら、リビングで毛布に包まって静かに瞑想をする。

何も考えずに、ただじっと座る。

瞑想の時間はわずか15分。

しかし、起き抜けのボーッとした頭なのにも関わらず、私の思考は絶え間なく働く。それもかなり忙しくだ。

思考が働くというより、もはや暴走している。

さらには自分の思考が暴走していることにも気がつかず、時々「ハッ!」と我に帰ってビックリする始末。

なぜこんなにも、私の思考は忙しく働くのだろうか?

そんな単なる「迷走」とも言える私の瞑想だが、15分の間にほんの数秒ほど宇宙に漂うような瞬間に出くわすことがある。

思い返すとこの「フワッとした感覚」を、私は子供の頃はよく体験していた。

小学生になる前の私は、一人で遊んでいる時に何も考えてない「無」をよく経験していた。

しかも数秒といった短い時間でなく、何分というもっと長い時間だったと思う。

完璧な「無」から意識が戻った瞬間、自分が「何も考えていなかった」ことによくハッとしたものだった。

今思うと、あれは完璧な瞑想状態だったと思う。

誰に習ったわけでもないのに、上手に頭を休めることができていたのだ。

その頃の私は、今よりもっと時間はゆっくり進んでいるように感じていたし、やらなければならないことなんてなかった。

しかし、年を重ねるにつれ、習い事や塾、受験、仕事・・・・とやらねばならないことに忙しくなり、時間が飛ぶように過ぎていった。

忙しいのが当たり前になって、いつも次は何をすべきか段取りを忙しく考えるのが習慣になってしまった。

そしてついには、「ボーッとすること」を忘れてしまったのだ。

その結果、私はいろんなこと頑張り過ぎて、自分でも自覚しないまま不機嫌な大人になっていた。

自分が不機嫌な大人だと気がついたのは、楽しそうに好きなことをしている息子を見た時だった。

好きなことをしている時の息子は、こちらがどんなに声をかけても耳に全く入らない。

この状態を「夢中」とか、「無我の境地」と表現するのかもしれないが、ある種の瞑想状態とも言える。

きっと私も子供の頃は、息子と同じように夢中になって遊んでいたから「無」になる瞬間があったのだろう。

私はいつの間にか、「無」になる瞬間を失ってしまっていたのだ。

今は無心になれるほど好きなことがない私は、瞑想をすることで「無」を取り戻すことにした。

思考が休まれば、時間はもっとゆっくりと流れる。

急がされることがなくなれば、きっと気分は良くなって人生は豊かになるに違いない。

そうすればきっとご機嫌な大人になれるはずだから。







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