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つれづれなる恋バナ 第七章 まことの心【歴史長編恋愛小説】

第七章 まことの心


 延慶四年(一三一一)の年が明けた。
 正月三日、花園帝の元服式が二条富小路内裏にて盛大に執り行われた。それは持明院統の権威を誇示する格好の式典であった。式次は当然花園帝の取り巻きが主導して進められ、伏見院の庇護を受ける貴族たちが得意顔で若き帝を見守った。その中には、権大納言に複したばかりの京極為兼の姿もあった。
 めでたい雰囲気の中で一年が始まったが、朝廷の実権は持明院統の手の内にあることが、改めて天下に示された年明けとなった。
 一月下旬。官職を辞した堀川具守は、岩倉の別邸に入った。ここで悠々自適の隠居生活を始める。引越しは家司の卜部兼好が取り仕切った。
「兼好、このたびの家移の諸々の手続き、ご苦労であった」
 大広間に兼好を呼び寄せた具守が、兼好を労う。
「疲れたであろう。今日はここに泊まるがよい」
「ありがたく存じます。大納言様のご家移が滞りなく済み、安堵しております」
 ほっとした表情を浮かべる兼好。具守は官職を辞しても、引き続き大納言の尊称で呼ばれる。
 兼好は引き続き二条大路の堀川邸にて家司の業務を行う。ただ、具守からは頻繁に別荘を訪ねるよう命じられている。例の代筆業務に充てるためだ。自分の字が具守の字だと咲子に認識されている以上、この仕事に終わりはない。年末には、咲子への新年の祝い文の清書をした。代筆ももう四年目だ。
「数日前に一条から返書が届いたが、こう書いてあった。三月までには引っ越します、とな」
「ついに一緒にお住まいになるのですね」
 咲子が別荘に越してくることを決意したようだ。通い愛の日々は終わり、ついに二人は同居生活を始める。三月までの猶予を訴えたのは、一人娘ゆえ、少しでも両親と一緒にいたいのだろう。
「名目上は、あくまで女中の一人じゃ。この広い屋敷の別館の一室に住まわせる。引き続き、景子にはばれぬよう、ぬかりなくやっていくがな」
 妾となれば本妻景子の知るところとなり、すぐに引き裂かれるだろう。これまで通り愛人の扱いで別荘内でも秘密裏に交際を続けるという目算だ。そして咲子も、その境遇を受け入れた、ということなのか。
「彼女の引越しの際には、お前が主導してくれ。よろしく頼むぞ」
「かしこまりました」
「ああ、今すぐにでも会いたい。迎えの牛車を遣わしているが、もうすぐやって来るころじゃろう」
 引っ越して早々、具守は早速咲子に会いたがっている。今日の岩倉入りには日用品を一緒に持ち込むため、具守はいつもと違う大きめの牛車に揺られてきた。同時に、咲子のもとに通ういつもの牛車を、唐橋邸まで走らせた。引き続き秘密を維持するために、全く持って抜け目ない。手配したのは、もちろん兼好である。
「兼好、このたびの働き、見事であった」
「はい、私は、大納言様と一条どのがこれからも幸せにお過ごしになるのを、願っているのみ。そのための仕事は一切惜しみません」
 兼好は二人の愛が深まるために尽くす業務に、すっかり慣れ切っていたのである。
 するとそこに、噂をすればなんとやら、咲子のもとに遣わした従者が入ってきた。なぜか浮かぬ顔をしている。
「大納言様、申し訳ございませぬ。一条どのが……」
「一条がどうした」
「風邪をひいているから、今日は参じることができぬと」
「まことであるか」
 その言葉に、具守は悄然として肩を落とした。従者によると、咲子の両親が応対し、「咲子は床に臥せている」と告げたそうだ。咲子が体調を崩すとは珍しいことである。兼好にしても、出会って以来、元気で健やかな咲子しか見たことがない。
「このようなことは初めてじゃ。一条が気がかりでならん。この前の返書には、久々に基子の屋敷を訪れ、思い出話を語ったと書いていたのに」
 かつて仕えた西華門院基子の住処を訪問したということは、最近まで元気だったということになる。それにしても、咲子が高貴な前大納言の誘いを断るのはこれまでなかったことだ。具守は戸惑いの顔を隠せない。
「心配じゃ。兼好よ、明日、帰るついでに見舞いに行くがよい。見舞い品を持たせるゆえ」
「かしこまりました」
 深々と座礼をした兼好を前に、具守は必死になって平静さを装おうとしていた。

 翌日。兼好は見舞い品を担ぐ従者とともに、岩倉の堀川別邸から上京の唐橋邸までの二里(約八キロメートル)の道筋を歩いた。
「ごめんください。大納言様の名代で一条どののお見舞いに上がりました」
 玄関口でそう声を張ると、すぐさま咲子の両親が出てきた。母親が土産品を持つ従者を邸内に上げ、父親の誘導で兼好は居間へと案内された。
 そこには、腰を下ろした咲子がいた。兼好の突然の訪問に、驚きと戸惑いの表情が交錯している。
「兼好様、わざわざお越しいただいて」
 丁寧に頭を下げる咲子だが、床に臥せっていると聞いていたのに、横になっていた形跡はない。しかもここは具守と逢瀬を重ねてきた奥の自室ではない。普通に客と接する居間である。
 見た感じ、体調がすぐれないふうには感じられない。兼好ははてと疑問を抱いた。
「咲子さん、風邪をひいているんじゃ」
「ごめんなさい。私、風邪なんかひいていないわ」
 咲子の答えに、兼好は体を仰け反るほどの驚きを見せた。仮病を使ったというのか。
「ならどうして、お誘いを断ったの?」
「気が向かなくて」
 咲子はそう言うと、大きな瞳を下に向けた。口を小さく開き、放心しているように見える。兼好はすぐには言葉は見つからない。だが何か声をかけねばと思い、必死に言葉を探した。
「大納言様は、とても心配していたよ。お見舞い品をお預かりしているから、ぜひ」
「なんともありがたいお気遣いで恐縮だわ。ご心配するほどの病ではございませんと、手紙を書くつもり」
 咲子はうつむいたままの姿勢で淡々と答える。いつも兼好と話す時はうっすらと笑みを浮かべるのが基本線なのに、今はその気配は全く見受けられない。
「咲子さん、何があったの?」
「何がって?」
「外に出たくないほど、嫌なことがあったのかなと思って」
 兼好の問いに対し、咲子は軽く首を振るのみである。その時兼好には、主人具守が話していたことが浮かんだ。
「そういえば最近、西華門院様の元を訪れたんだよね。その時に何か…」
「何もないわよ」
 咲子は珍しく声をうわずらせ、上目遣い気味で兼好を見つめた。それは兼好にとっては今まで見たことのない鋭い目つきに見えた。
「ごめんなさい、大きな声を出して」
「いや、いいんだけど。ねえ咲子さん。以前、あなたには何でも話せるって言ってたよね。誰にも言わないから、どうして気が向かなかったのか、遠慮なく話していいよ」
「ありがとう」
 少しばかりお辞儀した咲子だったが、それでも話す気配はなく、また黙ってしまった。
「大納言様には当たり障りなく、『たしかに風邪だったけど決して重くはなくあと一日二日で快復できそう』って伝えるように従者に事づけるから」
 兼好がそう言うと、咲子は小さく小さく頷いた。少しの時間が流れ、絞り出すような声で咲子がつぶやく。
「兼好様、優しいのね、相変わらず」
「えっ」
「どうしてそんなに優しいの?私のことをここまで労ってくれるの?」
「それは……」
 逆に問い返され、兼好は一瞬尻込みする。
(急になんでそんなことを)
 まごつきながらも、やっとこさ言葉を捻りだす。
「大納言様が、すごく心配しているからだよ。私はご心配を少しでも和らげないといけないから。それが私の『仕事』なんだ」
 兼好は至極当然のことを言った。
「そうだよね、そういうことだよね。ごめんね、変なこと聞いちゃって」
 これも仕事の一環だと兼好は捉えているのだと、咲子は受け止めたらしい。
「とにかく、臥せてなかっただけでも安心したよ。たまには気が向かないときもあると思う。今日はもう失礼するから、どうか焦らずのんびり過ごしてね」
 今はそっとしてあげないと、という意識が働いた兼好は、すみやかに発つことを告げた。これも兼好にとっては自然な言い分である。
「うん。重ね重ね、ありがとう」
「外まで見送らなくていいから。では、これにて」
 兼好が立ち上がると、咲子は座ったまま深々と頭を下げた。
 玄関先で従者に伝言し、岩倉へと発たせた。家路に向かうべく、唐橋邸を出て一条大路を歩く兼好は、咲子の体調自体は問題ないことに安堵した。
 だが歩きながら、ふと気づいた。
(淡々としていたな、私は)
 咲子を前にしたのに、心がうずく緊張感は今回はなかった。いつもなら、過剰なほどに咲子のことを心配していたはずなのに、今日は主人具守の使いとしての仕事に徹した味気ないやりとりだった気がしたのだ。
 咲子に対する沸き上がる思いを、切なさを内包したあの思いを、不思議と今日は自分の中に感じなかったのだ。
 戸惑いの感覚のまま、兼好は実家に向かっていた。

 あっという間に三月になった。
 都では桜の花が開き、通りを歩く人の群れはどことなく明るく賑々しい。だがそんな都大路を避けるかのように、卜部兼好は都の東の白川路を歩いていた。
 まだ夜明け前のうちから神楽岡の実家を発ち、白川路を北上し、昼前には岩倉にたどり着いた。堀川別荘に入った兼好は、広間の具守に面会する。
(三月中に咲子さんが移ってくるのであれば、もしかして今回が最後の代筆になるかもしれない)
 その思いを秘めて主人と向かい合うと、具守が口火を切った。
「今日は代筆はしなくてよい」
 意外な一言だった。その口調には、覇気はない。
「あれから私は気を遣い、一条には『無理して参じる必要はない。ゆっくり養生するがよい』と文で伝えてきた。対して一条は、引越しまでには体を整えると返してはいるが……」
 具守は視線を落とす。その先には文机があり、真っ白なままの和紙が置いてある。下書きを書くつもりが、全く手をつけていないようだ。
「一条はここに住むつもりはないと、私には思える」
「何ですと」
「前々から感じておった。彼女は私に無理して合わせていると。私に麗しい笑顔をふりまきながら、私を安心させるのに腐心しておるとな」
 具守はそっと目を閉じ、心当たりを打ち明けた。
「そのようなことはないと思います。一条どのは、ただ単にお疲れなだけかと」
「兼好、お前は先日一条に会っている。彼女の本心は知っておろう」
 目を開いた具守は、瞳を兼好に鋭く光らせた。一瞬ひるんだ兼好だったが、正直に応えた。
「何か想うことはあるように見受けられましたが、打ち明けられることはなく」
 そう言うと、具守は「そうか」とつぶやくと、ふたたびまなこを閉ざした。
「私は一条に無理をさせすぎた。身分も遠く、三十四も年が離れているうえに、逢瀬は固く秘めねばならなかった。それでもいつもにこやかに私と向かい合ってきた。彼女は明るく利発ではあるが、繊細な面も持ち合わせておる。だからこそ私は心より可愛がってきた。だが今さらながら、彼女に負担をかけてきたことを悔いておる」
「大納言様……」
「私は調子に乗っていた。若く麗しき女が私に心も体も添わせてくれて、老いた私はただ有頂天になっていた。一条は、こんな私を嫌いになったのではないか」
「そんなはずはございません。どうかお気を確かに」
 兼好は咄嗟に主人を慰める言葉を吐いたが、そう言ったところで何の癒しにはならないことは察して余りあった。これ以上の会話のやりとりは続かず、主人と家司は三十秒ほどうつむき合った。
「今は何も書く気がしない。今日はお前の仕事はない。帰ってよいぞ」
 沈黙を破った具守はすっと立ち上がり踵を返す。しばらく立ち尽くしたままだったので、兼好はただ何がなしに視線を六十三歳の背中に向けた。すると具守は振り向きもせず、
「兼好、気になるなら、一条の様子をみてまいれ」
「えっ」
「お前に任せる」
 と言って、鈍い足音を立てながら縁廊を歩いていった。広間中央に置かれた文机に、白紙のままの下書き用紙が残された。
 兼好もまた、深々と一礼した後、広間を後にした。
 結局何もすることなく、兼好は別荘を出た。
 その足は、自然と上京へと向かっている。一条大路の唐橋邸だ。
 気がつくと、朝方には晴れていた空に、雲が広がっている。どんよりとした雨雲である。間もなく雨が降るかもしれない。せっかく桜が満開になったばかりの時候なのに、花散らしの雨になるのであろうか。
 唐橋邸の門前にやってきた。考えてみれば、一人でやってくるのは初めてのことだ。

 門をくぐると、咲子がいた。
 小さな庭の小さな池泉を、ぼうっと眺めていた。
「咲子さん」
 兼好がそっと囁くと、咲子ははっと振り向き、まなこを大きく開いた。
「兼好様……」
 咲子はそっと近づく。兼好もまた歩み寄る。庭の真ん中で、三尺(約九〇センチ)ほどの間を空けて二人は向かい合う。
「大納言様から言われたんでしょ、様子を見て来いって」
 いきなり図星を突かれ、兼好は戸惑いつつも、「ああ」とだけ答えた。
「私、やっぱり岩倉には行けない」
 咲子がついに胸の内を表明した。予想はしていたが、とっさに兼好は問いを投げた。
「どうして。どうしてなんだい?」
「苦しくなったの。違う自分を繕って、大納言様の良き女を演じることが。私、全然器用じゃないの」
「自分を偽っていた、と言うのかい」
 兼好の問いを重ねると、ひとつため息をついた咲子はゆっくりと口を開く。
「大納言様、いや具守様は、私を心から愛してくれた。だから、私も具守様を愛したの。愛されるって、なんて心満たされるんだろう。どんな果実よりも甘く、どんな芳香よりも爽やかな匂いがして、抱かれれば抱かれるほど身がとろけるような気がして。男に愛されることが、女の極上の幸せなんだって心の底から思った。だから私も具守様に全てを捧げたの」
 赤裸々な告白に、兼好はごくりと息をのむ。
「でも、私はいつしか自分を失っていた。あの人のそばに、本当の私ではない自分が寄り添うようになったの。無理して微笑を作り、無理して愛される女を演じていた。賀茂祭の時、牛車の中で『岩倉にて永遠に過ごそう』と言われた時、私は光栄と困惑が入り混じってしまった。その時から、私は心に違和感を感じながら、あの方に抱かれてきたの」
 ずっと心にためていた思いを、咲子は唇を震わせながら吐き出している。兼好は引き続き、黙って耳を傾けるほかない。
「愛されているのに、自分はどんどん愛せなくなってしまう。これって愛ではないって気づいてしまって。真剣に愛してくださる具守様に申し訳なくなってしまって」
 そこまで吐露したところで、咲子の口は止まった。
 しばらく黙していた兼好だったが、伏せた咲子の目をじっと捉え、ゆっくりと声を発した。
「大納言様がお待ちなんだ。とにかく、岩倉に行ってほしい」
「えっ」
 咲子の耳に伝えたのは、咲子の必死の思いを遮るような、氷のような一言だった。
(なぜはっきりそう言えるのだろうか)
兼好自身、自分の発言に戸惑った。あれほど恋焦がれていた女なのに。なぜ今はこんなに冷徹なのか。具守もまた自分の行いを悔み苦悶している。そうと知りながら、黙って大納言の元へ行きなさいと諭している。お互いの苦痛を知っているはずなのに。
 次に出たのは、こんな言葉だった。
「私は常に、大納言様と咲子さんのお二人の幸福のために、これまで働いてきた」
「私と具守様の幸福のために?」
「ああ、そうだ。あなたがたが寄り添い続けるのは、私の責任なんだ。咲子さん、あなたの岩倉別荘への引っ越しは、あなたに関わるこれまでにない重大な仕事になるだろう。すぐにでも荷造りしてほしい」
 この期に及んで、兼好は咲子への積もる感情を忘れたかのように、「業務」として厳しく速やかなる引越しを求めたのである。
 咲子は顔を上げた。真顔だった。その目には、炎がほとばしっているように見えた。激烈と切なさが入り混じった、怯えるような不思議な炎が。
「ねえ、兼好様」
「ん?」
「私、知ってしまったの」
「知ってしまったって、何を?」
「具守様が差し出してくださったお手紙、すべて兼好様が代筆したんでしょ」
「……」
 兼好の全身の毛穴から、汗がだらりと沁み落ちる感覚がした。そして口をぽかんと開いた。
(なぜわかったんだ……?)
 全てがうまくいっていたはずだ。一体なぜ、咲子は最大の隠し事に気づいてしまったのだろうか。
「今年の正月に、西華門院基子様のお屋敷を訪れた時に、わかったのよ」
 西華門院という意外な固有名詞が出て、一瞬はてなとなったが、
(あ、まさか!)
 そう心で叫んだのとほぼ同じく、咲子が言葉を続けた。
「基子様と昔の思い出話をしていたら、先帝の追悼歌集を見せてあげるとおっしゃったの。歌人の方々が詠まれた直筆の原稿の束を手渡していただいて」
 先帝後二条院の追善供養歌集のために、兼好は西華門院基子に一首和歌を提出した。その原稿が時を経て、咲子の目に留まったのだ。
「あなたの和歌を拝見した時、すぐに分かったわ。この字は、具守様の手紙と同じ筆跡だと。具守様からは何通も頂いてきた見慣れた字だったので、はっきり確信したの」
 まさか、このような形で代筆の事実が露見してしまうとは。衝撃のあまり、兼好からは何も言葉が出てこない。
「どうして、そういうことをしたの」
 当然糺されるべき問いである。具守と二人で、実質的に咲子を欺くことをしていたのだから。
「それは……丁寧な字の方が、咲子さんが喜ぶだろうと大納言様が仰ったから」
 事実を述べたのだが、咲子は全く納得している様子はない。
「咲子さん、本当に申し訳なかった」
 深々と頭を下げる兼好。その間、咲子の視線が自らの黒い烏帽子のてっぺんに刺さるように向けられているのを感じる。
「謝らないで。謝ってほしかったわけじゃないから。あなたは忠実に仕事をしただけでしょ」
 その言葉を耳にし、わずかな安心感を得て兼好は表を向き直る。だがそれは一瞬の思い過ごしだった。目が合った咲子は、憂いの表情をたたえていた。
「私、具守様の手紙を全て読み返したわ。すると、具守様でなく、あなたが語り掛けているような気がして仕方なくなって」
 あの直線的な具守による愛の言霊が、咲子は兼好による想いの発露のように映ったのだ。
 その瞬間、咲子の瞳は潤み始めた。
「兼好様、教えて」
「何をだい」
「あなたの気持ちを、具守様の文に託していたの?」
 きらきらと輝きだした黒い瞳を向けられ、兼好の表情は固まっていく。
 同時に、どんよりとした空から、ぱらぱらと小雨が落ちてきた。
「そんなわけはないよ。大納言様が下書きを書いて、それを忠実に清書しただけなんだ」
 これも紛れもない事実だ。なのに言葉に力は入らなかった。それは具守の下書きの文言と、自分の気持ちが「共鳴」していたからだ。
 その共鳴を、咲子ははっきりと察していた。
「あなたと具守様の気持ちが、同時に乗っかってるみたいで。もう重くて苦しくて。手紙を読むのが辛いの」
(辛い……)
 咲子の瞳が一段と輝きを増す。その魅惑の唇は、上下に震えている。
「私、それからずっと、兼好様、あなたのことを考えるようになったの」
 その時、ぱらぱら降りだった雨脚が若干強くなった。ぽつぽつと肩の上にはっきりと落ちる感覚が伝わる。
「あなたへの思いがどんどん膨らんでいったの。自分でも不思議なくらいに。一月にここに来てくださったとき、気がソワソワしてしまってた。それで、私、気づいて」
 咲子の顔が不安と緊張で溢れかえった。前回、兼好に見せたつっけんどんな態度は、揺れる思いを包み込んでいたからだったのか。
「兼好様。今まで、あれだけ私にやさしく尽くしてくれたのは、どうして?」
 小声ではあったがはっきりとした意志のある言葉だった。最後の「どうして」の言葉が妙に細々として弱々しく、かえって艶を感じた。
「それは、仕事をしたまでで……」
 そこまで言ったところで、咲子が遮った。
「うそでしょ」
「うそじゃない!」
 兼好はつい声を荒げてしまった。だが咲子は全くひるんでない。宝石のように瞳を輝かせたまま、微動だにせず兼好を見つめる。兼好は続ける。
「私は堀川家の家司だ。具守様にご満足いただけるために私は精一杯働いてきた。それは咲子さんを満足させることでもあるんだ。何度でも言うよ。私は、具守様と咲子さんが幸せに過ごしてもらうために……」
 咲子の瞳から一筋の涙がこぼれた。それをはっきりと見た兼好は、つい言葉を止めてしまった。
「本当のこと言って!」
 また涙の粒が落ちた。二つの瞳は、哀愁を帯びて極上の煌めきを放った。思わず見とれながら、兼好は力なくつぶやく。
「だから、咲子さんが……」
 兼好が言い終わらぬうちに、咲子の身体がふわっと浮いたように動いたかと思うと、真っ直ぐに兼好の身体に迫った。
「兼好様……」
 涙に濡れた咲子の右の頬が、兼好の胸にふれた。狩衣に顔をうずめ、しくしくと嗚咽をこぼし始める。
「咲子……」
兼好から「さん」という言葉が出なかった。結果的に初めて、咲子のことを呼び捨てにした。
 その時、糸のようにくっきりと線を描いた雨が、二人の体に次から次へと刺さった。庭の草木にも注ぎ、雨音となって二人の耳にこだましてくる。
 兼好はそっと両腕を、ふんわりとやわらかな咲子の体を包み込む。咲子もまた、小袖からのびた、しなやかなたるみを帯びた両腕を兼好の背中に添わせる。
 咲子は、嗚咽のまま何も言葉を発することができない。兼好もまた無言で、雨音だけを聞いている。
 五秒、十秒……。抱きしめ合った二人は、ピクリとも動かない。ようやく兼好が左手を咲子の後頭部にふわっと当てて、そして二、三度撫でる。
 嗚咽を止めた咲子が、そっと顔を上げる。涙で濡れた頬に、今度は雨粒が落ちる。雫の麗しい調べに、兼好は思わず見とれる。
「咲子さん」
 ようやく声を絞り出した兼好。今度は「さん付け」に戻った。
「私は、具守様を、裏切れない……」
 咲子はまなこを大きくしたまま、口をわずかに開き、じっと聞いている。
「大納言様に逆らうようなことは、決して許されない。申し訳ない」
 その時、包んでいた咲子の体温が、すうっと冷えていくような感覚がした。狩衣に濡れ伝わる雨の冷たさも手伝って、兼好の体熱もまた下がっていくのを感じた。
 咲子の身体を絡めていた両腕を、兼好は静かにほどいた。それを受け、咲子の両腕もまた、まっすぐに垂れ下がる。
 直立して向き直った二人の間に、絹糸の雨が降り注ぐ。
 咲子の瞳に宿っていた煌めきは、もう消えている。乾いた涙の海から、もう雫はこぼれない。
「わかったわ……」
 咲子はこの一言をこぼすのがやっとだった。降り注ぐ雨は咲子の長い黒髪をさらに濡らしていく。あの弾けんばかりの明るい笑顔とはあまりにかけ離れた、感情を忘れたような無表情は、それでも美しさに富んでいる。そんな憂いに満ちた表情にすらときめきそうになる心に必死に蓋をしながら、兼好は短い言葉を発した。
「もう、帰るね」
「うん……」
 うつむいたままの咲子に、兼好は暇を告げる。強くなる一方の雨が、二人のこれ以上の言葉のやりとりを妨げているかのようでもある。
 雨に打たれて、二人ともまだ放心している。咲子に背を向けた兼好は、ゆっくりと正門へ向かう。活き活きと咲いていた花がむなしく枯れてしまったように、生気も潤いも失ってしまった咲子は、兼好の背中を見ることなくつむいたままである。
 門を出た兼好は、雨粒をかきわけるようにゆっくりと、背を丸めて一条大路を進む。咲子は立ち尽くしたまま、動けない。その白い肌を包んだ小袖に、雨が滝のように絶えず流れていく。
 雨雲が京の空を染めつくし、雨は全く止む気配はない。これで、桜の花びらは散ってしまうのだろう。


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