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つれづれなる恋バナ 第一章 出会い【歴史長編恋愛小説】

あらすじ・序章はこちら

第一章 出会い


 京の都に、徳治三年(一三〇八)の春が訪れた。
 御所から西北の北野では、今まさに早春の喜びにあふれている。天神さま・菅原道真公を祀る北野天満宮の境内には、今年も梅の花がほがらかに咲き誇っている。
 本殿の参拝を終え、梅園の煌びやかさに目を奪われている一人の若者がいる。
「いつみても美しいなあ」
 思わずひとり言をこぼしたのは卜部兼好。このとき二十六歳である。朝廷に仕える官吏で、朝廷での序列にあたる位階は六位、宮中にて天皇の公私に渡るもろもろの用事を処理する「蔵人」という役職にあった。
 やや童顔ではあるが好奇心溢れる澄んだ瞳を見開き、さほど高くはない上背をできる限りに伸ばし、微風に揺れる梅の花びらに焦点を向ける。
(梅はすばらしい。早春に一重の花だけがひっそり咲くのもいいけれど、重なって咲く紅梅のその色の鮮やかなのも、どちらも素敵だ)
 目の前の紅梅の鮮やかさにふれ、心の中で素直な感想を呟く。日々目にし、耳にしている物事について、感じたことを素直に胸の内に言語化することを、兼好は習慣にしている。
 しばし梅を眺めるうちに、洛西の空に傾きかけている陽の光が目に入ってきた。夕暮れが近づいている。
「おっと。急がねば。法会の集合時刻に遅れてしまう」
 今日は二月十五日(旧暦)。この日北野を訪れたのは、決して私用ではない。梅を愛でるのはあくまで「ついで」に過ぎない。北野天満宮からすぐ東にある真言宗智山派の大報恩寺が真の用事先である。釈迦如来を本尊に仰ぎ「千本釈迦堂」との別名で知られるこの寺院で催される、十五夜の法会に兼好は出席する予定なのだ。その際、法師のありがたい説法を聴く、いわゆる「聴聞」が行われることになっている。
 西日に背を向け天満宮を後にし、四町(約四三〇メートル)ほど歩くと千本釈迦堂にたどり着く。集合時刻前に受付を済ませ奥の部屋で控えるうちに日没となり、あたりは暗くなり始めた。若い坊主に呼び出され、本堂に招かれる。
 法会はまず読経を行う。出席者に経典が配布され、重厚な読経の声が響き渡る。厳かな雰囲気のまま読経が終了すると、住職である法師が出席者の前に立ち、説法が始まった。
(大納言様にお伝えするため、しかと聴かねば)
 兼好は、確固たる役目を帯びて法会に出席している。風邪をこじらせて出席が叶わなかった主人の代理として、千本釈迦堂を訪れたのだった。 
 その主人とは、従一位大納言であり御所護衛部署のトップにあたる右近衛大将を兼ねる、堀川具守(とももり)である。兼好は六位蔵人として宮廷に出仕する傍ら、村上源氏の流れをくむ有力貴族である堀川家にもまた、執事に相当する家司(けいし)として働いていた。下級貴族が仕事を掛け持ちするのは珍しくはない。加えて、官位の低い卜部家にとっては、代々付き合いのある堀川家は後ろ盾として頼りになる名門だ。兼好の父・兼顕も家司を務めたことがあり、堀川家に奉仕することは実家の安泰にとって不可欠なことだった。
 出発にあたり、床に臥せていた具守から「説法をしっかりと聴き、その内容を詳しく伝えるように」と念を押されていた。ゆえに兼好にとっては今宵の聴聞は主人直々の業務であり、一字一句聞き逃すまいと、緊張感をもって耳を傾けていた。
 説法が始まり半刻(一時間)ほど経つと、夜の帳が下りて外はすっかり暗くなっていた。行燈に火が灯され、静まる本堂は法師の饒舌な声だけがこだましている。
 話もそろそろお開きになろうかという、その時であった。正座をする兼好の左わきに、忍び寄る人の気配がした。「誰かがきた」と感じつつも、兼好は振り向きはせず前方の法師に注目し続けた。すると次の瞬間、左膝に何かがふれた感覚が伝わる。兼好は視線を落とした。膝にあたったのは、女性の右膝であった。
(近い……)
 本堂には人がぎゅうぎゅうづめに混みあっているわけではない。聴衆の間にはそれなりに隙間があるのに、ひとりの女性が全く隙間を空けることなく、兼好の狩衣にふれるまでに接近して腰を下ろしたのだ。
 それだけではない。女性が身につけた装束にはお香が焚き染めてあり、ほどよい柔らかな甘い香りが鼻に伝わってくる。ますます居心地の悪さを感じた兼好は、「失礼」と周りの者には聞こえぬほどの小さな声を残し、腰を下ろしたまま膝をすって右横に退いた。するとどうだ、女性もまた膝をすりのき、ふたたび最接近して互いの衣をくっつけ合わせたではないか。
(なぜ……)
 困惑しながら兼好は、横をちらりと向いた。薄暗い中ではあるが、女性は背筋をぴしゃりとのばし、じっと前を見据えているのがわかる。長い黒髪が背中まで伸び、その横顔は凛としていて優美な雰囲気を感じさせる。くっきりとした二重の瞳をたたえ、鼻筋が通ったしなやかな輪郭。口元は少しばかりゆるみ、小さな微笑みを浮かべているように見える。
 その姿をほんの数秒見つめると、何も言葉が出てこなくなった。恥ずかしいやらぎこちないやら、いてもたってもいられなくなった兼好は、気がつけば膝を起こしていた。静かに立ち上がると、いまいちど女性を振り返ることなく、足音をたてずすり足で本堂の出口まで進み、そっと襖をあけて退出した。
 今宵はこのまま寺に宿泊することになっている。接客担当の坊主に案内され、割り当てられた奥の個室に入った。ここが寝所となる。
「いったいあの女性はなにゆえに……」
 横になった兼好は、あの女性の微笑みを含んだ横顔と、触れ合った膝の感覚、最接近した装束から漂った芳香の記憶が脳裏から離れず、いつまでも寝付けなかった。

 翌日。眠い目をこすりながら千本釈迦堂を後にした兼好が、洛中に戻り二条大路の堀川邸にたどりついたのは巳の刻(午前十時)のあたりだった。
「兼好、法会の様子はいかがであったか?」
 正面口に上がるや、兼好の来宅を待ち構えていたように立っていた堀川具守が、いきなり声をかけた。その姿に驚いた兼好は刹那に、
「大納言様、お風邪の具合は」と訊ねた。
「昨晩一晩ぐっすり休んだら、熱も下がってくれてな。このとおり、すっかり元気になった」
「それは何よりでした」
 たしかに、二日前に面会し法会の代理出席を仰せつかった時より、顔色はだいぶ良くなっているように見えた。
 具守は建長元年(一二四九)生まれの六〇歳だが、元々彫りの薄い顔つきのためか、皺は目立たず白髪もさほど多くなく実年齢よりも随分と若く見える。面長の顔に奥二重の切れ長の目、鼻筋は通っており、典型的な上級貴族らしい雅さを漂わせる風貌である。かつては色男として名を馳せていたのも頷ける。壮年になっても精気は盛んで今も公務の合間には蹴鞠に興じる程で、公卿たちと酒宴をたびたび開くなど社交的な面もある。
 だが、優雅さの影に悲しみもまた背負っていた。権大納言にまで上った嫡男の具俊が、五年前に三十一歳の若さで急逝したのだ。文武に優れ将来を嘱望された息子の死に具守は強く打ちひしがれた。その後、具俊の息男、すなわち孫にあたる具親を養子に据え後継者とする。具親は現在十五歳ながら左近衛中将の地位にある。
 息子の死は仏教への深い帰依を具守にもたらし、それゆえに千本釈迦堂の法会には毎年出席していたのだ。
「法会は多くの人々が聴聞に訪れておりました。住職様の説法は、仏道の真髄に迫る、とてもありがたいお話でございました」
「そうか。では続きは奥の間にてよろしく頼む」
 具守は、家司たちと雑談する際は奥の間を使うことにしている。主人の後に従い奥の間に入室するや、兼好は早速昨晩の法話の内容を話し出した。思わぬ出来事が身に起こり途中で退席したものの、退席直後に閉会となったため重要な論点は聴き漏らしはほぼなかった。一通りの説明を終えると、具守は満足そうに頷いた。
「ご苦労であった。ところで兼好……」
 いきなり話題が変わった。表情もみるみるうちに沈みがちになっていく。
「帝のご体調はどうだ?」
 帝とは、時の天皇、後二条天皇である。まだ二十四歳であるが、不調に陥ることがたびたびあった。蔵人として宮中に仕える兼好は、そのつど医師や薬師の手配に駆けまわっていた。
「はい。二月に入って早々に頭の痛みを訴えられて以来、横になられたままで」
「そうか。今日、基子に会いに後宮に参内する。すぐに準備せよ」
 具守は、御所内の後宮、すなわち天皇妃ら女官の住まいを訪問したいという。
「帝のご体調がすぐれないことで、母君としては不安で仕方ない日々であろう。なぐさめてあげたい」
「承知しました。すぐに牛車を用意いたします」
 堀川具守の娘・基子は、帝の生母である。文永六年(一二六九)に生まれ、十六歳の時に宮中に出仕。ほどなくして時の帝・後宇多天皇に見初められ、弘安八年(一二八五)に第一皇子・邦治親王を出産した。正安三年(一三〇一)に邦治親王が即位したことで、具守は堀川家で初めて天皇の外祖父(母方の祖父)となった。
 主人の牛車の用意は、家司である兼好の仕事である。手慣れたもので、拝命して四半刻(三十分)もしないうちに正門前に牛車を待機させた。娘を案じる具守は準備が整うやすぐさま乗りつけ、御所に向かい出発した。兼好もまた同行した。

 現在帝がお住まいなのは二条高倉殿である。二年前に皇居であった二条富小路内裏が火災に遭ってからここが御所となっている。父君の後宇多院(上皇)が即位した場所でもある。その後宮の一角に母君である基子が居住している。この時代は、たびたび火災し老朽化の著しい平安京内裏に代わり、天皇の住まいとして複数の邸宅が「里内裏(さとだいり)」として存在していた。
 御所に到着した具守は、基子と面会した。具守がすぐさま人払いを命じたため、殿中での父娘の会話に居合わせることはできないが、対面した際の基子はさすがに憔悴していた様子に見えた。我が子である帝のことがよほど気がかりなのだろうと兼好は察した。
 具守が退出するまで庭の間にて待機していた兼好に、縁台から声をかける者がいた。女性の声だった。
「おやおや、あなたは蔵人で堀川家家司の卜部兼好殿ではありませんか」
「はい、左様ですが」
 縁台に立つ女官は、基子に仕える女房であろう。中年の風貌で、四十歳になる基子とは同年代に見える。少々鼻につく言葉の調子から察するに、若い侍女を束ねる頭分の雰囲気が現れている。御所が移ってからというもの侍女衆は相当入れ替わっており、兼好にとってはこの女性は初見であった。だが彼女は兼好のことを知っている。
「御所で忙しく働いておられるのを、遠くから拝見しておりましたよ。ところであなた、昨晩は千本釈迦堂にいらっしゃったわよねえ」
「ええ、はい、よくご存じで」
 思わぬ言葉に、兼好は目をぱちくりさせた。なんと、この女性は兼好が前夜に法会に出席していたことを知っていた。一瞬、どういうことかと首を傾げた兼好だったが、すぐに思いついた。待合室での他の出席者たちの会話の中で、「法会には御所に仕える女官衆もいらっしゃってる」と小耳にはさんでいたのだ。なるほど、彼女もあの場にいたのだ。本堂には御簾がかかげられていたのだが、その奥に庶民の人目にさらされぬように宮仕えの女性たちが陣取っていた、というわけだ。
「うちの若い女が言ってたわ。あなたがつれない態度でがっかりしたと」
「つれない態度ですと?」
「情けを知らぬ男だと、恨み節をこぼしていたのよ」
「一体何の話でしょうか。そのような覚えはございませんが」
 急な身もふたもない話に兼好が困惑するのを見てか、侍女頭が右手を口に当て、フフフと笑い声を滲ませている。
(ああ、もしや!)
 兼好の脳裏に、昨夜の不思議な場面が蘇ってきた。
「せっかくあなたとお話がしたいと、勇気を出して近づいたのに、すぐにその場を去るなんて。新入りの一条に、可哀想なことをしたものねえ」
 にやりとしながら嫌味な言い草を吐くと、侍女頭は傍らにいた数人の若い女官を引きつれ、悠然と縁側を歩いて行った。その姿を呆然と見送った兼好は、恥ずかしさに支配され何も言葉が出なかった。
 昨夜隣に座った若く美しい女性は「一条」と呼ばれているらしい。私は彼女の純粋な気持ちを踏みにじったということなのか。しかし急なことであり、ましてや厳かな法会の最中だ。あの状況で私に何ができたというのだ。語りかけでもしたら、周りに不審の目を向けられかねないし説法の邪魔にもなるだろう。やはり私は、そそくさとあの場を去るしかできなかったはずだ。
 それにしても、私に近づきたかった一条という女性は、一体何者……
 昨夜の麗しい横顔が脳裏に浮かぶ。だがその女性の行動意図が全く分からない。兼好は、モヤモヤとした思いを重ねた。
 その時だった。
「卜部兼好様、ですね」
後ろから声がしたので振り返ると、
「ああ、あなたは……」
 庭の間に立っていたのは、まさに昨夜兼好に接近した女性・一条だった。兼好はすぐにわかった。あの時は横顔しか見えていなかったが、その整った目鼻立ちは強く記憶に焼き付いていたから。
 ただ、うっすらと微笑みをたたえていた前夜とは違い、今目の前にいる一条は神妙な面持ちだ。表情を必死に押し殺しているが、兼好をじっと見つめるその大きな瞳は煌びやかに見え、むしろ色気を漂わせる。
「昨晩は、無礼なことをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「無礼とはそんな」
 とっさに言葉を返した兼好だったが、たしかに一条の振る舞いは無礼といえば無礼である。だが、彼女が深々と頭を下げたので、その行為を咎める言葉は一切出ないし、思い浮かべもしなかった。
「大変不快な思いをされたのではないかと、気をもんでおりました。いずれ卜部様にお会いできたらお詫びしようと思っていたら、まさかこんなに早くお目にかかるなんて」
「はあ、私も驚いております」
「実は私、あなた様を試そうとしたんです」
「試そうと?」
「昨晩御簾の奥から説法を聴いておりましたら、お頭から『あの殿方のそばに行って来い』と」
 一条は、先ほどの高飛車な侍女頭からの命令で兼好のそばに寄ったのだというのだ。思いもよらぬ告白に、兼好は口をぽかんとさせている。
「卜部様に限りなく近づき、うろたえてどんな見苦しい言葉を吐くか、聞いてきなさいと。後宮においてはお頭の指図は絶対で、新入りの私はどうしても断り切れなくて。お頭はあなた様がどんな御方かを見極めようとされたのです」
「なぜそのようなことを、なさるのでしょう」
「侍女の間で流行るのは、殿方の噂話ばかり。特に帝のそばに仕える蔵人の方々はしばしば遠見され、立ち振る舞いについてあれやこれやと話題にされるのです」
「それで、私を品定めしようとあなたを遣わせたと」
 兼好は合点がいった。美女が真横に接近するとどんな言動をとるのか、試したということか。もしうろたえて挙動不審な言葉が漏れたら女に慣れていない腑抜けな男、口滑らかに語りかけでもしたら軟派でだらしない男だと決めつけ、話のネタに盛り上げようとしたのだろう。そのためにこの美しい新入りの侍女が使い走りにされたのだ。なんとも解せぬ風習である。
「卜部様は蔵人の間では博識で和歌にすぐれ、大の読書家だと伺っています。だから女を添わせて粗探しをしたかったのかもしれません」
「和歌は権大納言の二条為世(ためよ)様に師事しておりまだまだ未熟。勅撰集に入選しないととても一人前とは言えません。確かに本を読むのは大好きではありますが。ところで先ほどお頭どのは、あなたが私のことを情けを知らぬ男だと言ったと……」
「そんなこと、私が言うわけがありません」
 一条はうわずった声で、首を数度横に振った。
「お頭は、あの時卜部様が何も言わずに立ち去られたので、つまらない殿方だと思われたのかもしれません。いつも適当なことをおっしゃる方なのです」
「そうでしたか。それは失礼いたしました」
 今度は兼好が頭を下げた。だが、兼好には内心安ど感があった。このような美しい女性に悪口を叩かれたら、男ならかなり堪える。彼女がそんな類の愚痴をこぼさなかったのは一安心なことである。
 顔を上げると、そこには、先ほどまでの神妙な面持ちとはうって変わった、屈託のない透き通った笑顔があった。
「申し遅れました。私、咲子と申します」
「え、さきこ?」
 釈明は済んだとばかり、彼女は改めて自己紹介したのだ。大きな瞳が三日月を形どり、兼好を見つめている。口元にえくぼがくぼみ、それがまた可憐さを引き立たせる。兼好は一瞬ぐっと息をのんだ。
「どうされました?」
「急に話題が変わって驚きまして。名を名乗っていただきましたが、たしか宮廷では一条の名で通しておられるのでは」
「あ、そうでした。こんな場所で実名を名乗るとは、失礼いたしました。はい、実家が一条大路沿いで、なおかつ一条戻橋の近くにあるものですから、ここではそう呼ばれております」
 落ち着かない口調になった一条が、言葉を返した。たしかに御所内において、女房の立場にあるものが本名を名乗ることはありえない。うっかり本名を口走ってしまい、恥ずかしそうにうつむいた。
(かわいい……)
 兼好は正直にそう思った。この女性は、美しい見た目からは想像しがたいが、実はおっちょこちょいで、ちょっと抜けているところがあるのかもしれない。
「いいんですよ。お顔を上げてください。咲子さん」
「えっ」
「咲子。素敵なお名前ではないですか」
 兼好の言葉が意外だったのか、彼女はきょとんとしている。
「花が咲き誇るような、美しくまた愛嬌のあるお名前です。あなたに良く似合っている」
「嬉しゅうございます」
 実名で呼ばれた一条が、顔をほころばせる。名前を称えられたことが、素直に嬉しいようだ。
「実は昨日、北野天満宮で梅を見てきましてね。見事に咲く梅の花を見たばかりでしたから、あなたのお名前につい反応してしまった」
「そうでしたか。私たちも昨日天満宮にて梅見をいたしました。とても美しゅうございましたね」
「あなたは、その名に相応しいお方ですね」
「まあ、お世辞がお上手なのですね」
「これからは、咲子さんとお呼びしてよろしいですか」
「あ、はい、それは喜んで」
 口元がさらに緩み、白く並びの良い歯を見せた咲子。両頬は柔らかげに膨らみ、口元にくっきりと浮かんだえくぼがなんとも魅力的だ。文字通り、笑顔の花びらが咲いている。
 それからしばらく、咲子は少しばかり身の上を話した。彼女は唐橋家という家格の低い一族の娘で、祖父の代から洛中と洛外を分ける一条戻橋付近に住んでいるという。そして年齢は二十六歳。兼好と同い年だった。これほどの美女なのに、この時代の結婚適齢期を過ぎてもまだ独り身を貫いている。
(こんなに美目麗しいのに、これまで浮いた話はなかったのだろうか……)
 会話に花を咲かせながらそんな思いがよぎったその時、縁台から声がした。
「帰るぞ、兼好」

 振り返ると、帝の生母たる娘・基子との面会を終えた具守がいた。
「あ、はい。すぐ支度をいたします」
 そう返事をした兼好の隣にいる女に、具守の目がとまる。
「おや、そのおなごは……」
「基子様の侍女としてひと月前から仕えている、一条と申します」
 今度は咲子はちゃんと通り名で名乗った。
「ほう、そなたが一条か。最近美しいおなごが侍女として入ったと基子が言ってたが、そなたのことだったか……」
「それはもったいないお言葉」
「ふふふ、物言いも淑やかだのう」
 具守は興味深げにじっと咲子をじっと見つめる。六〇歳ながら、美しい女性を見下ろす表情には、若者と変わらぬ無邪気さを醸している。
「ところで、ここで二人して何を話しておった?」
「それは」
 後宮において侍女と蔵人が長い立ち話をするのは、本来は憚られること。兼好はいかがわしい会話でないことを証明するため、会話内容をありのままに話すことにした。
 相手は主人であり大納言だ。嘘いつわりは一切できない。昨晩の千本釈迦堂での一幕も、正直に語った。
「ほほう、侍女の頭分から素性を試されたとな。そういうことがあったのか」
「はい。幸い大ごとにはなりませんでしたが」
「昔々、わしにも同じようなことがあった。ひやひやしたものだ」
 具守は上を見上げながら、若かりし日の出来事を呟き始めた。
 現在の後二条帝の祖父にあたる亀山天皇の時代のこと。御所に出仕したある日、具守は 女官から「郭公(ホトトギス)の声は、もうお聞きになって?」と質問された。とはいえ郭公が鳴くにはまだ早い季節だ。とぼけた回答をしてしまうと、女官たちの格好の笑い話にされてしまう。そこで具守は「私の別荘がある洛北の岩倉あたりで鳴いているのを聞いた気がします」と答えた。これをもって女官たちから「堀川殿は当たり障りのない無難な答えをされる」として評価されたのだ。
「わしが思うに、女は男以上に格付けをしたがるものじゃ。笑われると惨めなのは、男ならみな同じだ」
「ではこの度の私は、笑いの種にされなかった分、ましだったということでしょうか?」
「そういうことじゃ。女に嘲笑されるようでは男は決して成功できんからな。ともあれお前も女どもの噂に上るようになったということ。いい傾向ではないか。この調子で精進いたせ」
 朝廷に出仕してもうだいぶ月日が経つのだが、兼好は自分のような下級役人がこのような「貴族の洗礼」を受けるとは思いもしなかった。仕事ぶりが評判に上がっているのだと、前向きに捉えることにしよう。
 堀川家の主人と家司が、女官による厳しい男の品定めについて話すその間、咲子は会話をじっと聞いていた。そしてひと段落したところで「では私はこれにて」と言うと二人に向かって深々と頭を下げ、つかつかとその場を去った。
 その後ろ姿もまたしなやかで、美しさを漂わせていた。兼好はしばし見つめていたが、具守が目配せをするのに気づくと、すぐさま帰り支度にとりかかった。
 こうして、主人堀川具守を乗せた牛車は後宮をあとにした。車の脇に寄り添い歩く兼好は堀川邸へ帰る道中で、天真爛漫な笑顔をふりまく咲子と、その周りで早春の紅梅が囲みやさしく風にそよぐ光景を、頭の中で描いていた。


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