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つれづれなる恋バナ 第四章 月夜に君は【歴史長編恋愛小説】

第四章 月夜に君は


 無官のまま、卜部兼好は年を越した。
 新帝・花園天皇の即位に伴い改元され、迎えた年は延慶二年(一三〇九)である。この冬は異様に寒く、京の都では二度も膝あたりまで積雪するほどであった。
 朝廷への勤務がなくなったことで、兼好はこの冬の間は自宅と堀川家を往復するのみの日々だった。兼好は例の離れ舎で主人、堀川具守に課せられた秘密の業務をこなした。その回数、三度。前年十一月に、具守が咲子へ手紙を初めて送った後、二度代筆業務を請けた。つまり、具守と咲子の間に文のやり取りが三往復あったことになる。二通目は十二月、三通目は年が明け一月に清書した。
 三月に入って数日が経ち、堀川家に出仕した兼好は、具守より離れ舎に入るよう命を受けた。それは四通目の文を作成することを意味する。
 入室するや、具守はすでにいた。立ったまま、下を指さして言った。「今回の下書きじゃ。よろしく頼む」
「かしこまりました」
 四回目となると、業務依頼はなんともあっさりとしている。文机の上にはすでに下書きと清書用の紙が揃い、準備は整った状態だ。
(今回はどんなことが書いてあるのか)
 文机の前に腰を下ろし、兼好は下書きに目を移す。
 二通目、三通目の内容は、己の近況を書き記した短いものであった。ちょうど年末年始にあたり、慌ただしい家中の様子を綴っただけのものである。
(彼女はどんな文を返したのだろう)
 咲子が送った返信を、兼好が目にすることはない。元上司の父親である人物から届いた文に、どんな思いを抱いたのだろうか。具守の二通目の文には冒頭で、咲子が迅速な返信をしたことを喜んでいた。大納言から文が届くのは誉れなのだから、最初の返信では、丁寧に謝意を表明したはずだ。その後の二、三通目は具守と同じく、身の回りの近況を素直に書き綴ったのだろう。
 今回、具守は何を書いたのか。兼好は下書きを目でなぞってみる。相変わらずここ数日の出来事を綴っていたが、中盤にこんな一節が飛び込んできた。

八月、北白川にぜひ参るがよい

 北白川とは、先帝・後二条院の陵墓がある場所である。八月に北白川陵にて、一周忌の法要が営まれる予定になっている。
 率直な疑問が、兼好の口を突いて出た。
「先帝の法要に、一条どのを招くということでしょうか」
「そうだ。何かおかしいかな」
「いえ、そういうわけではないのですが。珍しいことと思ったまでで」
 具守は先帝の外祖父として、法要の式次に対し発言できる地位にある。それを利用してか、女官だった咲子に出席を促すつもりなのだ。帝の母の侍女という低い身分で出席を認められるのは異例なことである。
「一条だけでなく、他の元侍女にも数名声をかけるつもりだ。何も不自然なことはない。女房たちの近況を案じている西華門院も喜ぶであろう」
 具守の弁明に、兼好は頷くしかない。
 西華門院は、基子の院号である。先帝後二条院の生前には位階を与えられず不遇をかこっていた基子は、新帝即位礼後の延慶元年十一月にようやく従三位に叙され、十二月に准三宮・院号宣下され西華門院を名乗ることになった。またこのころに出家し、後宮にほど近い小さな館にひっそりと暮らしている。
 ともかく、咲子が先帝の法要に列席することで、具守は咲子との対面が叶うわけだ。
(法要をもって、先帝の喪が明ける。この日を機に、想いを打ち明けられるのか)
 具守の思惑が見えた気がした。「先帝の外祖父が喪中に若い女に熱を入れた」と噂にでもなれば堀川大納言具守の名誉に傷がつきかねない。喪中期間はただ文通を続けることで咲子との関係をつなぎ止め、喪明けと同時に、恋心を露わにしてあわよくば一線を超える……そんな算段なのであろう。
 よってこの時点での咲子との文通は、誰にもばれてはいけない具守と兼好のみの秘密事なのは合点がいく。
 さらに兼好が察するに、固く秘せられる理由はもうひとつあった。
 具守の正妻である二条景子の目にふれさせないためだ。景子は兼好の和歌の師・二条為世の弟為雄の娘で、具守とは二十六歳離れた三十五歳である。十九歳の時に正妻として嫁いだものの、具守との間にいまだ子はいない。景子は名家の出ゆえに、堀川家の中では厚遇を受けた。しかし子に恵まれなかったためか夫・具守が他の女に目移りするのを許さず、その嫉妬深さに具守は辟易している。
「景子のせいで女を抱くことがままならず、寂しいものよ」
 兼好はそんな具守のぼやきを何度もなく聞いていた。景子を嫁に迎えてから十五年間、具守は妾をひとりも娶っていない。
 具守には景子と結婚前まではそれまでに何人もの妾がおり、早世した嫡男・具俊は妾の子である。また、西華門院基子は具守の次妻の娘である。年下の継母である景子とは馬が合わないらしく、二人が面と向かって話すところを兼好は見たことがない。夫からいまいち愛されないという点では共通しているのだが。
 若き日は色男として朝廷内で鳴らし好色ぶりを示してきた男が、老境に差し掛かり再び恋熱に身を侵されつつあることを、正妻景子はまだ知らない。一人の美しい女に心焦がれていることを。その女を抱きしめる瞬間をすでに見定めていることを。
「では、速やかに清書せよ」
 具守が号令した。もう兼好は筆を動かすほかない。与えられた仕事を忠実にこなすのみだ。
(咲子さんに「自分自身の文」を書き送りたい。会いにも行きたい。でもこれでは何もできない)
 心の中で、思わず本音が漏れる。咲子と最後に会ってはや四ヶ月。彼女を思う心はしぼむどころか、しっかりと灯り続けている。
 会えない時間は、寂しさと引き換えに愛を育てる、尊い時間である。
 ところが現実は、同じ女性に恋した主人のために、筆を通して尽くしている。
 虚しい思いを飲み込みながら、一文字一文字、丁寧に主人の思いを綴っていく。その優しくもはきはきとした字体は、兼好の心情とはまさに正反対だ。不思議と、普段よりも丁寧な字が書けている。それは、この書が彼女の目に届いているからなのかもしれない。咲子には、下手な字は決して見せられない。
 そんな兼好の心中など知らぬ具守は、兼好が織りなす達筆を、満足そうに見つめていた。

 日輪が灼熱の光を放ち続けた延慶二年の暑い夏が去り、かわりにのどかな秋が到来していた。今日は涼しげな風が心地よく体に伝わる、初秋の晴天だ。
 北白川の後二条天皇陵にて、先帝の法要がしめやかに営まれた。父君の後宇多院ら大覚寺統の皇族が出席。先帝の異母弟でのちに第九十六代後醍醐天皇となる皇太子・尊治親王の姿もあった。だが、公的な儀式ではないため持明院統に与する皇族や公卿、官人らは出席を見合わせている。ここでも、朝廷の派閥構造が如実に反映されていた。
 法要が終わり、出席者は陵墓を後にしている。後二条院の外祖父の立場から、有力出席者の見送りに忙しい堀川具守は、卜部兼好にある指令を出していた。
「一条を探し出し、連れてまいれ」
 この法要に参じ、末席に列していたはずの唐橋咲子を呼んで来い、というのだ。
 会場の周囲に敷き詰められた幔幕の中に、まだ咲子がいるのは間違いない。大納言具守から直々に参列を勧められたからには、当然挨拶をせねばならない。文通を繰り返してきた具守と咲子が、ついに対面することになる。
 そしてそれは兼好にとっても、待望の再会となる。きょろきょろを前後左右を見渡しながら、兼好は咲子の姿を探した。その姿を捉えるのに、時間はかからなかった。咲子は本当に末席にいたようだ。出入り口付近の幔幕を背に、たった一人で立っていた。
「咲子さん……」
「ああ、兼好様、しばらくでございました」
「久しぶりだね」
 昨年十一月以来、実に九ヶ月ぶりに顔を合わせた。相変わらずの優美な微笑みを浮かべていた。その瞳の色に、いきなり兼好はとろけそうになる。
「お元気そうでよかったよ」
「そちらこそ」
 それっきり二人の会話は続かない。ここは後二条院の法要の場だ。先帝の思い出話をして話題を繋げることもできようが、さすがに先帝を話のネタにするのは畏れ多い。
 それに、兼好にとっては一番聞きたいことを尋ねることは、どうしてもできない。咲子が、具守のことをどう思っているか。そして自分のことをどう思っているかだ。そもそも、
(大納言様からの文を私が代筆していることを、咲子さんは知らない。そして彼女は、私の主人と密かに文をかわしていることを、私は知らないと思っているだろう)
 具守との文のやりとりを、堀川家で知る者は兼好と手紙を届ける下男のみだ。さらに、先月咲子に充てた手紙には、「この文通は我が家の者は誰も知らない。私の周囲のことなど気にせず、自由気ままに書くがよい」と記されている。無論、実際にそれを書いたのは兼好だが。
 逆に咲子の方はどうか。下男は咲子に直接手渡しているようだが、咲子は文の差出人が堀川大納言であることを、両親に伝えているのか。もしそうであれば、名家堀川家と接近する好機とみて、咲子の背中を押しているのであろうか。文通が着実に続いている以上、そう邪推せざるを得ない。
 逆に、咲子からの文を届ける唐橋家側の下男は、堀川邸に着くと、書状を管理する執事室に手紙を納める。つまり、兼好の手元に届く。それから兼好は誰にも見つからぬよう、こっそりと手紙を具守に手渡す。こうして、この文通の秘密は厳守される。絶妙と言えば絶妙な仕組みである。
 沈黙を破ったのは、咲子だった。
「西華門院様にさっき久々にお目にかかったの。まだお気持ちは辛そうだったけど、ご息災で何よりだったわ」
「それはよかった」 
 咲子は後宮を出て以来初めて、西華門院基子と対面した。先帝を失った悲しみが癒えぬであろう基子は、今日の法要では気丈にふるまっていたようだ。すでに退出したという。
 ようやく会話のきっかけができた。兼好は話題を思いついた。
「咲子さんは、まだどこにも出仕していないの?」
「うん。家にこもって、本を読んでいるわ」
「本を?」
「時間つぶしにね。今さらだけど、兼好様みたいな読書家になろうと思ってるの」
 咲子は自分にあやかって読書に励んでいるとのこと。兼好は単純に嬉しくなった。
「どんな本を?」
「ええと、『古今集』とか、『枕草子』とか、あと『源氏物語』も……。宮仕えする前にも教養として読んではいたけど、今読むと面白いわ」
「読書って、そういうとこあるよね。あとになって面白さがわかるってことが」
 会話が弾みだした。読書という自身最大の趣味を咲子と共有することは、気持ちがこうも弾むものか。兼好は火がついたようにさらに饒舌になる。
「読書が素晴らしいのは、その作者と心が通じ合えることなんだ。夜に燈を灯して静かに読んでいると、実際に会ったことがないのに、友達のように感じてしまうことがある。それが紀貫之だろうが、清少納言だろうが、ましてや紫式部だろうが」
「それ、分かる気がする」
「おすすめはまだあるよ。『文選』とか『白氏文集』、『老子』や『荘子』もいいよ」
 知識をひけらかす兼好を、咲子は興味深そうに聞いている。なんて愛しい時間だろう。こんな時間が永遠に続けばいいのに、だが次の瞬間、現実に突き戻すかのように、あの人物の顔が浮かんだ。堀川具守の顔が。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「大納言様が、咲子さんをお呼びだった」
 兼好は咲子との久々の会話に夢中になった挙句、要件を忘れかけていたのだ。
「あら。すぐにお目通りしなきゃ」
 咲子は急にかしこまった顔になり、伏目がちになる。これから高貴な人物に対面する、という心づもりを急速に整えているかのようだ。
「どこにいらっしゃるの」
「案内するよ」
 兼好は談笑する出席者たちの群れをかいくぐりながら、咲子を先導して前に進む。群れを抜けた先に、堀川具守が静かに立っていた。
「久しぶりであったな、一条よ」
 具守は笑顔で迎えた。
「このたびは、私のような者に法要参列を許していただき、誠にありがたく」
 神妙な面持ちで、咲子は頭を下げる。
「元気そうで何よりじゃ。後宮を出たそなたのこと、気にしておったぞ」
「ありがたいお言葉にございます」
 公卿衆を見送った際にはかしこまった表情を崩さなかった具守が、みるみる顔をほころばせる。三十四歳年下の女を見つめる切れ長の目の奥は、じわじわと煌めき出す。それにつられたのか、咲子の口角がゆるみ、うっすらとした微笑みが顔に表れる。
 六十一歳の具守の「想い」が、あからさまに空気中に伝わる。咲子はゆっくりと視線を上げ、老齢ながら長身の大納言を見上げる。ふたりが目を合わせた瞬間を、兼好は直視できず横目でちらりと捉えるのみだった。
 ふたりは見つめ合っている。文を重ね、待ちに待った対面なのだ。きっと、具守にとっては永遠に感じるはずだ。対して、咲子は、何を思うのか。
「本気なの?」
と、具守の目を見ながら確かめているのであろうか。きっとそうに違いない。
 先ほど咲子と読書の話で一瞬盛り上がったのは、あくまで良き友人としての趣味の会話に過ぎないのだろうと、兼好は感じないわけにはいかなかった。その時より、明らかに咲子の顔に宿る緊張感が違うのだ。きっと、その胸ははげしく鼓動を打っているのであろう。
(彼女も、意識している……)
 兼好の目の奥に、白い旗が揺れている気がした。すでにこのふたりの文通は九往復している。直近の文では、

 九ヶ月ぶりに、そなたと会うのが楽しみである。それまで、身体に気を付けて過ごすがよい。

 との言葉を添えていた。直線的な想いを述べたのはこの一言のみだったが、控えめながら、「気持ち」は十分ににじむものだった。
 そして今日、ふたりは再会し、じっと見つめ合っている。
 それは三秒ほどだった。兼好にとっては、心の臓が激震するような三秒間だった。
 そっと視線を下に戻した咲子に、具守はこう告げた。
「近い内に、また会おう」
「はい」
 目を伏せたまま、咲子は応じた。
「では、これにて」
 咲子は最敬礼し、踵を返すと、兼好には目を向けることなく足早に去っていた。その足取りは女性にしては早く感じたし、バタバタと足音を刻みつつ、ふと浮足が立つような奇妙な歩き方であった。その様子を、具守の横で見た兼好は、
「心がそわそわしている」と感じた。「恋する女子」が見せる、恋した瞬間のぎこちない動きを、咲子の後ろ姿に見た。
(かわいい……)
 だがそのかわいらしさは、自分に対するものではないことは明白だった。
 咲子が帳幕をくぐり外に出たのを見届けた具守は、「兼好、片づけを始めよ」と会場の撤去を指令した。その顔は、満足感に溢れていた。
 祭壇に目を移すと、僧侶らが撤収を始めている。堀川家もまたその一団に加わり、作業を手伝うことになっている。家司である兼好もその中に入らねばならない。湧き上がる思いを抑えつけるように、兼好は作業に没頭した。
 こうして、滞りなく先帝の一周忌法要は終了した。
 この日は、兼好、具守が咲子と再会した日となった。そして、六十一歳の具守と二十七歳の咲子の恋がついに動き始めた瞬間でもあった。

 それから三日後。兼好は具守から、十通目の代筆を命じられる。
 離れ舎にいるのは、兼好一人だ。このころになると、具守は兼好が入室すると、「よろしく頼む」と一言だけ残して立ち去っていた。兼好の作業を見守ることはもうない。想い人への文を完璧なまでに清書する兼好の働きぶりを評価し、信頼を置いている証である。
 いつも通りに下書きを目を通していたが、具守の筆勢はいつもと全く違っていた。
(字が躍っている。字が恋心を語っている)
 それは今までにない、清々しく躍動した字だった。

 先日は久々に一条と会い、胸が躍るほどであった。そなたは一層美しくなった。
 一条に会いたい、との思いに支配され、一日があっという間に過ぎていく。そなたが今何をしているか、想像を膨らませるだけで、どれだけ幸せなことか。
 私の喜びの最たる時は、一条を見つめる時である。満月の夜、そなたと同じ空間にいて月を愛でることができたら、どれだけ幸せだろうか。

 読んで恥ずかしくなるほどの率直な思いに彩られている。ついに心の奥底に秘めていた思いを、具守はあからさまに吐露してきた。
(大納言様は、本気で恋をしておられる)
 その文面だけでない。若さを取り戻したかのような太くはきはきとした字が、本心を語っている。朝廷の最上位階級にいる者が、恋に一直線なただの青年男子のように心を弾ませている。
(もう諦めねばならない)
 本気な主人を前に、兼好の胸の紙面に薄黒色の絶望感が染みわたる。
 さらに今日は、手紙だけではない。贈り物として、絹、綿を届けるという。別宅の蔵から直接運ぶようだ。咲子は一人娘で、実家の唐橋家は下級も下級の貴族であり、父親はいまだ六位の身分である。大納言からの差し入れは、大変ありがたいはずだ。
 そこまでして、具守は咲子の心を射止めたいのか。
 不思議にも、筆は進んだ。具守の熱き心にのって、兼好の筆は艶めかしく動いた。いざ仕上げてみると、鋭くも鮮やかな健筆で表現された、最高の恋文となった。これまで積み重ねた十枚の代筆で、最も出来栄えのよい「作品」となった。
 兼好は、仕事をした。

 夜のとばりが下りたころ、空にはふんわりと丸い月が浮かんでいる。兼好は堀川家日誌を開き、九月十五日の欄に、「この夜某家にて月見会に参じる」と記す。日誌の記述と管理は、執事たる家司の重要な業務だ。
(決して間違ってはいない)
 主人・堀川具守の動静を正確に記述しなければいけないが、初めて「灰色」の事実を記載した。苦渋に満ちた表現であった。
 確かにある人と月見を楽しむことには変わりはない。だが、その相手はたった一人だけだ。今後も、もっともらしい理由をあれこれ思案して、灰色の記述を続けないといけないのだろうか。
「兼好。牛車の用意はできたか」
 執事室を訪れた具守が尋ねる。はやる気持ちをぐっと抑えているのが見て取れる。
 黒烏帽子と白い直衣(のうし)姿の具守は、長身が際立ち、薄暗い中では壮年には見えない。真新しい衣装に身を包み、精一杯の若作りをしている。
「はい、そろそろかと。とにかく、正門に参りましょう」
 兼好はそう答え、具守を伴い、正門へと進んだ。すでに牛車は待っていた。
 二条大路の堀川邸を出た牛車は、夜道を北に進む。今宵の都路はとても静かだ。みなそれぞれの自宅にいて、満月を眺めているのだろうか。
 そして咲子も、満月を見上げながら、具守の到着を待っているのだろうか。
 烏丸小路を上り、都の北端、一条大路を左折すると、ほどなくして唐橋邸が現れる。大路に面した正門に、松明を握った壮年の夫婦が立っている。初めて見る、咲子の両親である。先導役の兼好は牛車を止めると、御簾を開けた。
「大納言様、お待ちしておりました。さあ、中へ」
 父親が手招きをし、具守が牛車を降りる。すると具守は、
「兼好のみついてまいれ」と言って、兼好だけを従わせて邸宅の中に入った。ここに来た本当の目的を知るのは兼好のみである。他の従者たちに、咲子と遭遇させるわけにはいかないのだ。従者たちは、具守と咲子の逢瀬の間ずっと、外で待たされることになる。
 咲子の両親に案内され、正面口に入った具守と兼好は細い縁廊を歩く。古い邸宅なのだろう、ぎいぎいときしむ音が静かな夜に響く。いくつかの部屋の前を通り過ぎ、奥の突き当りの一室の前に、打掛姿の咲子が正座していた。
「先日は大層な贈り物を賜り、心より御礼申し上げます。今宵は大納言様のお越しを心待ちにしておりました」
 咲子は明らかに緊張の面持ちで挨拶をした。具守は立ったまま、包むように咲子を見つめる。二人の瞳と瞳が向かい合うのを、兼好は口元を締めつけながら目に焼き付けると、一歩下がって真礼した。
「一条よ、今宵のそなたはすこぶる美しい。さあ、中に入ってゆっくり話そうではないか」
「はい」
 具守に促され立ち上がった咲子と、兼好は目が合った。閉ざしていた咲子の口元がわずかに開く。そしてそっと視線を下へと逸らした。ほんの一瞬だった。兼好を見て何を思ったか、兼好には分からなかった。ただ、不安げな表情には見えた。
 具守はやさしく咲子の肩に手をかけ、高坏灯台で明るく灯された部屋へ二人は吸い込まれていく。そこは今宵の愛の園となる。
 その間、兼好は縁廊でひたすら待たねばならない。膝をすらして後ずさりし、姿勢を整えなおして正座する。それは、愛欲の深い海に溺れる二人の囁き声がちょうど聞こえなくなるほどの距離だと判断した地点だった。
 二人の話し声が微かに聞こえる。内容は分からない。そこに女中が酒膳を運び入れにやってきた。これから咲子が酌をし、夜空に光る満月を眺めながら、言葉を交わし合うのだろう。半刻(一時間)ほどすると、遣戸(やりど)と呼ばれる引戸が閉められた。兼好はぐっと息をのんだ。ついに二人が体を重ねる時が始まる。
 それからの時間は兼好には、過ぎるのがとてつもなく長く感じた。戸が固く締められたこともあり、二人が愛を交わす部屋からは何の音も聞こえてこない。代わりに、兼好の中の胸騒ぎが止まらない。
(咲子さん、今何を思っているのか。いや、思う暇もないほど、無我夢中に快楽の世界に浸りきっているのだろうか)
 そんなことをだらだら思念する自分が、情けなくなる。しばし居眠りでもしたいところだが、なぜか目が冴えわたっていて全く眠気が起こらない。
 満月が照らす秋の夜空を見つめながら、ひたすらに時間の経過を待った。それは人生でも未だかつて経験のないほどの長い、長い、長い時間だった。
 一刻(二時間)が過ぎたころ、ついに引戸が開く音がした。具守と咲子が肩を並べて出てきた。兼好は背筋を伸ばし、ゆっくりと首を垂れる。
「待たせたな兼好。これより引き揚げる」
「かしこまりました」
 具守の号令を受け頭を上げた先には、愛の営みを終えた男女の恍惚に溢れた表情があった。具守の左手は咲子の腰元をやさしく添えている。咲子は右手を具守の左腕に絡ませ、その顔を具守の胸元に寄せている。咲子の火照った頬が、具守の純白の直衣と艶やかに調和する。熱い情交のあとに漂う残り火を二人で温め合っているかのようだ。
 二人は十分な余韻を楽しんだのだろう、こぼれる笑顔は爽やかさすら感じさせる。部屋に入る直前は不安げな表情を見せた咲子は、今は愛し合った後の充足感に満ち、瞳の奥を輝かせている。
「大納言様、今宵は楽しゅうございました」
「一条、またここに参るゆえ、達者に暮らせ」
 二人は名残惜しそうにお互いの体を離した。咲子は外に出ず、この場で見送る。兼好は咲子に軽く会釈をした。そして縁廊を進む具守から三歩下がって後に続いた。廊下のきしむ音を聞きながら、咲子は具守らが玄関口に着くまで、じっと見守っていた。
 外に出ると、牛車の前に腰を下ろし待ちくたびれていた従者たちがはっと立ち上がった。すうっと開いた御簾を、満悦の表情を崩さぬ具守がくぐる。兼好の先導で、牛車は静かに唐橋邸を後にした。
 ついに咲子は、堀川具守の女になった。その瞬間を、兼好は見届けた。それは、兼好のほのかな恋の絶望を意味した。兼好の脳裏に、主人と愛を交わした咲子の狂おしいほど至福に満ちた面持ちがいつまでも離れない。
(これでよかった、これでよかった)
 兼好はそう言い聞かせるほかない。
 見上げると、今宵の逢瀬の全てを見届けた満月が、微笑んでいるのかふてくされているのか分からない、曖昧ににじんだ丸みを見せていた。


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