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つれづれなる恋バナ 第二章 笑顔と涙と【歴史長編恋愛小説】

第二章 微笑みと涙と


 十一月の夕暮れ近くの風が、古い邸宅の中にも伝わってくる。今日の風は凍えるような冷たさである。
 鴨川の東、神楽岡にふわっと盛り上がる吉田山。その山辺にひっそりと建つ卜部家では、居間に家族全員が勢ぞろいしている。
 縁側に腰を下ろした卜部兼好と向かい合うように、上座に父の兼顕、継母のとみが座している。兼好の向かって右には弟でとみの実子の兼雄、左には長兄であるが幼くして出家し、天台宗寺院にて修行に励む慈遍(じへん)がいる。三兄弟はいずれも母親が異なる。
 複雑な家庭ながらも決して仲が悪くはない五人が勢ぞろいするのは久々のことである。にもかかわらず、室内には重々しい空気が充満している。長く沈黙していたが、家長の兼顕がようやく口を開く。
「帝におかれては、なんともおいたわしいことであった」
 力のない声だった。兼好ら一同は揃ってうつむいたままで、それに続く言葉が見当たらずにいる。
 三ヶ月前の徳治三年(一三〇八)八月二十五日。後二条天皇が崩御した。
 二月より体調を崩して床に臥せていたが、快復するに至らず、八月に入り容体が急変、ついに帰らぬ人となった。二十四歳の若さであった。
「帝のご快癒を基子様は懸命にお祈りになっていた。祈祷もたびたび行われてきたが、思いが届かず誠に無念である。我々の力が及ばなかったことがなんとも申し訳ない」
 兼顕は朝廷の祭祀を司る官庁である「神祇官」に勤務し、宮主(みやじ)という皇族の神事に関する行事に携わる神官の座にいた。腰痛の持病があり二年前に退官。現妻の子である三男の兼雄が父の職を継ぐ形で神祇官宮主として勤めている。兼顕は、帝の平癒が叶わなかったことを、日々の祈りが足りなかった自らの不明だと深く恥じている。
 父の苦悶の表情を目の当たりにした兼好が、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「鎌倉でも、人々は嘆き悲しんでおりました」
 実は兼好は今年鎌倉に出向していた。五月に東下し実に半年滞在、昨日帰京したばかりだ。神官の家柄である卜部家では、武家政権・鎌倉幕府の本拠地に一族の者が出張し、鎌倉の新興の神社で催される各種神事に携わる習わしがある。このたび庶流の兼好にも役目が回り、朝廷に蔵人の休職を申請して鎌倉での神官業務に従事してきた。五年前にも同じ理由で鎌倉に下り、その時は実に一年半滞在している。
 前日帰宅したばかりで疲れは残っているものの、東国での任務を終えた兼好を今は離れて暮らす兄と弟がねぎらいに駆けつけていた。本来なら歓迎の宴となるはずが、服喪中のためそんなわけにはいかない。さらに、宮廷の職務と堀川家家司という二足の草鞋の日々に早速戻るはずであるが、帝の崩御により、状況は一変してきている。
「ご崩御の翌日には、皇太子の富仁親王様が帝の地位を受け継がれた。今月十六日には即位礼が控えている。我々は今後、肩身が狭くなるであろう」
 わずか十二歳で新たに帝位に就いた富仁親王は、第九十五代花園天皇である。先帝・後二条天皇とは異なる系統である。
 この時代、皇室には二つの系統が存在し、相対立していた。「持明院統」と「大覚寺統」である。第八十八代後嵯峨天皇の二人の皇子、後深草天皇と亀山天皇を巡る皇位継承問題に端を発し、後深草を祖とする持明院統と、亀山を祖とする大覚寺統が対立。そこで鎌倉幕府が調停に入り、両統から交互に天皇を出す「両統迭立(りょうとうてつりつ)」の体制が出来上がった。ちなみに持明院は花園天皇の父・伏見上皇が、大覚寺は後二条天皇の父・後宇多天皇が、退位後に居住し院政を行った寺院である。
 卜部家が代々仕える堀川家は、具守が先帝・後二条天皇の祖父、基子が母であり、大覚寺統と密接につながっていることは紛れもない事実だ。だが新帝・花園天皇とはさしたる接点はなく、皇位が持明院統に移った今、堀川家が冷遇されるのは確実と言わざるをえない。堀川家を大きな後ろ盾とする卜部家にも、影響は避けられないだろう。
「今後、どうなるかのう」
 ため息をつきながら、兼顕はがっくりと肩を落とす。我が家の行く末に、暗澹たる気持ちに陥っている様子だ。
(悩んでも何も始まらない。やるだけのことをやるしかない)
 今できる最善を尽くす。それ以外に何があろう。
「父上、明日宮廷に参内いたします。復職し、引き続き蔵人の仕事に全力で臨みます。我が家のことは、私にお任せください」
 兼好は普段は沈着ながら、気がはやるとつい大言壮語してしまうことがある。卜部家を安定させる策があるわけでは全くない。でも、動かないと何も始まらない。まずは宮廷に赴き、自分の持ち場を死守せねば。兼好は自分にそう言い聞かせ、どんより暗い家族会議を断ち切るかのようにすうっと立ち上がり、自室に戻り明日の支度を始めたのだった。

 翌日、兼好が向かったのは、太政官庁だった。十日後に即位礼が催されるとあり、多くの役人が準備作業に駆けまわっている。儀式の中で新帝がお座りになる高御座(たかみくら)の建造が急ぎ進められており、資材を組み立てる物音や内匠たちの威勢のいい声が官庁内に響き渡っている。
 蔵人所は、この官庁内にある。蔵人たちを束ねる蔵人頭が役所にいるはずだ。そこで帰京の挨拶を行い、復職願を提出する算段なのだが……
「どうした兼好。何の用だ」
 役所に顔を出すなり、居合わせた蔵人頭の第一声がこれだった。
「はい。鎌倉から無事帰洛いたしましたことの報告と、改めて蔵人の職を務めさせていただきたく、お伺いに参りました」
 丁寧に答えた兼好に、蔵人頭は言い放つ。
「もうここにお前の居場所はないぞ」
「え?と申しますと」
「帝の代替わりに伴い、蔵人の人員も一新されることになった。これまでの蔵人は大半がお役ご免だ。即位礼までにその旨の通知が届くようになっているから、そのつもりでおれ」
(私は職を解かれるということか) 
 兼好は唖然とした。そもそも蔵人の勤務年限は六年だ。兼好の場合、先帝が即位した正安三年(一三〇一)に任官したが、鎌倉滞在により計二年休職していたので少なくともあと一年は任期が残っているはずだ。にも関わらず 蔵人頭は得意げな顔で続ける。
「これから蔵人衆は、新帝の取り巻きの有力公卿の息のかかった者で占められる。これも時代の流れってやつだ。まあ俺はこうなることを見越して、先帝側にも新帝側にもいい顔をしてきたからな。おかげで職を保てたってもんだ」
 部下の解職をあっさり宣告したかと思えば、自分の世渡り上手ぶりを自慢し始める始末。先帝はもう長くないとみて、こっそり根回しをしていたということか。こんなひねくれ者の上司だったとは。役人としてはそつなく仕事をこなしていたのだが、醜い本性を見た思いがした。
「わかりました。今までお世話になりました」
 悔しい思いを押し殺しながら、兼好は蔵人頭に一礼し、役所を後にした。官庁に戻った途端、あっけなく職を失ってしまった。帝の代替わりに伴う厳しい現実を目の当たりにし、通りを歩く足取りはどんよりと重い。
 父、母、兄弟を前にして一層奮起すると誓ったばかりなのに。蔵人の仕事を死守するつもりで官庁に赴いたのに、いきなり出鼻をくじかれた格好だ。家族にどう顔向けしようか。
 気持ちがまだ落ち着かぬまま、次なる目的地へ進む。それは二条高倉殿。先帝の生母、堀川基子が住まう後宮を訪問する。またそこは侍女としてあの女性が住み込みで勤めている場所でもある。

 後宮は静まり返っている。即位礼の準備で慌ただしかった太政官庁とはあまりに対照的だ。
 先帝はこの御所で臨終してから二日後の八月二十七日に「後二条院」と追号され、北白川にて荼毘に付され、その地に建てられた陵墓に埋葬された。なお新帝は太政官庁で即位した後は持明院にて政務を行うという。実質的に持明院に君臨する父君の伏見院(上皇)による院政となる。なお二年前に火災に遭った二条富小路内裏は、ゆくゆくは鎌倉幕府の援助により再建され、新帝の元服後に御所として復活することが噂に上っている。
 いずれにせよ、先帝を失ったこの高倉の御所は、後宮も廃され基子ら後二条院の遺族と侍女たちは立ち退くことになるだろう。すでに人員整理は進んでいるらしく、後宮のあまりの静けさは、その事実を物語っているかのようだ。
(基子様に仕える者はだいぶいなくなっているのではないか)
 人気を全く感じない後宮の正面口に達した時、兼好はそう思わずにはいられなかった。
(咲子さんも、出ていったのかもしれない) 
 基子のそばに仕える一条こと、唐橋咲子の姿が脳裏に浮かぶ。咲子とはあのひょんな出会い以来、この後宮に参上した際に数度顔を合わせた。いずれも職務中だったため、短い会話ばかりであったが、いつも自分に向ける明るく陽気な笑顔は、兼好に癒しを与えていた。だが五月に鎌倉に下ってからは全く会っておらず、その消息は全く分からない。きっと咲子も、先帝の崩御に深く心を痛めているであろうが。
 とはいえ今日この場を訪れた主目的は、むろん咲子ではない。基子に哀悼の意を表し、加えて帰京の報告をするためだ。なにせ一昨日戻ったばかりで、主人である大納言堀川具守の元にもまだ出向いていない。だが、蔵人の立場であった者として先帝の母君である基子にまず挨拶せねばと思ったのだ。
(門番すらいないのか……)
 玄関に立っていても、誰一人近づいてこない。とりあえずここに立ったまま待ち続けよう。すると、訪問者に気づいたのか、奥から近寄ってくる人影があった。徐々にあらわになったその姿に、兼好の目は吸い込まれた。
「兼好様ではありませんか」
「咲子さん!」
 目の前に現れたのは、咲子であった。
「兼好様、鎌倉からお帰りになったのね」
「ああ。一昨日戻って来たばかりなんだ」
「そう。それはご苦労様でした」
「ありがとう」
 咲子は未だに侍女のままだった。実に半年ぶりの対面である。だがいざ一目会うと、その長い空白を一切感じさせないのが不思議だ。同い年で、実家の家格にほぼ差がない兼好と咲子は、お互いの間に身分を意識することがなかった。鎌倉下向前の最後の対面の際には、二人の会話には宮中っぽい堅苦しい敬語がとれて、親近感溢れるやりとりを交わすようになっていた。
 だが、今はざっくばらんな会話に花を咲かせることが許せる状況にない。なにせ先帝の喪中である。対面の瞬間はわずかに笑顔をのぞかせたが、暗黙の了解のごとく、すぐに口元を引き締め、真顔をお互いに向けた。
 しばらく無言が続いた後、兼好は本題を打ち明けた。
「今日は、基子様に拝謁し、お悔やみを申し上げたく参上した次第で」
「承知しました。すぐにお伺いに上がるので、そこでお待ちになって」
 咲子は軽く一礼し踵を返すと、後宮の奥へと歩を進めていった。
(相変わらず美しい)
 喪中であり全くもって質素な装いではあったが、それでも咲子は気品あるおしとやかな雰囲気を保ったままだった。むしろ、身も心も慎んでいるからこそ、飾り気のない素の魅力が現れているようにも見える。そんなことをあれやこれや考えているうちに、咲子が戻ってきた。
「基子様からお許しがありました。お上がりください」
「お邪魔いたします」
 瞬時に兼好は、伝令に来た咲子に深々と頭を下げた。ここは形式的なかけあいだった。基子とのお目通りが許され、後宮内に足を踏み入れる。やはり、人の気配はなく、多くの侍女がことごとくここを去ってしまったようだ。
 兼好は基子のいる部屋に入室。咲子は入り口に残り正座した。
「兼好よ。よくぞ参った」
 上座に腰を下ろしていた基子が声をかける。真礼を直した兼好は、鎌倉より帰京したことを報告し、蔵人の職が解かれたことも伝えた。そして先帝後二条院の崩御を悼み、お悔やみの言葉を述べた。
「そなたの弔意に、心より礼を申す」
 基子からの直々の謝辞を、兼好は深々と頭を下げたまま聞いていた。すると、基子がぽつりとつぶやいた。
「先帝は、私の唯一つの希望だったわ」
 そっと天井を見上げた基子は、さらに続ける。
「朗らかにして聡明、和歌や漢詩にもすぐれ、賢帝になられると確信していたのに。先帝がいるからこそ、私は悲しみを抱えつつも生きてこられた。なのに、どうしてこんなに早く天は我が子をお召しになさったのか」
 瞬く間に基子の瞳が潤み、涙が滴り落ちた。我が子を失った悲しみはさすがに深く、急な雨のようにぽろぽろと零れる。後宮から去る人がとどまらぬ上に、弔問客も日を追うごとに減り、悲哀に満ちた胸の内を吐露する機会をなくしていたのだろうか。久々の弔問客となった兼好に対し、率直な思いがこみ上げてきたのであろう。
「心の支えであった先帝を失った今、私は不遇を嘆き孤独に打ちひしがれるのみだ。先帝の生母でありながら、私は先帝即位後も叙位はなく妃の号も与えられなかった。それは夫の後宇多院が私をそっちのけで姈子内親王を寵愛されたゆえの冷遇だった」
 ひとり言のように積年の思いを語り始めた基子。目まぐるしく話は飛躍したが、兼好は無言で耳を傾けるほかない。
「のう、兼好」
「は、はい」
「男というものは、なぜこうも移り気なのだろうか。夜を共にし永遠の愛を誓った女を、なぜに容易く置き去りにできるのかしら」
「それは……」
「情熱がほとばしる男ほど、あっさりと冷めてしまう。これでもかというほど冷たく、どれだけ思い続けても、再び燃えることはない。女は、男の何を信じればいいのであろうか」
 急な問いかけに、返す言葉が何も見つからない。
「ところがあの御方は私以外の女性を、その命果ててもなお愛し続けておられる。なぜこうも扱いが違うの?私には到底わからぬ」
 後宇多院の寵愛を一身に受けた姈子内親王は急病にかかり一年前に先立った。すると後宇多院はわずか二日後に出家し、内親王には遊義門院(ゆうぎもんいん)を追号した。その事実は広く知られているだけに、四十歳にしてなお「男の気持ちがわからぬ」と嘆く基子の怨念が、兼好の胸にも突き刺さる。
「すまなかったわね。急にこんなことを言われて、困惑したであろう」
「いえいえ、そのようなことは」
「話を聞いてくれて、少しばかり気持ちがほぐれた気がする。枯れるほどに涙を流すと、心は浄化されるようだ」
「それはようございました」
 お人よしの兼好は、他人の愚痴に付き合わされることは多々ある。それは信頼を得ているがゆえでもあるのだが。衣の裾で涙を拭ききった基子は、兼好をじっと見つめる。
「ところで、兼好。そなたに頼みがある」
「頼み、と申しますと」
「我が子を弔う歌を詠んでほしい」
 その一言に、兼好は口をぽかんと開けた。
「先帝の追善供養として、歌集を供えたいと思い、ゆかりのある者たちに頼んでいるところである。翌月十二月には提出するように」
「誠に有難いことでございます。かしこまりました」
 先帝の追悼歌集に自らの和歌を進呈するとは、誉れなことである。歌人としてはまだ駆け出しの兼好にとって、公式な歌集に自作の歌が載るのは初めてのことである。
(それにしても、先帝にゆかりがあるとは、なんとももったいなきこと)
 喪中の先帝の母君に対して、おおっぴろげに喜びを表すことはできない。表情を崩さぬまま心の中で感慨にふけると、居心地の悪さを覚えた。お暇する頃合いのようだ。
「それでは、私はこれにて」
 退出する旨を伝えたところ、基子は兼好の肩越しに視線を移した。
「これ、一条。兼好を見送るがよい」
「承知つかまつりました」
 咲子の声がした。兼好はなにげなく振り返る。一瞬咲子と目が合う。そのつぶらな瞳が、潤んでいた。
「申し訳ございませぬ」
 と呟くと、右手でそっと目頭を押さえた。心の支えである我が子を失った母の悲しみを思い、もらい泣きしていたのか。心と体を許した男に愛されなかった薄幸な女性へのやるせなさが、涙の雨をもたらしたのか。兼好は思いがけず、初めて咲子が涙にむせぶ瞬間を見た。
 基子の部屋を退出し、玄関に誘導されるまで、兼好はただ咲子の後ろ姿を見ている。
 涙の意味を全く問えぬまま、二人は正面口で向かい合った。
「基子様のお話、つらかったよね」
「うん。基子様がどれほど苦しい日々を歩まれたかと思うと……」
 二人の脳裏には、感情を抑えられなかった基子の慟哭の余韻が残っている。うつむいている咲子に、兼好が声をかける。
「これから、どうするんだい?ここを出るの?」
 咲子は小さく首を縦に振った。
「先帝がおかくれになってから、この後宮も大所帯ではいられなくなってね。基子様に長年仕える女房以外は、餞別を受け取って侍女を辞めることになったの。あ、以前あなたを試そうとしたあの嫌味なお頭もね。私も荷造りして、近々実家に帰るわ。兼好様は、さきほど蔵人を失職したとお話されていたけど、これからどうなさるの?」
 逆に咲子が問いかけた。
(職を解かれたことも、しっかり聞いていたのか。なんとも恥ずかしい)
 上目づかいで心配げな視線を向けられた兼好は、一瞬たじろぐ。
「まだ、わからない。堀川家には引き続きお仕えするから、とりあえず大納言様にご相談するよ」
「堀川様に……」
 咲子はそう言い、さらに何か言いかけたところで言葉を切った。
 失職してしまったことは咲子とはあまり話題にしたくない。そう思った兼好は、
「それでは、このあたりで。咲子さん、どうか息災で」
 とお暇を告げた。
「兼好様も。またどこかでお会いしましょう」
その言葉にうなずき、踵を返した兼好に、咲子が何かを思い出したように声をかけた。
「そうだ、追悼歌集のための歌を頼まれて、よかったわね」
「ありがとう……」
 兼好は素直に嬉しかった。帝を悼むという厳かな形ではあるが、自作歌が歌集に載ることは、歌人として小さな第一歩だ。そのことを分かっていたのか、彼女の心遣いがなんとも心地いい。
 つい兼好から、突っ込んだ一言が出た。
「あの、咲子さん。もう宮中でお目にかかることは、もうないよね」
「そうね」
「その代わりといってはなんだけど、文通しても、いいかな?」
 兼好は文通を申し込んだ。互いに宮中での仕事を失うことになるが、連絡は取り続けようという意思表示である。
「ええ。いつでも」
 咲子は即答した。うっすらと咲子の顔がほころんだ。口角がやさしくゆるみ、えくぼがのぞく。兼好は胸の奥がほんわか温まるのを感じた。
 いよいよお暇の時間だ。兼好は手を振り、手を振り返した咲子と別れた。 
 一歩、また一歩と、御所から遠ざかる。
 太政官庁で伝えられた蔵人の解職は衝撃だった。基子には苦しい心境を打ち明けられ、胸が張り裂けそうだった。なにかと慌ただしかった一日だったが、一人帰り道を進む兼好は、少し浮足立つのを感じる。
 何より、半年ぶりに再会した咲子と、今後も接点がつながったのだから。とっさに文通申し込みが口から出たのは、
(彼女のこと、もっと知りたい。さらに仲を深めたい)
 との純潔な思いが溢れかけたからだろう。
 それに、今日は咲子の初めての涙を見た。
 他人の悲しみをありのままに自らの心の鏡に映し、ただ素直に憐憫の涙を濡らした咲子。愛くるしい笑顔に象徴される天真爛漫な明るさの裏に、人の心の痛みに寄り添い共感の海に包み込む、母性に溢れたやさしさを見た思いがした。
 人をいたわり流す女性の涙は、こうも男の心を疼かせるものか。あの丸い瞳に湖畔が煌めくように光った涙は、「女性」のもつ美しさと奥深さを際立たせるような圧倒感が伝わった。
 同い年であり同じ堀川家の人間に深く関わってきた、それなりの縁がある咲子。兼好はそんな彼女を、ついにひとりの女性として意識し始めた。
(即位礼が終わったあと、文を書き送ろう)
 胸騒ぎがじわっと体中に沁みて力を届け、足取りを軽くさせる。気がつくと、小高い吉田山を背にぼーっと構える、ふとした空っ風でも揺れそうな古びた卜部家が見えていた。


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