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愛する祖父母へ祈りを込めて (沖縄の終戦記念日)

もうすぐ沖縄の終戦記念日を迎える。
この世の地獄と言われた地上戦。沖縄の人々の祈りと悲しみは今も消えていない。

僕がこの日を毎年思い出すのは祖父母が奄美の出身だからだ。奄美は沖縄そのものではないが、地理的、文化的に沖縄にかなり近い部分がある。

当時、戦争が長引くにつれ、沖縄や奄美への空襲も熾烈を極めた。奄美には当時の日本軍の基地があったので、集中攻撃の対象とされたのだ。

すぐ頭の上を敵の爆撃機が飛ぶ中、他の大人たち同様、当時まだ子どもだった祖父母も必死に逃げた。防空壕の中で過ごす時間は生きた心地がしなかっただろう。

「あの恐ろしい光景は今でもよく覚えてるで」
当時の子どもの心に残った傷の深さを考えると、想像を絶するものがある。
会う度にそのことを話す祖父母に僕はかける言葉がいつも見つからなかった。

終戦後、祖父母は職を探し内地(本州)の関西へと越してきた。祖父は造船関係の企業に入り、がむしゃらに働いた。

毎日、仕事が終わると当時まだ珍しかった英会話スクールに通い、必死に勉強し、外国船の乗組員への対応などをこなし、社内でも大いに重宝されるようになった。祖母もそんな祖父を慣れない環境の中で支えてきた。

そんな祖父母の気持ちを苦しめるようになったのは、またもや抗いようのない「時代の波」だった。

戦後の混乱期を経て時代は高度経済成長へと突き進んだ。日本が豊かになるにつれて、若者の高校、大学への進学率も飛躍的に高まるようになる。この国は学歴社会へと大きく舵を切った。

企業に入社する高卒者、大卒者がどんどんと増え始めたのもこの頃からである。その波は当然、祖父の会社にも押し寄せてきた。

祖父のようないわゆる「中卒、叩き上げ」の世代から高学歴の若者へと急速に企業内での主軸が移ってきてしまった。

これまで語学力を高く買われ重宝されてきた祖父も単に「中卒」という理由だけで、その能力とは関係なく昇進等で企業内の若者に次々に追い越されるようになった。

祖父はこの時、どんなに悔しかったことだろう。辛かったことだろう。それを間近で見ていた祖母はいかにやりきれない思いだっただろうか。

祖父が僕たち孫へ唯一いつも口にしていたことは、「大学だけは出てほしい」ということだった。
それを口にする時の祖父の顔はいつもいいようのない悲しみで溢れていた。

自分より年下ばかりの上司の中で、祖父はよくがんばった。家族を支えるために懸命に働き、60歳の定年までその造船関係の企業で最後まで勤め上げたのだ。祖父はまさに努力の人だったのだ。

定年後は祖父母ともに孫である僕たちをよく可愛がってくれた。何かにつけて器用な方ではない祖父母だったと思うが、その溢れる愛情は僕たち孫には十二分に伝わった。

僕が高校受験、大学受験、就職試験に合格した時、家族よりも真っ先に電話したのはいつも祖父母だった。その都度、祖父は泣いて喜び、祖母はそんな祖父を微笑ましく見ていた。

と、ここまでが祖父母と共有してきた僕の思い出である。これからどんな思い出を作っていくことができるだろうか。

残念ながら祖母は数年前に病気でこの世を去ってしまった。最後まで病気と闘う祖母の姿はやはり立派だった。

お別れの日、僕は棺桶の中で眠る祖母の手にそっと、
「よくがんばったね。今までありがとう」と書いた手紙を置いた。

今年90歳になる祖父は今も健在で施設で暮らしている。少し認知症が出てきて自力で歩くのもおぼつかない。

月に1度、祖父のいる施設に行くと、
「毎日、寝てたら死んだばあちゃんが夢に出てきてな、全然寝られへんのや」と言う。
「一緒に色んなとこに旅行にも行ったしなぁ」
涙もろくなった祖父の瞳が潤む。

そんなに大切に思い合ってきたんやな···。

気の利かない僕はまた返す言葉が見つからなくなる。ただただ祖父と祖母をもう一度会わせてあげたい。でもそれは祖父が僕のいる世界からいなくなってしまうということ。

だから祖父に会うと僕はいつも言いようのない複雑な気持ちになってしまうのだ。
自分の気持ちさえ分からなくなってしまうのだ。

時代の波に翻弄されながらも懸命に生きてきた祖父と祖母。運命が祖父を迎えに来る時が来れば、天国にいる祖母は真っ先に自分の住所を書いた手紙を祖父に送ることだろう。

これはそんな未来の2人に捧げる愛のnote。
祈りを新たにする日。沖縄の終戦記念日。




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